進む総括、見えてきた次の展望(展覧会「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」+「3.11以後の建築」レビュー)

藤村龍至(建築家/東洋大学理工学部建築学科専任講師)

金沢21世紀美術館で開催された「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」展★1「3.11以後の建築」展★2は、2014年10月31日から立て続けに開催されたオープニング、講演会、シンポジウムと合わせ、日本現代建築シーンを切り取るうえで過去を総括し、未来を展望する重要な事件となりうると感じた。少し時間が経過したが記録として振り返っておきたい。

ふたつの展覧会とその対比

ジャパン・アーキテクツ
1945-2010

3.11以後の建築

10月31日のオープニングのあと11月1日に始まったふたつの展覧会は、3月15日まで同時開催されていた(「3.11以後の建築」は5月10日まで開催)。ひとつめの「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」はフランス国立近代美術館のフレデリック・ミゲルー氏がキュレーションを行ない、戦後日本建築史を六つのセクションに分けて紹介するというもの。鈴木了二氏の「破壊と再生」のインスタレーションによる黒(1945年を象徴)から始まり、ダークグレー(前川・村野ほか/おもに50年代)、ライトグレー(丹下・菊竹ほか/おもに60年代)、カラー(メタボリズムほか/おもに70年代)、ノン・カラー(磯崎・伊東・長谷川ほか/おもに80年代)、白(妹島・藤本・石上・平田ほか/90年代以後)と続く。「白」の部屋には若い世代の建築家も多くセレクトされ、一番若いのは1975年生まれの永山祐子氏であった。
もうひとつの「3.11以後の建築」展は五十嵐太郎氏、山崎亮氏をゲスト・キュレーターに迎え、伊東豊雄氏らの「1 みんなの家」に始まり、「2 災害後に活動する」「3 エネルギーを考える」「4 使い手とつくる」「5 地域資源を見直す」「6 住まいをひらく」「7 建築家の役割を広げる」に分類されて展示がなされている。
五十嵐氏ら関係者はオープニングのシンポジウム等でも前者を「1部」、後者を「2部」と呼んでおり、どことなく従属的な関係を想起させるが、実際に展示を見ると博物館の標本のように資料が並ぶ「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010」の歴史性と、生き生きした現在進行形の「3.11以後の建築」の現代性の対比が鮮やかに際立っていた。
当初は美術批評的な「1945-2010」と社会批評的な「3.11以後」が旧来的な作品主義(右)と社会改良主義(左)のように見えることを懸念していた(余談だが、会場の21世紀美術館のメインエントランスを入ると右側に「1945-2010」の会場があり、左側に「3.11以後」がある)が、SANAAによる建築の、「ヒエラルキーを生まないように」並べられた箱としての展示室と、「正面をつくらないように」丸い輪郭でまとめられたひとつの全体ヴォリュームは、ふたつの展覧会の性格の違いを解体し、文字通り「フラットに並べ」「丸く納めて」いる印象の形成に一役買っているように見える。

ミゲルー氏の講演

11月1日、21世紀美術館でフレデリック・ミゲルー氏のレクチャーが行なわれた。1970年代以後の、自分たちにはお馴染みの建築家たちが「歴史」として語られていく経験は多くの日本人建築家たちにとって刺激的であったに違いない。
レクチャーの冒頭、1945年から60年代まではよく知っている話だったが、メタボリズムを超えて1970年代に入ってからどんどんヒートアップしていきミゲルー氏の独自の視点が披露される。都市のメガストラクチャーからコミュニケーションへ主題が移行し、「POPアーキテクチャ」というコンセプトが出てきた。イメージとしての建築が重視され、山下和正《顔の家》、相田武文、毛綱毅曠等が活躍する。言語学的なアプローチが大きく展開し、その極限が藤井博巳のグリッドと高松伸の機械建築である。
その後、水谷頴介の建築を媒介にして安藤忠雄を起点にした次の動きが出て来る。東孝光、篠原一男、伊東豊雄、長谷川逸子、坂本一成。ミニマリズムから「ライト・アーキテクチュア」へ。この時代にもっとも重要な役割を果たしたのが長谷川逸子であるという。
ライト・アーキテクチュアのコンセプトをもとに伊東豊雄氏の《せんだいメディアテーク》や長谷川逸子氏の《山梨フルーツミュージアム》を挙げる。ミゲルー氏は長谷川氏がコンピュータを駆使していたことにも注目。この世代を「切断の世代」と命名。
そして90年代へ。長谷川逸子の最初期にみられる情報建築の話から渡辺誠、そして村上徹。妹島和世、西沢立衛を位置づけ、あとは展覧会にはない有馬裕之、前田紀貞、西沢大良、宮本佳明、谷尻誠などの作品をだだっとスライドで流す。
最後に藤森照信と石上純也を取り上げ「消える建築」の象徴として紹介。レクチャー全体のまとめとして磯崎新氏の「間」のテキストを紹介して終了。

長谷川逸子と水谷頴介

質疑応答で、会場で聴講していた建築家の水谷元氏が父・水谷頴介と安藤忠雄氏の説明に関連して質問する場面があった。水谷氏はミゲルー氏のレクチャーで出てきた「カタゴリズム」という聞き慣れない単語について尋ねた。ミゲルー氏によれば「カタ」はギリシャ語で「基礎を築く」という意味で、安藤忠雄がメタボリズム批判として使用していた用語だという。
さらにミゲルー氏は水谷頴介のことも言及し、水谷が神戸の都市計画に大きく貢献し、今日一般化しつつある「ユーザーと一緒に設計する」という考え方を示した先駆的存在であると評価。山下・毛綱らの「POPアーキテクチャ」の流れが藤井・高松らによって極限まで突き詰められた後、安藤以後の別の潮流にスイッチしたように、「伊東・長谷川ー妹島ー石上」のラインが石上で極限まで達し、起源に戻ろうとしていると指摘した。
全体の印象として、ミゲルー氏および今回の「ジャパンアーキテクツ 1945-2010」の最大の成果は1970年代と80年代を歴史的に位置づけたことではないか。ミゲルー氏も「70年代と80年代を理解して初めて日本の建築を理解できる」と何度も強調していた。それはやはり1990年代以後のSANAAの活躍を経て前世代の伊東豊雄や長谷川逸子の「ライト・アーキテクチュア」の評価が定まったということだろう。




セクション5「消滅の建築」の展示風景。長谷川逸子と水谷頴介の資料が展示されている
撮影=木奥惠三、提供=金沢21世紀美術館

その意味では今回の展示で最後の部屋に入っていた青木淳から渡辺誠までの1990年代以後の一連の作品群は、一応時代的なテーマ(=「還元から物語へ」)のもとでセレクトされているが、いかにも暫定的な判断で展示されている印象であり、それらの歴史的評価はそれ以後の世代の評価が定まってからでないと定まらないと言えるだろう。
今回、2010年に1980年代の評価が定まったように、2030年くらいまで時間が必要であろう。そのときにはまた展示される作家や作品のリストが入れ替わる可能性が高い(この展示だけ「3.11以後」の領域にはみ出していたのも示唆的である)。つまりこの展覧会は事実上「ジャパン・アーキテクツ 1945-1995」である。
レクチャーの後、ミゲルー氏は水谷は「伊東・長谷川ー妹島ー石上」のサイクルが一回りした後の批評的存在であり、隣で展開していた「3.11以後の建築」が水谷起源の「次のサイクル」を示唆するものになりそうだと語っていた。ふたつの展覧会は、そのようにして繋がっていたのである。

「3.11以後」ではなく「1995年以後」?

11月2日はキュレーターの五十嵐太郎氏、山崎亮氏、出展作家の一人である小野田泰明氏のトーク。まずは五十嵐氏から概要説明。山崎氏はスライドなしでフリートーク。小野田氏は震災の映像から被災地復興の進捗状況等を詳細に報告。
山崎氏は自身の原点である阪神・淡路大震災に触れ、「3.11以後」に注目されるようになったコミュニティデザインはそもそも1995年の震災以後の復興活動で培われたものであり、「3.11以後の建築」というより「1995年以後の建築」であると主張する。
東日本大震災では被災地域が広範にわたっており、被災地域に建築家や専門家が圧倒的に不足していたことなどから建築関係者が総動員される事態となった。日本全国の建築家が総動員され、建築界全体に影響を与える事態は1970年大阪万博以来の出来事であるが、大規模災害とその復興への取り組みの近過去として阪神・淡路大震災の経験が呼び起こされているとも言える。
山崎氏はシンポジウムの後半でスライドを持ち出しプレゼンテーションをする場面もあった。そこではジョン・ラスキンを例として参照し、ラスキンは前半生を美術批評家として生き、後半生を社会改良家として生きた。それらを包括するのが「コミュニティデザイン」だというのが山崎氏の主張であった。山崎氏は、美術批評的な「1945-2010」と、社会改良的な「3.11以後」が併置された今回の機会はとてもラスキン的であり、21世紀美術館全体の展示がコミュニティデザインの展示であったと捉えていることがよくわかる。
山崎氏の事例紹介では福祉やケアの話が増えており、「『参加』は最終的に『福祉』に近づく」という主張は興味深かったが、それならばその思想を今日もっとも体現している建築作品はアート作品として出発し、小豆島町の塩田町長によって「社会保障の実験場」として位置づけ直されたdot architectsの《Umaki Camp》ではないだろうか。「3.11以後」の展示にdot architectsの建築作品が入っていないのはその点でも不足感がある。

ジャパン・アーキテクツの総括と展望

全体として、戦後日本建築史を総括し、次世代以降の建築言説の行方を示唆するような強烈な展覧会であった。今回は便宜上2010年で区切られていたが、山崎氏も主張するように「ジャパン・アーキテクツ 1945-1995」「1995年以後の建築」であり、近い将来参照されるであろう歴史的な評価の枠組みも95年が境になる可能性が高そうだ。
全体的に、企画の重要さに比較して建築家の集まりやメディアの反応がもっとあってもよいように思った。1日のレクチャーもメディア関係者や建築家がほとんどいなかったし、2日目を聴講している建築家はさらに少なかった。歴史に無関心な現代の日本人建築家の現状を示しているのかも知れないし、それとは無関係に進んで行く総括の恐ろしさも感じた。
総じて金沢21世紀美術館での3日間は濃密で刺激的であった。現役の日本人建築家たちにとっては自分たちの活動を歴史的な流れのなかで位置づける機会になるだろう。自分も含め、今後の自分たちの活動を展望したいと考える30〜40歳代の建築家にとってはとくに刺激的かも知れない。引き続き展覧会の意味を反芻していきたい。

★1──ジャパン・アーキテクツ 1945-2010
会期=2014年11月1日(土)〜2015年3月15日(日)
会場=金沢21世紀美術館
URL=https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1720
★2──3.11以後の建築
会期=2014年11月1日(土)〜2015年5月10日(日)
会場=金沢21世紀美術館
URL=https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=17&d=1721



ふじむら・りゅうじ
1976年生まれ。建築家。東洋大学理工学部建築学科専任講師。藤村龍至建築設計事務所代表。作品=《BUILDING K》《東京郊外の家》《倉庫の家》《小屋の家》ほか。著書=『批判的工学主義の建築──ソーシャル・アーキテクチャをめざして』『プロトタイピング──模型とつぶやき』。http://ryujifujimura.jp/


201503

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