ビザール沖縄
──石川竜一の作品についての少しのコメントと、多くのボヤき

土屋誠一(美術批評家)
沖縄本島の「ストリート」を考えるにあたって、昨年末に刊行された石川竜一の写真集を手掛かりにしてみたいと思うが、その前に迂回をしてからにしたい。ストリートを語るにはフラヌールの態度が文章にも必要なのだと断言できたならカッコいいかもしれないが、そういうディレッタンティズムのための迂回ではない。那覇に居を移してからもう7年目に入ったが、沖縄について語るときには、どうしても饒舌になれず、逡巡が付きまとう。そんな書き手の逡巡に付き合わせなくてもいいのだろうが、どうしてもこの逡巡を言ってから本題に入りたい。いや、本題に入ることすらできないかもしれないが、とにかく書き進めてみよう。

『絶景のポリフォニー』
『okinawan portrait 2010-2012』
(ともに赤々舎、2014))
石川竜一が2014年11月に同時に刊行した『絶景のポリフォニー』、『okinawan portraits 2010-2012』は、最近、木村伊兵衛賞を獲得した。石川本人を少しは知っている身からすれば、知己の若い写真家が、権威ある賞を受賞したことを素直に喜べばいいのだろうが、それがどうしてもできない。昨年の年頭だったと思うが、石川が沖縄本島中部の沖縄市にあるギャラリーで個展を開催した際、多分『絶景のポリフォニー』の原型になったはずのパイロット版の私家写真集を見せてもらう機会があり、いま思うと無責任なことをのたまったと思うが、「ああ、これだけの質と分量の写真集を見たら、手を挙げる出版社もあるんじゃないかな?」などと石川に言った記憶がある。確かに石川が手製で製本した重量感溢れるそれは、混沌としていて、猥雑で、生と死の魅惑に溢れており、とはいえ、自らが撮影した写真を精選して、考え抜いて写真の並びを編集しており、本という媒体の持つ「作品」としての完成度の高さは一目瞭然だった。石川は、この私家版写真集をプレゼンの資料にして、写真集を出版してくれる版元を内地(沖縄に在住していると、私も含めてほとんどの人が本土のことをいまだに「内地」と呼んでしまう)に探しに行くんだ、と言うので、私は、「上手くいくといいね。頑張ってよ!」と言ったように覚えている。

そんなことがあって数か月後、友人の噂で、どうやら石川の写真集が刊行されることが実現するらしい、という話を聞いて、私は内心穏やかではなかった。上述した話の筋からすれば、素直に喜んでしかるべきなのに! それなりに石川の写真を、沖縄で開かれる展覧会で継続的に観てきたという自負もあったため、私以外の誰かに一足とびに評価されることに対する単純な嫉妬、ということもあったと思うが、ああ、内地の写真業界は、こうやって沖縄の才能を食いつぶし、収奪していくのだという、無根拠な、しかし経験則としてはよく知っている構造を反復するのかということに対する恐れと怒り、つまりは、「沖縄」対「内地」という構造にまたしても陥るのか、という嫌な思いが心を占めた。もちろん私はここでは、「沖縄」のほうに感情移入しており、「内地」出身者であることは棚上げにしているわけであって、そのような私の思考法自体、憐憫的に「沖縄」に勝手に感情移入する内なる簒奪者であり、植民者の思考パターンそのものである、と言われても苦笑で返すしかないわけだが、ともかく率直にそう思った。要するに、「なんか嫌な感じ」だったわけだが、出版が決定した後に内地の都市部各地で開かれるという展覧会の情報や、あきらかに販促を目的とした、キャリアのある写真関係者とのトークイヴェント開催の情報が流れて来たり、版元総出で沖縄に乗り込んできて、やはり販促イヴェントが眼前で繰り広げられるのを目の当たりにしたりし、仕舞いには木村伊兵衛賞の受賞のニュースが飛び込んできて、まあ妥当な受賞だと思う反面、青田買いなのではという思いも払拭できず、そんな気持ちのままSNSから流れてくる限りの情報で判断すると、石川は日本の国境すら越え、今頃はアートフェア出展のために、多分パリに滞在しているのではないだろうか。そんな渦中でたまに石川に出くわすときには、「振り回されて消費されるなよ」と余計なアドバイスをしてみるのだが、飄々とした石川は、「大丈夫っすよ!」と答えるので、それ以上は口を噤まざるをえない。

以上のように、私自らのみっともない内面をダダ漏れに記してみた(もちろん、これで全部ではない!)わけだが、こういう「沖縄」対「内地」の構図は、沖縄にそれなりに長く住んで、当地の文化の動向に注意している人間にとっては、なかば自動的に内面化されるものであり、ここにはマイノリティ・ポリティクスにおける典型的な自己マイノリティ化が引き起こされていると言ってよい。沖縄振興策と基地固定化のアメとムチの構造同様、あぶく銭を与えられて一時的には腹が膨れたように錯覚させておいて、最終的には収奪を行なうという、沖縄の本土「復帰」後(人によっては薩摩侵攻までに遡るかもしれない)から今日に至るまでうんざりするほど繰り返されてきた不平等の反復に見えるわけだ。ましてや、辺野古の新基地建設と、それとバーターに語られる普天間返還という流言(いったい誰が普天間基地の返還に公式に合意したのであろうか?)が、内地の政治家によってしたり顔で語られるのを、怒りをもって耳にせざるをえない今日、石川への木村伊兵衛賞の授与さえ、辺野古問題の目くらましと錯覚してしまうぐらいには、陰謀論に傾いてしまいそうになる。と、さして辺野古に座り込みに通うわけでもなく、那覇の自室でこの原稿を書いている限りにおいては、自室の窓を開けて外からの音に耳を澄ませてみても、那覇の街中のストリートはおおむね平和そうである。さて、沖縄のストリートに何があるのか。

別の逸話を語ってみよう。内地から知人の写真家が沖縄に来て、沖縄の写真(いや、そもそも「沖縄の写真」とはどこに存在するのか!?)について語り合っていた際、その人はさらりとこう語った。沖縄の写真家は、沖縄でのデモとか、基地とか、沖縄戦跡とか、村落や離島の風景とか、祭祀とかは撮るけど、那覇は撮らないよね、と。その極めて当たり前の指摘に、私は深く首肯した。そう、沖縄には、流動する都市の状況に眼を向ける写真家は、私の知る限り、たしかに存在しない。沖縄本島には、中国、台湾、韓国といった近隣諸国からの観光客が増加し、量販店や飲食店に入れば、日本語でもウチナーグチでもない言葉が飛び交っている。つまり、ストリートには多国籍の、おそらくは新興富裕層の観光客がひしめいているのだ。例えば先の震災直後、那覇のストリートは観光客もまばらになり、目にするのは内地から避難してきた小さな子ども連れの母親だったりした。しかし、フクシマからは遠く離れた沖縄では、震災から4年を経過した現在、震災以前よりも増して観光客が増加しているように見える。つまり、那覇のストリートから見えるものは、グローバル資本の端的な展開であり、かつ、日米安保の強化のために「粛々と」進められようとしている辺野古の新基地建設とはほぼ無関係であるかのように、流動化が加速する都市の相貌である。

石川が撮影するストリートを知るには、『okinawan portraits 2010-2012』を観るのがいい。彼が肖像の被写体に選ぶのは、ヤンキー、浮浪者、ストリートキッズ、異装者、ゴスロリ少女、チンピラ、右翼、etc.といった、ビザールで、過剰で、アウトローで、グラマラスで、キャンプな、つまりはマイナーな人々である。ひとまず、被写体となっている人々の肖像は措いておこう。注目したいのは、これらのポートレートが撮影されたロケーションである。ほとんどがストリートでの声掛けによって撮影されたであろうこれらの写真が指示するロケーションは、沖縄の都市部の景観をそれなりに把握している私にとっては、見かけたり、さらには徒歩で通りがかったりするところだ。しかし私は、石川の写真に写っているようなビザールな人々をほとんど目にしたことがない。沖縄のストリートには、石川が捉えたようなビザールな連中ばかりが闊歩しているわけではない(当たり前だ)。けれども、ストレートに被写体を捉えた石川の写真は、これらの人々が、私も知らないわけではないストリートを、たしかに闊歩していたであろうことを、端的な事実として示している。ここから理解できることは、石川が意図的にビザールな人々に声を掛けて、それを写真集のほぼ全体に展開したということだ。つまり、いくら私が普段目にすることのないビザールな人々であっても、おそらく私はストリートを歩いていて無意識的に視界の外側に追いやっているのであり、逆に石川は、私のような平凡な人間が意識の外に排除している人々を、意識的にキャッチアップしているということである。この写真集を沖縄に在住している人間が見て、異様な感覚に襲われるのは、見慣れた風景であるにもかかわらず、そこには見慣れない人々が実在しているというギャップゆえである。しかし、このようなギャップに驚いていても仕方がないだろう。むしろここから得られる教訓は、様々なライフスタイルを持つ人々各々において、同じストリートであっても、無意識的なクラスタリングが行なわれているということだ。都市のストリートは多数の心理的レイヤーによって可視的になるところと、不可視になるところがあるのであり、石川の写真は、ストリートを闊歩する人々のカルトグラフィを映し出す鏡のようなものとして機能する。

沖縄を訪れたことのない人々にとっては、石川の写真はエキゾティックな対象として魅了されるものであるかもしれない。南国のビザールな都市としての沖縄、といったように。しかし、なにも南国にエキゾティシズムを求めずとも、例えばヤンキー的なビザールさは、地方都市のストリートを訪れれば、目にすることはできるだろう。それよりも重要な点は、しばしば内地の進歩的知識人(!)が求めるであろう、基地に代表されるようなシリアスな沖縄を、石川がほとんど排除している点である。基地問題を示唆するようなイメージが含まれているとしても、それは日常の風景の延長線上にある見慣れたものにすぎない。無論このことは、石川が基地問題を中心課題とする沖縄の現状に無関心であることを意味しているわけではない。そうではなく、一向に変わらぬ基地負担の現状に対する深い絶望が、石川をストリートに向かわせているように思われる。その絶望がかたちになって現われるのが、ビザールな人々のマイナー性だということだ。被写体の人々は、沖縄におけるシリアスな問題の重圧から脱するために、ビザールに振る舞わざるをえない。だから、石川の写真は、沖縄が抱えるシリアスな問題と、一見すると無関係に見えながらも、じつのところ表裏の関係にある。しかも、人々のクラスタリングが加速化する今日においては、石川のカメラが彼/彼女らを可視化させないことには、これらのビザールな表象は浮びあがってこない。

近年の沖縄では、那覇を中心として、都市開発が加速している。開発が進めば進むほど、見せかけのジェントリフィケーションが進行し、ビザールでマイナーなものは、アングラ化していくことになるだろう。石川はその不可視になりかけているマイナーなものに眼差しを注ぐことによって、沖縄に押し付けられている政治的な不平等を、間接話法的に語っている。その意味では、石川が撮影するようなビザールな人々と、例えば辺野古で座り込む市民活動家は、一本のストリートで繋がっているのであり、この想像的なストリートを確保することこそが重要なのだ。だから石川は、ストリートでビザールな連中が通りすがるのを待ち受けているのであり、沖縄における政治的な抑圧の裏返しの表象のために、石川のストリートスナップが賭けられているのである。そして、ビザールなストリートを確保できるか否かは、徹底的な内地からの収奪に敗北することなく、ストリートをカメラによって死守できるかどうかの、石川竜一の今後の活動にかかっている。




土屋誠一(つちや・せいいち)
1975年生。美術批評家。沖縄県立芸術大学准教授。美術批評家。共著=『実験場 1950s』(東京国立近代美術館、2012)、『現代アートの巨匠』(美術出版社、2013)、『現代アートの本当の見方』(フィルムアート、2014)など。展覧会=「反戦──来るべき戦争に抗うために」展など。


201504

特集 ストリートはどこにあるのか?
──漂流する都市空間の現在


ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で
空間の静謐/静謐の空間
アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
ビザール沖縄──石川竜一の作品についての少しのコメントと、多くのボヤき
ストリート・ファイト、あるいは路上の痴話ゲンカ
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