「コモン化」なる社会的実践から空間について考える──デビッド・ハーヴェイ『反乱する都市──資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』

佐々木啓(東京工業大学補佐員)
デビッド・ハーヴェイ『反乱する都市──
資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』
(森田成也+大屋定晴+中村好孝+
新井大輔訳、作品社、2013)

1 「都市への権利」の現在

資本という存在が、都市を生み都市をつくり変える原動力であることを否定する人は少ない。資本主義の原理は永続的な剰余価値の追求にあり、都市開発と呼ばれる大規模な都市空間の改変は、この剰余を吸収し更なる剰余を生産する場として決定的な役割を果たしてきた。郊外の庭付き戸建住宅や都心の高層マンションでの暮らしは、確かに生活の型ではあるが同時に消費の対象でありひとつの商品であった。しかし経済的にそれを選択できる人々にとってそうなのであって、資本はそのような選択肢のない貧しい人々を都市から排除し続けてきた。マルクスが『資本論』で定義した、生産手段を支配する少数の資本家と、生活のために労働力を売る多数の工場労働者という階級による搾取の図式は、工場から都市に拡張され、大規模な都市開発を利益追求のために実行する一部の集団と、日常生活の質を領有され疎外される多数の都市労働者という別種の階級編成を形成する。デビッド・ハーヴェイによる本書『反乱する都市』はこうした資本とアーバナイゼーションの内的な結びつきとそれが生み出す階級闘争を詳述し、1%の人々の手にある「都市への権利」すなわち「われわれの内心の願望により近い形で都市をつくり直し、再創造する集団的な権利」(p.26)を99%の人々のもとに取り戻す道を模索するものだ。

2008年の世界的な金融危機やそれに伴うヨーロッパ各地での動乱は、疎外された人々による階級闘争が目に見える形となったものだが、ハーヴェイによれば資本主義の破綻と疎外された人々の抵抗運動はなにもいまに始まったことではない。オスマンによるパリ大改造とパリ・コミューンの形成、ロバート・モーゼスによるアメリカの郊外化戦略とジェイン・ジェイコブスの抵抗運動に代表されるように、資本が金融政策と都市改変を通して推し進める不均衡とそれに対する抵抗運動は、場所を変え形を変え繰り返されてきたのだ。ハーヴェイはこれらの歴史的出来事を単に歴史としてではなく、いまを生きる人々が都市への権利に取り組むにあたって参照可能な知見として取り扱う。都市とは資本に支配されつつ同時に人々の反乱の繰り返しを内包するようなひとつの運動態である、という見立てが通底している。

しかし次のようにも言える。およそ半世紀前の1967年、すでにアンリ・ルフェーブルが『都市への権利』で主張したように、われわれは国家や資本が自らの存続のために空間を商品化し、人々の使用価値の集積であった都市が交換価値に置き換えられる過程が進行し、人々が都市から疎外されつつあることを知らなかったわけではなかった。むしろ半世紀もの間、もしくはもっと長い間、われわれは資本がアーバナイゼーションの主たる原動力となっていることに疑義を投げかけつつも、これに歯止めをかけ、そのオルタナティブとしての都市を構築することに失敗してきたのではなかったか、と。都市への権利は本当に獲得しうるものなのか。特にわが国の都市空間や、グローバルな資本主義経済への国家的な舵取りに目を向けたとき、本書で紹介される世界各地の都市の反乱との接点を見失いそうにもなる。いったいどこにわれわれの都市への権利の端緒はあるのだろう。ハーヴェイの言葉をヒントに具体的な都市空間から考えてみたい。

2 「コモン化」という社会的実践と闘争の諸形態

都市への権利、すなわち集団として都市の再創造に関わる権利を考えるうえで、まずは集団が生産する価値とはなにか、またそれがいかにして資本に領有されるのかを知るところから始めよう。路地裏に雰囲気の良いカフェやバーの集まるとある駅前一帯が、ある日突然更地になって高層マンションに置き換わったとしてみよう。このありがちな現象では、単にそれぞれの地主が土地の所有権を手放したこと以上に、多種多様な人々が入り交じりながら生産してきたある種の空間的な質が失われる。これは決してひとりでは作り出せない点で集団的に生み出された価値だ。そして必ずしも経済的に計られるものとは限らない。ハーヴェイはこの種の価値を共同的なるもの(コモン)と呼んでいる。そしてここでのコモンは失われるだけではなく、別のコモンに置き換えられる。富裕層のゲーテッドコミュニティを思い浮かべてみよう。それは路地裏街と人々との間に見出されたコモンとは趣は異なるものだが、確かにマンションの敷地内には入居者が都市全体の人々を考慮に入れることなく、その空間資源を等しく分かち合うことを可能にする限定された価値の共有を見出せる。この種の価値も入居者が共同で出資している点で集団的に生み出された価値、すなわちコモンのひとつである。つまり都市空間、あるいは土地という共有資源を巡る闘争は、異なる集団がひとつの土地に見出す別々のコモンがぶつかり合うときに起こる。そしてたいていの場合、資本の側にある貨幣価値によるコモンが勝利する。

ハーヴェイは、これらのコモンをより正確には不安定で可変的な社会関係として定義している。この社会関係とは、自己規定する社会諸集団と社会的・物的な環境との関係のうち、その集団の生存と生計にとって重要だとみなされる諸側面のことであると補足されるように、コモンはある社会集団そのものでも、ある環境そのものでもなく、それらの間にある関係として見出される。ハーヴェイはここに環境を「コモン化」する(commoning)という社会的一実践が存在すると指摘する。すなわちコモン化という動詞的な概念を導入することで、多種多様な人々が織りなす都市空間を、異なるコモンの重なりとして分節し、ひいてはコモン化の主語たる社会諸集団の折り重なりとして理解する眼差しを与えてくれる。都市とは種々のコモン化が拮抗する場であり、原理的に闘争を内在する場である。そしてその多くに資本が勝利する場だ。このような見立てを手に入れれば、都市への権利に向けた第一歩は、資本によるコモン化によって別の社会集団のコモン化が抑制されない状態を獲得することだ、と言うことができるだろう。

コモン化という社会的実践を考えることは、公共空間の在り方を捉えるうえでも役立つ。コモンは社会集団と環境との関係であるから、単なる物的な環境である広場や街路といった公共空間はコモンではない。本書でも登場する近年の都市動乱の舞台であるカイロ・タリハール広場、マドリードのソル広場、バルセロナのカタルーニャ広場などの例では、誰もが行き来できる空間に人々が結集し、政治的な見解を表明したり要求の声を上げたりすることでひとつの明確なコモンが発現する。ハーヴェイは特に公共空間におけるコモン化が、非商品的な社会的実践となったとき、すなわち市場交換や市場評価の論理を排除できたとき、都市への権利を獲得するうえでの政治的基盤として重要な役割を果たすだろうと述べている。つまり人々の連帯が物的環境を獲得しコモン化しうるとき力を持つということだ。ゆえにここでの闘争は、資本や国家といった公共空間を管理する側が、公共空間や広く言えば教育や下水インフラといった公共財をさまざまな理由付けで減らしていくことで顕在化する。物的な環境のコントロールによってコモン化を防ぎ社会集団の力を抑制するのだ。

以上は物理的な環境を巡る闘争の一形態だが、資本は別のかたちでコモンを領有することもある。ハーヴェイはこれを「レントの技法」と呼んでいる。はじめの路地裏街に戻ろう。ここで生産されるコモンは、必ずしもその場所にいない人々にとっても独特な都市的魅力を放つ。他の地域との魅力の差が商品化される。ハーヴェイが文化コモンズと呼ぶこれらの価値は、使用されても破壊されることはないが、過度に濫用されることで質が低下し、陳腐化する。路地裏街がその賃料の安さゆえに、古い建物を改修して品の良い品々を扱うショップが集まる魅力的なエリアが生まれたとしよう。瞬く間にブランドショップが進出して地価が高騰し、さして洗練されていない品々を扱うショップが氾濫していく様子は想像に難くない。文化コモンズは消費され価値を失う。物理的に空間を領有されることはなくとも、資本との闘争は存在している。

3 空間モデルとしての「都市コモンズ」

「コモン化」という社会的実践を軸に、闘争の形態を富裕層のゲーテッドコミュニティ、政治的な集団によって領有される広場、文化コモンズとしての路地裏街を例にみてきた。ハーヴェイはこれらのコモン化された物的な環境のことを「都市コモンズ」と定義している。資本との闘争の前線でもある都市コモンズは、ある集団の社会的実践が現実の都市空間に定着されたものであり、一種の空間モデルとして理解されうるものだ。ここでハーヴェイが、都市コモンズは一個の社会集団に排他的に利用される場合と、多様な人々全員に部分的ないし完全に解放されて利用される場合がある、と述べていることに着目したい。先に述べたように、資本による共有資源の支配原理のひとつは、前者のように資本によるコモン化が他の社会集団のコモン化を抑制する点にある。つまりここでは、空間モデルの在り方がいかにコモンを巡る闘争に加勢しているかという観点で都市コモンズを考えることができる。

ゲーテッドコミュニティのような都市コモンズがその最たる例だ。これは入居する富裕層という経済的利害関係を共有し明確に規定される社会集団が、明確に領域が規定される建築空間に重ねられたものであり、囲い込みという排他の論理で構築された空間モデルである。一度ある社会集団がコモン化すれば他の社会集団のコモン化の可能性がなくなってしまうものだ。念のためにハーヴェイの注意を書き加えておくと、あるコモンためにその他のコモンが排他されることが有効に働く場合もある。例えばある自然地区を保護するためには、一般の人が入れないようにすることが得策となるように、囲い込みの論理がつねに悪になるわけではない。一方で、ハーヴェイが反資本主義闘争のための可能性として見出す、政治的な社会集団に占拠された公共空間の例は、イデオロギーを共有し組織されることで規定される社会集団が、囲いのない広場や街路など公共空間を領有することで見出された都市コモンズである。これは単に障壁のない空間であれば多様な主体による非商品的なコモン化を許容する、ということではなく(それも大事ではあるが)、ある社会集団のコモン化と同時に他の集団によるコモン化も成立するような、空間に潜在する性質の方に力点がある。考えてみれば、ひとつの物的な環境であるところの空間が複数の社会集団によるコモン化を許容することは十分に可能であったし、また一般的なことであった。例えば街路はいまや交通空間として機能することに最大限のプライオリティが与えられている(車で利用する人々という社会集団にとって道路がコモン化される)が、街路が交通空間であると同時に子供たちの遊び場であり、井戸端会議の場であり、行商人の売り場であることは同時に起こりえた。

ハーヴェイの議論をいささかはみ出すことになるが、次のように言えないだろうか。都市への権利にとってひとつの障壁となっているものは、ある物的環境と社会集団の関係において、例えば「公共に資する」といったレトリックのもとに一義的なコモン化しか許容しない空間の傾向である、と。一種のレトリックであると言ったのは、先の交通空間の例にみられるように、交通空間が公共に資するかどうかは、その時代の社会が決めることであり、潜在的には空間の側に各種のコモン化に序列をつける働きはないはずだからである。もちろんここで交通機能そのものを否定すべきだというわけではないが、この一種のレトリックを根拠として、空間の成り立ちのなかに多様なコモン化を許容しない論理が埋め込まれてしまっていることに課題をみたい。

この課題は評者自身が属する建築デザインの立場そのものに対しての問いでもある。なぜなら、こうしたレトリックを埋め込んだ形で空間を具現化するのはデザインの役割であるからだ。われわれの立場は、多かれ少なかれ、ある社会集団のコモン化を促進し、ある社会集団のコモン化を抑制することに物的環境の創造という手段で加勢している、ということに自覚的でなければならない。これは課題であると同時に、デザインの立場に用意された都市への権利にアプローチする回路でもある。物的環境と社会集団の関係を組み換えていくことは、資本や公的機関のレトリックを相対化し、多様な社会集団を許容することに繋がるはずだ。これを可能にするためには、われわれの立場の「コモン化」に対する認識を更新する必要があるだろう。

4 身体に内在するコモン

この最後の問い立てに対する思索には、いくつかの先例がある。若干の紹介をもって書評を終えることにしたい。アンリ・ルフェーブルは、人々に都市への権利を取り戻し、交換価値ではなく使用価値に満ちた「作品」としての都市(ハーヴェイの言葉でいえば、非商品的なコモンの集積としての都市、と呼べるだろうか)を取り戻すためには、遊びや祭事といった身体による空間を領有する感覚が重要だと述べている。ここでの空間を領有する感覚とは、ハーヴェイにおけるコモン化と似たものを指している。遊びや祭事、音楽や踊りといったものは集団的になりうるものだが、ここでの共同性は、政治的なイデオロギーのように個人の外側にあって人々に共有されるものというより、個人の身体にはじめから内蔵されているところに特徴がある。例えば音楽にあわせて自然と体を動かすことは、基本的に各身体に自然と備わっているものであり、ひとつの集団を形成するものにもなりうる。このことはコモン化の主体である社会集団を規定するものとして、利害関係やイデオロギーのように境界が顕在化させるもののほかに、身体に内蔵された振舞いのような柔らかな、しかし多様な共同性を見逃してはならないことを示唆している。同じ問題を建築デザインに展開し、戦後のオランダにおいて多くの遊び場をデザインした建築家にアルド・ファン・アイクがいる。アンリ・ルフェーブルと同時代を生きたアイクは「中間領域」の理論を発展させたことで知られる。それは言うなれば、空間が物事を同時に存在させうることを主張したものだ。アイクは当時の住宅デザインの理論と都市計画の理論の分断を批判した。どちらもひとつながりの空間に同時にあるにもかかわらず、住宅デザインの理論は都市を排他し、都市計画の理論は住宅を無視し、各々が各々独自の論理で組み立てられていることに反対したのだ。「中間領域」という概念は内部と外部の間に見出される部分ではなく、外部であり内部であることを示す言葉としてあるのだ。ここで取り上げるふたりの眼差しには、身体を介した集団的な活動と空間の関係に対する優れた洞察がある。デザインの立場から私たちの暮らす都市空間の多義的なコモン化を考えていくうえで、彼らから学ぶべきところは大いにあるように思われる。

ここではハーヴェイの提示する「コモン化」なる社会的実践を足がかりに、空間に潜在する力について考えを巡らせてきた。しかしこれは本書の議論の一角をなすものにすぎない。最後に付け加えておくと、ハーヴェイは個々の社会集団がそれぞれの持ち場で共同性を発揮し、自らが生産してきたコモンを自らの管理下におくことはある程度可能であると見ている。むしろこれらがその規模の問題、すなわち反資本主義闘争に向けた足がかりを手にした複数の社会諸集団がどのように連合し都市を組織するのかという課題に紙幅を費やしている。しかし評者の実感を持って言えば、このはじめの段階、都市空間におけるコモン化を巡る闘争にまだまだ重要な段階が残っているような気がしてならない。

ささき・けい
1984年生まれ。2009年、東京工業大学大学院修士課程修了。2009-10年、スイス連邦工科大学聴講生。2012年、東京工業大学大学院博士課程満期退学。現在、東京工業大学補佐員。


201311

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