「参加型アート」「アール・ブリュット」──コミュニケーションのためのアートと、これからの美術館のかたち

山崎亮(コミュニティデザイナー)+保坂健二朗(東京国立近代美術館学芸員)

公共施設としての美術館の役割、インスティテューションの意味を再考する


編集──地方でのアール・ブリュット美術館のあり方や、福祉分野でのコミュニティデザインで得た知見をさらに都市へ戻すためには、なにが可能だと言えるでしょうか。

山崎──都市に対してはあまりにも遅れていると思うことがとても多いんです。全国でプロジェクトを行なうなかで、面白いことができるのはたいてい地方の小さな市町村です。逆に言えば、数あるプロジェクトのなかで止まってしまっていたり、中庸なものになっているのは大都市のものが多い。
大都市の行政は、われわれや住民の突拍子のない意見を、これまでの行政の経験からできる/できないで判断してしまうのに対し、大都市からは下に見られているような地方の中小自治体では、理論で反対しようとせず、熱意を持って取り組んでくれるので、結果的におもしろいことができるんです。
人口が減少するという変曲点を超えた今後、どうしようもなくまずいことになるのはおそらく都市部ではないかという気がしています。緩やかに高齢化を経験してきた中山間地域に比べて、都市部は今後高齢化が急速に進むのに、助けあって生きるための人と人とのつながりがほとんどない。そのきっかけも乏しい。ですから、たしかに社会福祉分野で学んだことを、どのように都市で展開していけるかということを考えていかなければなりません。
大都市の行政が住民にやってほしいと思っていることと、住民がやりたいと思っていることにはズレがあります。行政側は防犯・防災、住民はガーデニングをするスペースを欲している状態があるとします。そうした時にわれわれがやるべきなのは、両者の齟齬を埋めることだと思い始めています。「やればやるほど防犯につながるガーデニングとは何か?」と考える。たとえば道路にガーデニング・スペースを設け、子どもたちが登校する時間に必ず誰かが水やりに来るようなシステムを考えれば、住民の負担なく、子どもの見守りや防犯を実現できると思いませんか。
実は、この考え方をどこで得たかというと、福祉分野なんです。福祉分野においても、福祉分野の人たちが望んでいる障がい者支援や高齢者の暮らしていける社会づくりと、住民の望む社会にはズレがありました。ほとんどの人たちはそれほど「積極的に社会福祉に関わりたい!」とは思っていないのが現状だとすれば、知らないあいだに福祉に関わっていた、というやり方を考えたほうがいい。アール・ブリュットはそのズレにうまくコミットする可能性があるというのが先ほどのお話でしたね。アートや美しいものが好きという気持ちが障がい者支援と住民の気持ちをうまくつなげてくれる。福祉がアール・ブリュットを手に入れたように、ズレを調整する方法のひとつを都市計画でも考えていきたいですね。
これは、都市計画以外でも考えていかなければいけない問題であり、可能性です。建築家の乾久美子さんとやっている「延岡駅周辺整備プロジェクト」は、中心市街地活性化事業の一環ですが、そこでも住民と行政の要求をうまく調整することが必要とされています。たとえば、駅前に人を呼ぶために町の人々が使用している公民館を町に再び開いていくといったことです。公民館のなかでは、琴や日本舞踊の練習を熱心にする人たちで熱気にあふれているのに、外部からは隠れて見えない。一方で、駅前は使う人がおらず閑散としていて、町には活発な動きがまったくないように見えてしまっている。それなら、公民館で行なっていた活動を駅前の人が見える場所でするだけでいんじゃないかと。そうすれば、空き地や空き家と商業スペースが混ざり合った場所ができていく。そのために乾さんはガラス張りのとても気持ちのいい空間を提案してくれています。町がやってほしいと思っていることと、皆がやりたいと思っている気持ちをどこかですりあわせれば、無意識のうちに町のためになる活動ができる。この方法はこれからいろんな分野でできることだと思っています。

保坂──最近気になっている「インスティテューション(Institution)」という言葉があります。主に「制度」「組織」という2つの意味を持っていますが、原義は上が決めたものではなく人々の経験や習慣がかたちになったもの、下からの気づきによる制度のことをいうそうです。対極にあるのが「コンスティテューション(Constitution)」で「憲法」や「協約」を意味しますが、こちらは皆が守るべきもの、上から与えられるもの、一度決めたらそう簡単には変えられない制度です。インスティテューションの第二の意味である「組織」は、人々の経験や習慣がかたちになり、形骸化したものとして捉えられます。
美術館の多くは、「形骸化した組織」としてのインスティテューションになりつつあります。一部の美術ファンのために運営されていて、身近な経験や習慣とは結びつかない存在になってしまっているのです。しかし、特に地方ではインスティテューションである公立の美術館が不便な郊外に建っている一方で、まちなかにアートスペースやアートイベントが増えていて、アートとの関わり方が再編成されつつあります。もちろん、美術館の立地の問題は、美術館に帰せられるべきではなくて、行政サイドに問わなければなりませんが、ともあれ、そうした動きに既存の美術館はどのように関わっていけるのかを念頭におくことで、美術館を持続的に再編成し続ける仕組みを考えることができるよいタイミングだと考えています。そのためにも、「形骸化した組織」としてのインスティテューションから「気づきによる制度」としてのインスティテューションにもう一度立ち返らなければならない。
今や美術館は、多数の市民から「自分とは関係がない、税金を無駄遣いしている公共施設」と批判されて真っ先に壊されかねないものになってしまっています。だからこそ、行政の側と協議しながら市民とどう向き合っていくか、インスティテューションとはなにかを考えていかなければなりません。そのような状況でアール・ブリュットの美術館を見ると、いろいろなタイプのワークショップや展覧会を行なったりしていて、その自由というか、自然体のやり方から刺激を受けます。公立の美術館でも、たとえばイギリスの美術館は近年、高齢者ケアなどの観点から、病院とインスティテュートする試みを行なっています。

山崎──日本でも、昨年からスタートした「あいうえの」プロジェクトでは、上野公園にある美術館や博物館、図書館、大学、動物園やなど9つの文化施設が互いに協力して、子どもたちが楽しめる「ミュージアムの冒険の舞台」である文化施設のあり方を考えはじめています(http://museum-start.jp/)。
権威のある美術館も、全国各地に誕生しているアール・ブリュット美術館も、美術館同士でインスティテュートしていくような新しい枠組みを参加型でつくっていくことが望まれます。あるいは福祉がデザインやアートと接続したように、美術館もほかの分野とインスティテュートすることで、美術館が多くの人にとって必要な場所になっていくことができる。その方法をわれわれはアール・ブリュットから学ぶことができるのではないでしょうか。
今日はたいへんためになる対話ができました。ありがとうございました。


[2014年10月17日、東京駅八重洲口にて]



★1──19世紀後半のイギリスで起きた貧困をなくすための運動。貧困を個人の問題ではなく社会構造の問題だと捉え、問題を抱える地域に知識人が入り、住民とともに問題解決を行なう。
★2──セツルメントの拠点となる施設。




山崎亮(やまざき・りょう)
1973年生まれ。コミュニティデザイナー。株式会社studio-L代表。東北芸術工科大学教授、京都造形芸術大学教授。主なコミュニティデザイン=兵庫県立有馬富士公園、島根県隠岐郡海士町、鹿児島県鹿児島市「マルヤガーデンズ」ほか。主な著書=『コミュニティデザイン』(学芸出版、2011)、『ソーシャルデザイン・アトラス』(鹿島出版会、2012)、『コミュニティデザインの時代』(中公新書、2012)ほか。

保坂健二朗(ほさか・けんじろう)
1976年生まれ。東京国立近代美術館主任研究員。近現代美術。主な展覧会企画=「建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション」、「ヴァレリオ・オルジャティ」、「フランシス・ベーコン」、「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより」ほか。主な著作=『アール・ブリュット アート 日本』(監修、平凡社、2013)、『キュレーターになる!アートを世に出す表現者』(共著、フィルムアート社、2009)ほか。


201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


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