まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈

星野太(美学、表象文化論)+藤田直哉(SF・文芸評論家)

アートのグローバル市場と「まちおこし」としてのアート

藤田──アートと哲学の共犯関係に、時々マッチポンプ感を感じる時があります。根拠の「底」が見えなくなるというか。
ちょっと話を戻して、「地域アート」における「地域」「地域振興」ということにフォーカスしたいと思います。地域主義はグローバリゼーションの付随現象として誕生しなおしている。一般的に、全世界的にグローバリゼーションが遍在し、その反動として民族主義とナショナリズムが昂揚しています。こうした現状を見ていると、これまでにも「グローバル」+「ローカル」=「グローカル」ということが理念として掲げられることは多かったのですが、どうもそんな図式はまったく通用していないように思います。

ハル・フォスター編『反美学』
(勁草書房、1987)
星野──『反美学』にケネス・フランプトンの「批判的地域主義」というエッセイが掲載されていますね。普通に考えればそもそも「グローカル」が成立しえないのは当然で、今日のような資本主義がマーケットを駆動しているかぎり、あらゆるところに差異を見出し、価値を産出する資本の運動はけっして止むことがない。「ローカルなもの」はむしろ、そうした価値産出のためのひとつの資源であるとも言える。ゆえに、グローバリゼーションの反動として地域主義が起こっているのではなく、むしろグローバリゼーションと地域主義は同じひとつの出来事の両面だと考えるべきでしょう。現代美術で言えば、一方には作品が高額で取引されるグローバルな市場があり、他方には藤田さんのエッセイで槍玉に挙げられていたような「まちおこし」としてのアートがある。しかしこの2つの傾向は厳密に言えば別々のものではなく、ある意味では同時並行的に生じていることですよね。

藤田直哉氏
藤田──ぼくが賞をもらってデビューした評論の中心的なテーマは、「批判」や「カウンター」を取り込んで発展に使うことこそが資本主義の強さであり、魅力なのだから、それに対する「カウンター」や「批判」などは本当に可能なのだろうかということでした。
星野さんのおっしゃるローカル性と商業性の関係をよく表わしているのは、村上隆さんだと思います。村上隆さんは日本、あるいはアキハバラという極端なローカリティ、オタク文化を極めて意識的に、さらにそこに日本の伝統文化を畳み込んでアート・マーケットに接続して存在感を示した。地域差を価値にするわけですよね。
このあいだ、ヤゲオ財団のコレクションを展示した「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」展(http://www.momat.go.jp/Honkan/core/)が開催されていました(国立近代美術館、2014年6月20日〜8月24日)。たとえばここでの蔡國強の作品も、中国の伝統的な文化と戦後アメリカのアクション・ペインティングの組み合わせのようなものでした。
いわゆるぼくがいう「地域アート」とそれらの作品の違いは、先ほど星野さんが注意を喚起したように、売り買いが容易なマテリアルな基盤を持つか否かというところが、いまのところ大きいですね。
けれども、「地域」の単位を「国」ではなく例えば「県」や「市町村」とした場合、それらとグローバル・マーケットはまだつながっていません。これらは時間が経てばつながるのか、いや、つながらないのか。ぼくは単純に人間の認知限界の問題にぶつかると思いますが(笑)、松戸アート(というものがあるとして)をアフリカの美術愛好家がわかるとは思えないし、ではどれくらいの解像度で掬い上げれば世界のアート・マーケットに「市町村」ローカリティが乗っかるのか。価値産出の原理とその現実はどの解像度であれば一致しうるのか。
消費のモードがどんどん切り替わり、それによって消費行動がどんどん均質化していったら、消費社会が人々が見たことがないものを求め続ける限り、原理的には、あらゆるローカリティはマーケットに乗っていくはずですが。

東京のローカル性を活かした「シブカル祭。2013」
撮影=藤田直哉

星野──いまの認知限界の話はおもしろいですね。美術作品においても、現在のところ多くの人が容易に認知できるローカリティというのは、やはり大陸や国家になってしまうと思うんですよね。だとすれば、作品を制作するにあたって、みずからの文化的ないし地域的アイデンティティを中心的な「資源」として用いる作家が増えていくのもやむをえない。海外ではよく目にする例ですが、日本人の作家が谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を引き合いに出すようなものでしょう。別の話ですが、たとえばアジアを含む非英語圏からアメリカの大学院などに留学すると、その留学生の出身地のことについて博士論文を書けと指導されることが珍しくないようです。D・W・グリフィスの研究はアメリカのシネマ・スタディーズに任せておいて、君は小津安二郎とか溝口健二をやれ、というわけですね。つまりこれは、「君は小津や溝口についてのリソースにアクセスしやすい立場にあるのだから、その言語的・文化的アドバンテージを武器にしろ」ということですよね。これに似たようなことが、おそらくアート・マーケットでも起こっている。非西洋圏の人間が西洋の芸術を学び、その歴史や動向について熟知していたとしても、どこかで自分の固有性のようなものを獲得しなければならないという状況があるとする。そのようなときに、これまで自分が身を引き剥がそうとしてきた「日本的なもの」を武器とせざるをえない場面が、今日の「グローバル」な状況下においては遍在しているのではないでしょうか。
ただ、そのような「グローバル」な状況が一概に悪いというわけではなくて、他方では地理的にきわめて隔絶して見える地域の人間どうしが、思いもよらない仕方で関係を持つということもありえるわけですよね。身近な例ですが、先日、個展のために来日していたモルドバ出身のアレキサンダー・ティネイというアーティストに会いました(ANDO GALLERY、2014年11月29日まで)。モルドバはウクライナとルーマニアに挟まれた小国ですが、彼にインタビューするためにいろいろと調べてみるまで、モルドバがどのような文化や歴史をもっているのか、ほとんど知りませんでした。ですが、ティネイという作家をひとつの入口として、モルドバの言語的、歴史的、政治的な問題について、かなり興味深い話をすることができました。こういう思いがけない出会いは(広義の)芸術に関わっていると比較的起こりうることだと思いますが、今日のように国際的なトラフィックが増大している状況下では、それをグローバル化のポジティヴな側面として捉えることもできると思いますね。

藤田──ええ、価値算出によって地方が根こそぎになるという汎資本主義的状態が予想される一方、トラフィックが増え、文化交流機会が増えることによって文化も思想も豊かになるし、うまくいけば平和が共有される可能性も増えるかもしれない。

物質的な媒体をなくしたアートのこれから

藤田──さてここで、物質的な媒体をなくした芸術はこれからどのように提示され、評価されていくのか、あるいは作品は新しい美学的パラダイムへ移行しているのか、そこに理論は追いつけるのかといった、批評、批評家の役割についても考えていきたいと思います。

Lucy Lippard, Six Years:
The Dematerialization of
the Art Object from 1966 to 1972,
University of California Press, 1997
星野──芸術の非物質化という問題は、考えてみれば1970年頃から言われてきたことではあります。アメリカの美術批評家であるルーシー・リパードが、それこそ「芸術の非物質化」というテクストを書いていますね(1973年の『シックス・イヤーズ[Six Years: The Dematerialization of the Art Object from 1966 to 1972]』という著作も参照のこと)。リパードの著作が刊行されてからすでに40年以上の年月が経過していますが、今日ではそのような傾向が――反復と変遷を繰り返しつつ――より加速しているとも言える。藤田さんが「前衛」の起源とする1968年の残響はいまだに鳴り響いており、まさに「前衛のゾンビたち」が徘徊しているとも言える状況です。
ゆえに、いま芸術作品を非物質化することに特別な意味があるわけではないし、ましてやそれを素朴に前衛と呼ぶこともできない。これはつねづね考えていることなのですが、芸術が物質的なものから解放された果てには、アートのより本来的な意味、つまり「アルス」ないし「テクネー」(ともに「技術」の意)への先祖返りが待ち構えているのではないでしょうか。そもそも私たちが大文字の「芸術(アート)」と呼んでいるものは、18世紀に成立した近代芸術のパラダイムのもとにあります。それが非物質化し、その外延を際限なく拡張していくとき、アートはひとつの「技術」に──すなわち問題提起をする「技術」であるとか、ふだん見過ごされているさまざまな社会問題を浮き彫りにするための「技術」といったものに――先祖返りしていくのではないでしょうか。

藤田──ここでいう「美学」とは、いわゆる「美しい」ことについての学ではなく、感性とか認識の方法論についての学のことであって、18世紀半ばのバウムガルテンなどに由来する領域だと思いますが、おっしゃるとおり物質的なものから離脱してきた美、あるいは美を中心的な価値にしなくてもよいという20世紀以降の美術がありますね。第一次大戦以降のモダニズム絵画は、「美」そのものを疑って、ぶち壊そうとしたわけですし、そのような歴史の積み重ねの上に現代アートはあるはずですから。
何を「美」と感じるか、何を「芸術」と考えるかを巡る感性や認識は、絶えず変動していますが、それらの観念の変化には、対応する下部構造の変化があるとも考えられます。例えば17世紀のオランダでは、商人が絵を買って家に飾るからタブローは小さいものが主流だったし、20世紀になって大量消費社会がやってくれば絵画もパターン配置構成的になる。情報社会になれば当然情報を芸術に取り込むことが企図されます。
現在われわれは第三次産業が優勢な、コミュニケーション資本主義、認知資本主義的な社会に暮らしています。このように産業構造の変動によって美学のパラダイムが変更するという単純ではあるが有力でもある仮説に乗っ取って考えれば、非物質的な領域に芸術の中心がシフトするのは自明の理であって、その事態には抗うことはできないのではないかというのが、冷静に人類の歴史を遠くから突き放して考えているときのぼくの考えではあります。
しかしもう一方、現実に生活して、作品に触れて、素朴に感動したり喜んだりしている人間としてのぼくが、「それでいいのか」とも囁くのです。産業の潮流や下部構造的欲求に突き動かされるままでいいのか。芸術の源流であるアルスやテクネー、あるいは近代日本で育まれた教育学的な芸術や、われわれ自身が美術館へ通って身につけてきたような慣習的なカテゴリーとしてのアートなど、さまざまなかたちの「アート」がありえますが、例えば「政治」や「ネゴシエーション」「関係性」「コミュニケーション」といった要素との結合を目的として「アート」をそこに入れてしまったときに、「アート」の存在価値そのものが消滅してしまうことはないでしょうか。
たとえば、非物質的状態をも芸術というのであれば、論理的には「社会運動」も「デモ」も「介護労働」もアートとなりえますよね。でも現実的にそれらをアートと呼ぶ人はいないか極端に限られている。ということは、非物質的になったアートに対して、これはアートで、あれはアートではないというなんらかの審美的な判断を下す制度が現実的には機能しているんです。まずは、そのことは認めたほうがいいだろうというのがぼくの考えです。「美的判断」は、しているだろう、と。

星野──そうですね、なにがアートでなにがアートでないかという議論は、それ自体きわめて長い歴史をもっています。きわめて単純に言ってしまうと、そのような判断を支えているものこそ、俗にアート・ワールドと呼ばれるものでしょう。そこでは議論の勝敗を決める裁判官がいるわけではなく、学芸員、批評家、研究者、ギャラリスト、コレクターといった複合的なエージェントがつくりあげていく総体としてのアート・ワールドのなかで、これはアートである/アートではないということが、結果として合意形成されていく。
近年の例で言えば、Chin↑Pomの初期の作品である《スーパー・ラット》(2006)などは、両者の微妙なラインにあった作品だったと思います。しかしその後、Chin↑Pomが一定の著名性を獲得し、岡本太郎をはじめとする現代美術史への参照行為を行なっていく過程で、彼らの作品はアートとして成立しているのだという曖昧な合意形成がなされていった。少し遡りますが、別の例として、かつてKKの《ワラッテイイトモ、》(キリンアートアワード2003 審査員特別優秀賞)という作品があった。この作品は椹木野衣さんが批評の対象として取り上げたこともあり、当時は大きく注目されましたけれども、その後KKが継続的に作品を発表していないこともあって、現在では一部の人たちが記憶にとどめているだけだと思います。つまり、ある固有名をもった作者が、ある圏域において継続的に作品を発表している/いないことも、それがアートである/ないことを保証するひとつの判断基準になる。とはいえ、もちろんこれも、あくまで先に触れた近代的な芸術のパラダイム内部の話です。

藤田──もちろん、星野さんのおっしゃる通り、現実に、なにがアートでなにがアートにならないかは、かなり曖昧なプロセスのなかで、相当身も蓋もなく決まっている側面はあります。そういう生々しい現実は現実として認める一方で、芸術が芸術でありつづけるための価値の中心が理念的に求められる続けるべきだと思うのです。それは一致しなくても構わないかもしれません。ぼくにしても18世紀的な美、つまりロマン主義的な美の概念を素朴に信じているわけではないんですよ。「美」という言葉に特有のニュアンスを取り払いたければ、「芸術の固有性」でもよいです。ほかのジャンルではなく、芸術でなくてはできないことはいったい何なのか。それを追及しなければ、これだけの過剰流動性でジャンルの境界が失われてきている時代では、芸術そのものの存在意義への社会的な合意がとれなくなるのではないか。そうなってしまうと、個人的にはつまらないのです。
ネゴシエーションがアートなら、それはデモや国会のほうが優れていないか。コミュニケーションを組織するのがアートなら、Facebook社の方がすごくないか。人と人とが接する楽しさが重要なら、それこそただの「祭り」でいいではないか。それらとは違う、芸術にしかできないことはなんなのかを、作り手も評者も自覚的になり、社会に向かって積極的に提示し、説得する必要があると思うのです。

201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


「参加型アート」「アール・ブリュット」──コミュニケーションのためのアートと、これからの美術館のかたち
まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈
岐路に立つ公共図書館──集客施設か、知的インフラか
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