近代建築と文化から読み解く都市のコード

中川理(建築史家、京都工芸繊維大学教授)+山盛英司(朝日新聞大阪本社生活文化部長)

保存と振興の基準

中川──都市空間の魅力として、その重層性がよく言われますが、大阪の街こそそれをよく体現していますよね。一つひとつの空間が特徴を持っていて、かつ閉鎖的であるにもかかわらず、それらがどこまでもずるずるとつながっている。

山盛──それをストレートに言えばわかりにくいということになるのですが......(笑)。
保存の話に戻りますが、以前、建築史家の藤森照信さんに、建築保存に関して、どこまで残せばいいのか、尋ねたことがあります。藤森照信さんは「すべて残すべきだ」とおっしゃっていました。選んで残せと言っても壊されるのだから、すべてを残せと言い続けるんだと。 一方でよく言われるのは、その都市が最も繁栄した時代の建物を残すべきだという考え方です。あるいは、機能主義的につくられた建築は機能を満たさなくなった時点で壊すべき、ということも言われます。
東京のようにつねにNo.1であった都市に比べ、大阪のようにナンバーNo.2、3──大大阪時代に一瞬No.1になったわけですが──であり続ける街における近代建築の保存とはどのような方法がありえるのでしょうか?

中川──なにを残すか、どこまで残すかは、建築の保存を考えるうえでの永遠のテーマだろうとも思います。たとえば、東京駅のドームの復元も、空襲の被災のためにドームから三角屋根に架け変わったのも歴史であり、本来はそれを保存するべきで、ドームを復元すべきではないという議論もありました。そうした評価も間違いとは言えない。しかし最終的には、はやりあのドームがあったほうがよい、という評価が広く共有されそれが復元されることとなった。最初から絶対的な原則があるわけではなく、議論の末に評価を共有することができればよいのではないかと思っています。
規模も大きくモニュメンタルな建築物を保存しようとする場合には、保存の原則をあらかじめ示さなければいけなくなるでしょうが、大阪は、個々のオーナーが細かな単位でつくってきた建物の集合という性格が強いので、それぞれで考えてそれぞれの方法で改修なり改築なりを行ない、それが積み重なっていくというのが本来のあり方ではないかと思いますし、そうしたやり方が大阪だからこそ可能だとも言えるでしょう。

山盛──京都の場合、保存に関しても新築に関しても、「京都らしさ」を求められますが、大阪の場合は民間に委ねられているというか、比較的自由なのですね。企業の経営者が独自につくりあげてきた都市ですから、《あべのハルカス》ができても、都市景観についての強い反対運動や議論が起きるといったことはなかったようです。

中川──ええ、でも京都では《あべのハルカス》建設のようなことはありえない話で、都市に対する積極的な投資という点では、大阪はすごいです。

山盛英司氏
山盛──収益的には苦戦しているようにも聞きますけれども。そのハルカスと梅田の間にある心斎橋も活気を呈していますよね。それぞれが自由にやっているというか。ぽつんと残されている《心斎橋大丸》(ウィリアム・ヴォーリズ、1933)は、建て替えに揺れているようですが、街にとって貴重な存在です。心斎橋大丸周辺の御堂筋に面した建物は、経済原理で、簡単に作り変えられそうで、仮設的なものが多いように見えます。ただ、あれほどの重厚さと軽さのコントラストの落差は、東京でもあまり見かけませんよね。


中川──確かにそうですね。そうしたいわばハリボテのような建築が、徐々に淘汰されていくようになればよいのですが。その淘汰の過程においてこそ、地域の核として古い建物の価値が重要となるはずです。
では、どのようにすればそうした淘汰が実現するのか。そのことを考える上で、行政の政策、とりわけその政策がどのように示されてきたのかを考える必要があるでしょう。少し遡りますが、私は日本の近代都市史を探る中で、都市の形を作る上での何らかの正当性、つまり都市はこうあるべきだということが主張されるようになるのは、1920年代に求めることができるのではないかと睨んでいます。大阪でいえばまさに關市政の時代にあたります。そうれまではどうだったか。戦前の地方制度では、地方の議員たちは名誉職でした。彼らは給与をもらわずに、利害調整と秩序維持につとめた。しかし都市が経済的に発展していくにつれて、名誉職の議員から専門職の官吏へと、都市政策の主体が変わっていく。そのときに技術や知識を持った人々が市役所のなかへ入ってきて、専門官僚制が実現します。その先鞭をつけ、最も成功を収めたとも言えるのが關市長の時代なのです。それまでの名誉職議員による議会がリードする時代では、積極的な都市改造や都市政策は実現しにくい。そこでは、いくら都市改造の必要性や正当性が主張されても意味がなかった。地域の利益代表としての議員たちによる利害調整しかなかったからです。その後、専門職の時代になって学者もその議論に参加するようになり、正しく合理的な都市とは何かといった議論が起きることになります。地方自治ということでいえば、戦後になり市長や議員の公選制が実現する変化は大きいのですが、都市政策の決定・実施の過程だけを観察すると1920年代に築かれた方法から、それほど大きな変化はない。つまり、正しくて合理的な都市とはなにか、という議論から都市をつくろうとしている点は同じなのですね。
ところが現在、そうした正当性をなにに頼るかということがどんどんあいまいになってきています。

山盛──マスター・プランがあって、それを下へ適用していくといったかたちが難しくなってきているということですね。

中川──そうです。まさに「グレート」という言葉が通用しなくなったのと同じですね。都市を発展させていく大目標があれば個々の政策の正当性も主張することができますが、現代では、その大目標そのものの正当性を担保する根拠が示せないのです。 だとすれば、かつての利害調整に戻るしかないのではないか。つまり、絶対的な目標をかかげるのではなく、都市内に起こる利害をうまく調整することで都市をコントロールしていく。それが、まさに建築や景観を洗練させ淘汰させていくことに繋がる唯一の方法だろうと思います。
たとえば2002~2013年にニューヨーク市長を務めていたマイケル・ブルームバーグの政策などもそうした例ではないかと思います。そこには一貫した政策があるというよりは、それぞれの利害について丁寧に、しかし大胆に対応している、そんな感じだと思いませんか。

山盛──そうですよね。アメリカ同時多発テロによって都市を構成する基盤が変わってしまった2002年に、ブルームバーグがルドルフ・ジュリアーニ市長の後任になって以降、低所得者の街だったハーレムに白人や知識層が流入したり、4万棟のビルが建ったりしました。また、新しいヤンキー・スタジアムを建設したり、大規模に再区画整備したり、渋滞対策として自転車での移動を促したり、といったことをするわけですが、それをうまくコントロールしたという感じですよね。

中川──もちろん有数の大富豪であることや、強引な政治手腕が問題視されることもありましたが、これからの市長として求められるのは、彼のような利害調整の力量ではいかと思うのです。大阪はもう長い期間にわたって「グレートな大阪」という目標をある意味で失ってきたわけですから、民間レベルでは小さな利害調整のなかで都市を組み立てていくということを実はすでに実践してきたということも言えるのでしょう。

『白熱講義
これからの日本に都市計画は必要ですか』
(学芸出版、2014)
山盛──『白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか』には大阪についての記述がどれくらいあるかと思って読んでみたのですが、気づいた限りでは、日埜直彦さんの発言で一カ所しか出てこないんですね(笑)。この本でもマスター・プランから離れた都市計画の可能性について語られています。森ビルの開発を例に言われるように、都市全体をいじることはもはや不可能だから、都市計画ではなく、ビルのなかに街をひとつつくってしまうようなやり方が主流になってきているわけですよね。うめきたの第二期区域開発が始まりますが、大阪市は民間事業者や設計者からの提案を募集して活用するようです。

中川──そうですね。ただ、これから求められるようになるのは、ブルームバーグのような顔が見えるということではないかとも思います。誰が調整しているのかという主体が見えるということですね。先日、韓国ソウルにあるザハ・ハディドの《東大門デザインプラザ》(2009)を観てきましたが、あれはデザイン・ソウルという政策の中に位置づけられたもので、それは呉世勲(オ・セフン)市長のリードのもとに進められた政策だったのです。ただ、デザイン・ソウルも中身はかなりばらばらなものなのですが、市長の政策のストーリーという中に、《東大門デザインプラザ》もうまくはまっているので、あの特異な造形も説得力があると感じました。

山盛──ソウルの件は、中川さんが読売新聞の連載「建築季評」(2014年3月27日)でも書かれているように、韓国でも相当な議論があったわけですよね。

中川──そうです。呉世勲はその後失脚してしまいました。完成したときは違う市長ですから。

山盛──ブルームバーグは人望もあり、数々の文化事業を行なって、12年ほど市長を務めていた。

中川──全体を一貫するマスター・プランはないにもかかわらず、ブルームバーグの名前によってまとまっていったところが重要だと思います。

山盛──橋下市長は、記者に海外視察について答えた時、うめきたと御堂筋について「もともとの今回の視察は都市経営で都市のまあ雰囲気といいますか、状況を感覚をつかんでくるのを第一の目的に掲げてましたからね、ニューヨークなんていうのは最たるもので、都市経営するにあたってどういう道路の状況になっているのか、広場の状況になっているのか、公園の状況になっているのか、まあ街並みっていうものを感じてくるっていうのが第一の目的ですから」(朝日新聞デジタル2013年5月22日)と語っています。それと同時に「書物で勉強するっていうことではなくて、感じた感覚で僕は判断していくわけですから」とも発言していますが、感覚に頼ってしまうこととブルームバーグの方法はまあ違うのかな、と(笑)。

中川──そうですね。いまアメリカではニューヨークだけではない。顔の見える市長がいろいろ出てきていますね。良い市長が手腕を発揮すれば良い街になるという捉え方が広まっているように見えます。
そうした意味で、橋下市長が描く政策は、「大阪都構想」に収斂してしまうことに限界があるのだと思います。都市の細部、あるいはその景観やデザインについての話もあるのですが、それらが政策の中で拡散してしまっている印象です。本来ならば、そうした個々の政策に何らかのストーリーを作っていくことが求められるはずなのですね。

山盛──大阪の街自体が民間で自律的に動いているという感覚はありますね。以前は心斎橋が若者にとっての中心でしたが、10年ほど前に船場のほうへ北上してきました。そしていま、さらに北上して梅田駅の北東の中崎町近辺に若者が集まってきています。アーティストが中心となってお店ができたりして、休日になると若いカップルたちがぞろぞろと街を歩いています。北西の福島にも若い会社員などが目立ちます。これまで御堂筋と堺町筋に囲まれたエリアで完結していたものが、その外側へと自律的に広がっている印象を受けます。

中川──ええ、そしてそうした自発的な動きの中に、NPOなど自律的な組織も立ち上がってきているところが面白いですね。そうした街の変化を集約して、うまくまとめてコントロールしていくことができれば、新しい都市の展開のスタイルを提示できると思います。

山盛──現在、大阪の町並みは歴史的な資源としては、文化観光とはそれほど結びついていないので、大規模に保存しなくてはいけないという拘束力もなく、東京や京都とは異なったかたちのもうひとつの求心力のある都市として提示していけるといいですね。

中川──その求心力をどう作るのかも、街の細部から積み上げるような形ができたらよいのですが。そのためには、建築家の役割も重要なのかなと思います。建築史家であり大阪府・大阪市特別顧問の橋爪紳也さんなどもその点をよく理解していると思います。例えば、中谷ノボル氏(アートアンドクラフト)のように、既存建築のコンバージョンをテーマに設計をするような人たちが出てきている。彼らは、大文字の「都市」をどうするかではなく、都市の細部の課題に入り込んでいくことを目指している。かつて、磯崎新さんが「パラサイト」と呼んだような感覚ですね。時代をリードする建築をつくる、と意気込むのではなく、都市に寄生しながら、そこにくるまれてその中で自己実現してゆく。そのよう新しい感覚が、関西、特に大阪で目立つような気がします。
また、建築の恒久性に対する意識が変わってきていることに対して、建築家の新たな役割が求められているとも思います。建築は本来的にモニュメンタルな性格を持っていますが、最初に設定された象徴性がそのまま維持されるわけではない。建築家の職能として、既存の建築物や建築群に、時代に応じた新しい価値や意味を与えていく。それも重要になるのだと思います。

山盛──それは公共の仕事を多く手がけた、ナショナル・アーキテクトであり東京を拠点としていた丹下健三と、民間を仕事の主体とした村野藤吾の比較とも似ていますね。梅田駅の周辺では、阪急梅田の改築など環境は激変していますが、村野さんの設計された銀色に輝く《ホワイティうめだ吸気塔》(1963)がしっかりと残っているのは感慨深いです(笑)。

《梅田スカイビル》[photo:編集部]
中川──以前、《大阪ヒルトンホテル》(1986)の前の路上から、《大阪中央郵便局》(吉田鉄郎、1939)と《梅田スカイビル》(原広司、1993)が並んで見たときになんとも大阪らしい風景だと観じたことがあります。私たちは一口に「モダニズム建築」と言ってしまいますが、あの2つはまったく違うものですよね。そのことが了解できたということもあるのだけど、そうした建築が幾重にも重なって都市が構成される景色が大阪らしいのだろうなと。その重層性を、統一させようとするのではなく、バラバラのまま自らのものとして少しずつ変えてくような発想が求められるだと思います。
たとえば、アトリエ・ワンの『メイド・イン・トーキョー』(鹿島出版会、2001)の方法のように。彼らの「ダメ建築」という判定は、「ダメ」としながらもいとおしさが感じられるものです。それを自らの感覚や製作態度に重ねていくような。そうしたことがこれからの都市に、というか大阪こそに求められるのでしょう。

山盛──一方で、神戸や京都の場合、都市景観を何らかの形で規定する、住民たちの集合無意識的ともいっていい、規範的なルール、コードがある気がしますが、大阪にははたしてあるのでしょうか?

中川──最もそのコードがあるように見える京都でも、かなりその揺れ幅はありますよ。私が調べている明治期などはその試行錯誤の様子がすごい。たとえば四条通拡幅のため両側の建物を一新するにあたり、店舗のオーナーたちが新しい街に相応しいデザインとはなにか、ということを模索したのだけどよくわからないので、建築家の武田五一に相談に行ったりしています。結果的には和洋折衷がよいのではないかということになったようなのですが、実際に登場した町並みはそれでもかなり混乱している。そうした歴史を踏まえると、本来、都市ごとのコードは意識的につくるものではなく、自律的に形成されていくことが理想だと思いますけどね。

山盛──たしかに、《あべのハルカス》ができるときにも、《グランフロント大阪》のときにも、大阪の街に見合う建物かどうかという議論は活発化しませんでした。おそらく京都や神戸なら街に相応しいデザインとはなにか、という議論が起きていたでしょう。

《グランフロント大坂》[photo:編集部]
中川──そこが大阪のいいところだと思います(笑)。

山盛──全国的にその街「らしさ」が都市景観に求められる現代において、このところの大阪はある種異例ともいえる状況ですよね(笑)。
一方で「粉モン文化」のように、外部のイメージをフィードバックして自分たちのセルフイメージにつくり変えていくプロセスも見られます。先の橋爪節也さんの『大大阪イメージ』によると、大阪の「こてこて」や「土性骨」などは実はそうしたものだそうですね。たとえば、通天閣のそびえる新世界の繁華街を歩くと、フグだの、鶴だの亀だのの巨大なハリボテが吊られていて、ディズニーランド化しています。観光客もたくさんいて、まさに観光スポットとしてのセルフイメージを自分たちで再解釈してつくりあげている。こういうプロセスのなかで、今後、《グランフロント大阪》も局所的なセルフイメージがつくられていくのかもしれませんね。

中川──上から都市全体の枠組が与えられのではなく、部分がそれぞれ考えてルールをつくっていくというプロセスは健全ですよね。その際に、外部から与えられるものをセルフイメージ化していくということでもかまわないと思います。京都の都市イメージなんて、ほとんどそれですから。そう考えると、他所から価値付けられる都市イメージが少ないというのも大阪の特徴ですね。例えば。大阪にはお土産物がないということも昔から言われていますしね(笑)。

山盛──大文字のコードといいますか、大きな物語がないんですよね。

201409

特集 大阪、その歴史と都市構想 ──法善寺横丁、ヴォーリズから《あべのハルカス》まで


近代建築と文化から読み解く都市のコード
(ポスト)モダン大阪の「路地」と「横丁」
大阪の近現代建築と商業空間──「近代建築」と「現代建築」の対立を超えて
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