まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈

星野太(美学、表象文化論)+藤田直哉(SF・文芸評論家)

行為やプロセスそのものとしてのドキュメンテーション

『表象05』(月曜社、2011)
星野──また議論を相対化するようで恐縮ですが、あるプロセスこそが作品の本体であるとしても、ほとんどのプロセスはそのままでは提示できない。そこで、そのプロセスを記録した映像や写真が最終的なアウトプットになることが多いわけですよね。その最初期の事例がランドアート(アースワーク)だった。つまり、ランドアートの多くはアメリカの辺境の地に作られているので、実際にそこに行くのは困難を極める。また、より深刻な問題として、それらを美術館やギャラリーで展示することは不可能なので、作品のかわりにそれを記録した映像や写真が要請されることになる。この問題は、現代美術における映像や写真の台頭と絡めて語られることが多いのですが、いずれにせよ作家がそのようなメディアによってプロセスを記録し、(準)作品化することが可能になったのが、60年代以降のことでしょう。またそれは、ボリス・グロイスが「アート・ドキュメンテーション」と呼んだ典型的な事例でもあります(三本松倫代訳「生政治時代の芸術──芸術作品からアート・ドキュメンテーションへ」『表象 05』)。ある限定された日時に、ある特定の場で行われた行為が作品であるとして、それを共有可能な「作品」にするためには、どうしても「記録」が必要になる。その記録は文章でも写真でもいいのですが、いずれにせよそれらはただの「記録(ドキュメント)」ではなく、作品に「生」を付与するための「記録行為(ドキュメンテーション)」となる。グロイスが例示しているのは旧ソ連の作家のものが多いのですが、こうした事例を見るだけでも、行為やプロセスそのものを作品として提示するような営為が、けっして最近になって始まったわけではないということがわかります。
藤田──確かに、それ自体は新しいことではないのかもしれません。記録や痕跡が残っていて、その良し悪しを判断するというというタイプの作品であれば、ぼくも理解可能なのです。問題はランドアートのような、体験しなければわからない、やってみなければわからない質のもの──ぼくの実家の近くにあるから例に出しますが、イサム・ノグチの《モエレ沼公園》──は、経験してみないとたしかにわからないものですよね。ただ、《モエレ沼公園》は時間的に継続して存在してくれるものだからまだ複数人が鑑賞できるし、検証もできる。問題なのは、イベントみたいな一回性のもので、体験や参加しないと理解できないタイプの作品です。言い換えると、マテリアルとして実在しない作品、ですね。
マテリアルとして実在しないタイプの作品は、もともと「コンセプチュアル・アート」として1960年代ごろの前衛芸術としてあったのだけれど、「コンセプト(観念)」を、コミュニケーションの流動性のなかに投じて、現代の状況のなかで生かそうとしている。そしてそれがさまざまな論点を生み出していく。この議論も含めて、人間をメディアにしたコミュニケーションの連鎖そのものを設計するというような意味での「制作」というのが出てきている。これを現代においてどう評価するのかが問題である。

星野──加えて、非物質化にともなって作品の外延が広がり、全体性が見えなくなっているということも、とりわけ批評にとっては大きなことですよね。

藤田──ええ。小説や映画や絵画の全体が厳密に本当に見えるかと言えばそんなことはないのですが、それでも一応どこからどこまでが作品か、その輪郭は、一応、身も蓋もなく、物質(本やフィルム)の輪郭としてあるわけですよ。昨今の作品の輪郭が曖昧な作品は――ネット環境における作品もそうなのですが――評論なり価値判断するための新しいやり方を必要としていると思います。

星野──現代美術の場合は、そもそも作品の外延がどこなのかを定めなければなりません。たとえばさきほど話題に出された田中功起さんの作品の場合、なにをもって作品としているのかが一見するとわかりにくいことがしばしばある。そうすると『質問する』のような往復書簡が、彼の「作品」に見えてしまうようなところもあるわけです(実際それは田中さんの「作品」のひとつだと思います)。田中さんをはじめとするある傾向の作家の活動を見ていると、パブリックな場で披露されるすべての挙動、発言、テクストが作品になってしまうようなところがある。近年、批評の機能不全が嘆かれるとき、よく耳にするのは「マーケットがアート・ワールドを支配している現在、作品は経済的価値のみによって評価され、批評は存在意義を失っている」というような紋切り型です。それもある面では正しいと思うのですが、そもそも近年では批評家がその外延を捉えづらい作品が増えてきたこと、あるいはインターネット(検索)環境の発達によって個人の観測限界の有限性が可視化されたことも、また別のファクターとして認識しておく必要があるでしょう。

芸術作品の潜勢力──「ネイチャー」「カルチャー」「文化」

『解放された観客』
(2008/邦訳=法政大学出版局、2013)
星野──話は変わりますが、ジャック・ランシエールが『美学における居心地の悪さ』(2004)や『解放された観客』(2008)において批判しているのは、昨今の「芸術の政治化」そのものではなく、むしろその政治的な表明の仕方です。これは拙論「ブリオー×ランシエール論争を読む」の中心的な問題でもありますが、直接的に政治を標榜する芸術というのは、むしろ政治的なアクションとしては失敗していることが多い。むしろ、極めて保守的で脱政治化されているように見える絵画などの方が、実は優れて政治的であったりもする。作品というものはそもそも「制作者」「作品」「鑑賞者」という三者のあいだに「距離」をもたらすものであって、むしろそこにこそ既存の感性的布置を組み替える可能性が秘められている、というのがランシエールの立場です。たとえば、毎日厳しい労働を強いられている人間がふとある詩を読み、そこから自分も新たになにかを創造するということがありえる。ここには、制作者と鑑賞者の直接的なコミュニケーションが存在するわけではないですね。むしろこうした出来事が起こりうるのは、「作品」を媒介として三者のあいだに「距離」が存在しているからです。こうした既存の社会関係を宙吊りにする力を、ランシエールは芸術作品の本当の潜勢力だとみなしています。

藤田──その「距離」の現出という考え方は、先ほどの田中功起さんの「制作/発表」の切り分けというお話にも繋がるところかと思います。
ところで、ランシエールが言うような、直接的に政治的ではない作品こそが潜勢的な力を持つという話を、現代日本に照らし合わせたら何がそれに相当するのかと考えたことがあります。
68年の運動とそのラディカリズムの成果として、ハイカルチャーとサブカルチャーの転倒が起きた。大塚英志さんや笠井潔さんなどがいろいろな場所でおっしゃっていますが、この機にマンガやアニメが大衆的な広がりを獲得した。直接的な政治的行動に訴えるグループがある一方で、運動に関係しつつ文化のほうに向かったクリエイターたちがその後の大衆文化をつくり、オタク文化を形成していき、非政治的な80年代を生み出したわけで、良い悪い、望む望まざるを無視して結果論的に見れば、この非政治的な文化表現をした人たちのほうが社会構造を変えることに成功した。この不思議な逆説を、日本社会は実際にもう経験したわけで、その屈折や複雑さをこそ作り手は深く意識しなくてはならないと思います。

星野──特に日本の場合にはサブカルチャーのような回路が存在するので、そちらの方が政治的なアクションよりもラディカルに世界を変える可能性を持っているのかもしれません。
ここまでお話を伺っていて、藤田さんが「芸術」の固有性を考えられているのと同じように、私は「文化」について似たようなことを考えているのかもしれない、と思いました。藤田さんがあえて「美」や「芸術」とおっしゃることの意義もよくわかります。ただ個人的にはそれを「文化」という言葉に担わせたいと思っている。なぜなら「カルチャー」は「ネイチャー」の対概念だからです。「ネイチャー」という言葉には、(いわゆる「自然」にかぎらず)あらかじめ与えられた「本性」的な条件や所与性を含意するようなところがありますよね。そういう「ネイチャー」を変えていくものとして、「カルチャー」があるという言い方ができるのではないか。「カルチャー」もやはり政治や経済と無縁でいることはできませんが、しかしそれゆえにこそ、政治的・経済的なものに対して有効な異議申し立てを行なうことができるとも言える。ランシエールが言う「政治」を具体的な次元で可能にするものこそ、まさしく広義の「文化(カルチャー)」なのではないでしょうか。

201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


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