まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈

星野太(美学、表象文化論)+藤田直哉(SF・文芸評論家)

炭坑のまちのアート・フェスティバル、あるいは「敵対性の美学」

「マニフェスタ9」撮影=星野太

「札幌国際芸術祭2014」

藤田──このあいだ、「札幌国際芸術祭2014」(2014年7月19日〜9月28日)が開催されました。ぼくの地元なのに観に行っていないのですが、イベントで夕張の炭坑を観に行こうという企画(「空知炭鉱の記憶ツアー」)があったようです。炭坑のまちの経済的困窮と炭坑の暗い歴史の両方を知る機会として選んだのでしょう。芸術祭のHPには「日本全体の近代化を支えた空知地域の炭鉱の歴史を振り返りながら、現在の産炭地をめぐり、未来の都市のエネルギーや生活の在り方について参加者の皆さんと共に考えていく」とあります。
しかし、そこになぜアートの名目が必要なのか。社会科見学、遠足とはなにが違うのか。炭坑夫の経験を知り、記憶に留めるのは大事なことですし、近くには炭坑のなかをツアーできるテーマパーク「石炭の歴史村」(夕張市)があって、ぼくもかつて行ったことがあります。せっかく芸術祭をやるのだから、アートの名目に乗っかって、炭鉱の歴史を啓蒙するきっかけにしたいというのはよくわかります。芸術祭側も、ある種の正当性の口実として、こういうことをやっておく必要があるのはよくわかります。ぼくはインフラ萌えの気持ちがあるので、発電所などの造型が美しいとも思います。しかし、そこには逆転の契機がある。啓蒙や地域振興などの目的こそがアートの存在意義となってしまう可能性がある。

星野──おっしゃることはよくわかります。炭坑の話で思い出したのですが、ヨーロッパで2年に一度開催されている「マニフェスタ」という国際ビエンナーレがあります。毎回異なる地域を会場とするところがほかのビエンナーレ/トリエンナーレと比べて特徴的ですが、それに加えて非常に政治的なビエンナーレとしても知られている。実際、過去に「マニフェスタ」が開催された地域を見てみると、いずれも政治的、歴史的になんらかの問題を抱えた地域でした。たとえば、「マニフェスタ5」(2004)は、国家的、民族的な紛争が続くスペイン・バスク地方のドノスティア=サン・セバスティアンで行なわれました。続く「マニフェスタ6」(2006)は、いったんキプロスのニコシアが開催地に選ばれたものの、現地の協力者とのさまざまな軋轢が生じた結果、開幕の3カ月前に開催が中止になった。続く「マニフェスタ7」(2008)は、イタリア北部ながらドイツ語を話す人々が大多数を占めるトレンティノ=アルト・アディジェで行なわれました。やや前置きが長くなりましたが、前回の2012年の「マニフェスタ9」というのが、実はベルギーのゲンク(ヘンク)という元炭坑町で開催されているんですね。さきほどの「札幌国際芸術祭2014」のお話にも通じると思うのですが、近代産業の下部構造をなしていながら、いまではほぼ無用のものとされてしまった「炭坑」にフォーカスした展覧会というのは、ここ数年でもいくつか目につきます。メキシコ人キュレーターのクアウテモック・メディナによる「近代の深層(The Deep of the Modern)」というテーマは、この「近代の下部構造としての炭鉱」に正面から取り組んだ、優れたプロポーザルだと思いました。回遊型のビエンナーレである以上、「マニフェスタ」もまた、藤田さんが指摘されたようなアート・ツーリズム的な側面をたしかに含んでいいます。ですが、この時の「マニフェスタ」にかぎって言えば、展示作品の選択や空間全体の構成はかなり水準の高いものでした。ただ新作を並べるだけの見本市ではなく、石炭を使ったリチャード・ロングの作品や、かつての炭鉱労働者たちの写真を用いたアーカイヴ的な作品もあった。つまり重要なのは、アート・ツーリズムであるか否かという形式的な問題ではなく、その内容の水準の問題であって、ここにはむしろ藤田さんが指摘されるような「地域アート」の可能性があるように思ったわけです。

藤田──おっしゃることには刺激的なことが含まれていて、ひとつは、西欧と日本の文脈の違いですね。単純に考えて日本よりも西欧のほうが対立や闘いも多く、政治的・民族的にも諸問題を抱えている。そのコンテクストを輸入した「地域アート」の日本的実践は、やはり国や自治体が予算を出すという下部構造の成り立ちからみても、表向きは地域活性化に奉仕することが目的であると言わなければなりませんから、花を植える、自然と交感するなどというように、どうしても微温的になります(もっと背景には、「調和」という美学があると思いますが――それも、近代にドイツ哲学などから輸入されたものでしかないのかもしれません)。
一方、クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」(星野太訳、『表象 05』、月曜社、2011)でテーマとなる「敵対性」は、ゲットーやスラムに人を連れて行ったり、そこから人を連れてきたりして、かなり過激な社会問題に直で向き合わせるものですよね。それを日本に置きかえて考えてみれば、西成で労働者とアートをやるとか(「ヨコハマトリエンナーレ2014」で展示された釜ヶ崎芸術大学の試みがそれですね)とか、北九州でヤクザとアートをやるとか、新大久保で排外主義者と在日コリアンの方々と一緒にやるとかってことですよね。そういう「地域アート」が日本で可能なのだろうか? これまた皮肉なことなのですが、そういう問題系をよくも悪くもテーマ(ネタ)に一番しているのは、インターネットだったりする。
日本の場合はビショップが批判したとおり「関係性の美学」のほうは綺麗事の論理に巻き込まれてマイクロ・ユートピアをつくりだし、「敵対性の美学」の現実的な表出はインターネットでの差別的なネタとして過激化していって街頭運動化していく。それに対し、アートが有効な抵抗勢力たりえていない。それらの美学がアートを通じてやるはずだったことが、もっと別なところで換骨奪胎されて日本的文脈で荒れ狂っている現在、それらの美学をさも自明であるかのように価値の源泉として用いようとしても無効なのだと思います。

「ヨコハマトリエンナーレ2014」
釜ヶ崎芸術大学「それは、わしが飯を食うことより大事か?」展示風景(部分)
撮影=藤田直哉

ネゴシエーションそのものはアートになりうるか

「Bction」(2014年9月1日〜15日)。都心で取り壊しが決定したビルでさまざまなアーティストが作品展示を行なった「期間限定の美術館」。アーティストが社会へ積極的に介入する試みとして行なわれた(http://bction.com/)。撮影=藤田直哉

星野──いまの藤田さんのお話には、芸術と政治をめぐる重要な問いが含まれていますね。確認になりますが、基本的な事実として、芸術が政治とまったく無関係でいることは原理的に不可能ですよね。ここで「政治」という言葉を広い意味で捉えるのであれば、たとえある作品が政治的な主題を扱っていなくても、それは現実の政治に対するコミットメントの希薄さによって、ある政治的態度を表明していると言える。芸術と倫理の関係についてもほぼ同じことが言えます。たとえある作品があからさまに倫理的な主題を扱っていなくても、それは倫理に対するコミットメントの希薄さによって、ある倫理的態度を表明していると言える。だからこそ、政治的か/政治的でないか、倫理的か/倫理的でないかという単純なパラメータではなく、そのあいだに存在するグラデーションこそが問われるわけですね。

藤田──ええ。政治性や社会性を完全に回避しようとした芸術至上主義や、個人や空想や夢の世界を重視したロマン主義ですら、それらがファシズムの心理的根拠になっていったように、政治的な力を大きく持ってしまうものです。どんなものでも政治性は帯びるし、それは感性や認識を変化させて世界認識にも影響を与えるわけだから、視界を広くとれば政治的でない表現などないのです。ですが、ぼくからすればアジビラ(アジテーション・ビラ)は芸術には思えない。新大久保で在特会とカウンターが衝突していることは、問題提起性も持っているし、ネゴシエーションとしての側面もあるし、人を組織し社会を動かすプロセスもあるし、それらを記録してYoutubeにアップしているカメラワークも滑らかである。これは、うっかりすると現代アートの条件を満たしてしまいそうに思う。しかし、それでいいのだろうか。

星野──芸術の芸術らしさ云々は置いておくとしても、なにものかが新しく作り出されるとき、そこには「ネゴシエーション」の力が必ず働いているわけですよね。ジョット以来のルネサンスの画家たちには基本的に注文主がいて、彼らはその発注に応じて絵を描いていたわけです。画家は、クライアントとの(しばしば暗黙の)ネゴシエーションを経て、注文主の期待に応えつつ、そこにみずからのオリジナリティを忍び込ませてきた。それと同じで、レジデンスに滞在してその地域に関係する作品を創作するケースや、グループ展のテーマに従って新たに作品をつくるケースにおいても、作家は異なる複数の要請に応えるなかで作家性を刻み込んでいくことになる。それこそが、実際に多くの作家が行なっていることだと思うんですね。これは建築にも言えることではないでしょうか。かつて、建築家の強い主体性が花開いた時代があったにせよ、建築には基本的にクライアントが存在するわけだし、公共建築であれば地域住民との長いネゴシエーションを経ることも多い。だから、そのプロセスそのものを作品として提示するところまでは行かないにせよ、そこにフォーカスを当てようとする建築家が現われてくるのは必然的とも言える。

『必然的にばらばらなものが生まれてくる』
(武蔵野美術大学出版局、2014)
藤田──ネゴシエーションとしてのアートとは、極論を言えば交渉そのものが現実であり最終のアウトプットなわけですよね。しかしいまのところ、ワークショップなどを含めて、「合意形成のプロセスそのものが作品だ」と言う建築家はいないのではないでしょうか。マテリアルとしての建築がなく、どんな建築を作るのかの議論そのものが建築の本体である、というパラダイムシフトが起きるのか、どうか。それは、「裏側」の出来事だ、という認識のほうが強いのではないでしょうか。
田中功起さんの『質問する その1(2009-2013)』では、田中さんは作品をつくるときに、作品をつくる状況を生み出すために人に相談したりして、それも含めてアートの制作だとおっしゃるわけですが、でも考えてみれば作家はずっとそうですよね。社会学者のピエール・ブルデューも『芸術の規則 I』(石井洋二郎訳、藤原書店、1995)で言っていますが、芸術のための芸術がでてきたのは、芸術が商品になり作家がある程度経済的自由を得るようになってからで、作家の自由なんてものははじめから確保されているものではないんですよね。
大衆芸術で言えば、映画監督やゲーム・クリエイターにとって交渉そのものが最終的なアウトプットになることはほぼないでしょう。それは観客が求めていないし、そうすることで消費が進むわけでもない。でもアートの場合は観客がそれを求めるし、作家も見せたいと思うわけですよ。プロセスやネゴシエーションはもともとあったものですが、それをパッケージしてリプレゼントするというところに新しさがある。その点では、小説の裏側を暴くメタフィクションとか、TV番組のお笑い番組で楽屋やスタッフを見せつける技法に近い部分を感じます。
ぼくは田中功起さんや藤井光さんをこの分野での優れた作家だと考えていますが、彼らが2人とも、映像をアウトプットのメディアとして用いていることは重要なことと思います。田中さんは、プロセスそのものも作品と思っている。でも、観客に提出する際には、テクストなり映像なりに変換しなくてはならない。観客がプロセスにアクセスするインターフェイスが必要なわけですからね。でも、どうも、そのインターフェイスがなくても作品だと思っていらっしゃる節もありますね(「制作と発表を切り分け、そのあと、もう一度ひとつにする」『必然的にばらばらなものが生まれてくる』)。

201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


「参加型アート」「アール・ブリュット」──コミュニケーションのためのアートと、これからの美術館のかたち
まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈
岐路に立つ公共図書館──集客施設か、知的インフラか
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