想像力という理路──「黄金町バザール」と都市再開発をめぐって
アートによる街の再生
「黄金町バザール」は、神奈川県横浜市中区の黄金町一帯で、アートによる街の再生を目指して2008年より開催されているアートフェスティバルである。NPO法人「黄金町エリアマネジメントセンター」が、毎秋、国内外のアーティストや建築家、デザイナーを招いて展覧会やワークショップを催している。特徴的なのは、「黄金町バザール」とは別に、同センターが通年のプログラムも数多く実施している点だ。アートや建築についてのオルタナティブスクールである「黄金町芸術学校」をはじめ、子ども向けのワークショップやフリーマーケット、チャリティイベントなどを頻繁に実施しているほか、近年では空き店舗をスタジオとして活用するアーティスト・イン・レジデンス事業も手がけている
むろん、「アートによるまちおこし」を謳うアートプロジェクトであれば、いまや全国各地のいたるところに見受けられる。ところが「黄金町バザール」がそれらと明確に異なっているのは、その性格が黄金町という街の特殊性に大きく規定されているという点にある。周知のように、黄金町は長らく違法売買春の街だった。戦後、京浜急行の高架下には米兵相手の風俗店が軒を連ねるようになり、ほどなくしていわゆる「ちょんの間」と言われる小型特殊飲食店が乱立するようになった。こうした「青線地帯」としての街並みは、1956年に売春防止法が施行された後も変わらず続き、60年代になるとさらに麻薬の無法地帯と化し 、80年代には不法滞在の外国人女性が増加した。一時期は、500メートルの道に250もの店舗が密集するほど賑わっていたという 。店舗の軒先には赤い看板テントが貼り出され、店内からライトを照らすとそれらはピンク色に染まった 。その下に娼婦たちが立ち並ぶ光景が、かつての黄金町の象徴だった 。
このように悪化する生活環境の改善を求めて、2003年に黄金町と周辺地域の住民が中心となって「初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会」 が設立された。同協議会は行政と警察、大学と連携しながら安心で安全なまちづくりを推進してきたが、ついに2005年に警察による一斉摘発「バイバイ作戦」 によってすべての特殊飲食店の閉店および立ち退き(エヴィクション=eviction)に成功した。ところが特殊飲食店の撲滅の結果、空き店舗が急増。そのため、街の治安は依然として不安定だった。そこで、白羽の矢が立ったのが「黄金町バザール」である。アーティストを街に常駐させ、アートによって街の賑わいを絶え間なく演出することで、安心で安全なまちづくりを実現していこうとしたわけだ。いまのところ黄金町の街並みが格別に高級化されているわけではないので、エヴィクションから「黄金町バザール」への展開をジェントリフィケーション の過程としてとらえることは難しいが、それにしても街が内蔵する「負の歴史」を反転させる装置としてアートが活用されている点は興味深い。
- 吉野もも《町の隙間》2012[写真:笠木靖之]
- マイケル・ヨハンソン《Recollecting Koganecho》2012[写真:笠木靖之]
こうした歴史的経緯によって始まった「黄金町バザール」には、批判的な見解が少なくない。行政が主導するアートプロジェクトへのイデオロギー的違和感から、汚いものに蓋をするかのように暗い過去を見ないまま明るい未来を志向する姿勢の糾弾、さらにはアートを必要としていない場所でアートを根づかせる矛盾を突くものまで、じつに幅広い。むろん、このような批判が一面では正論であることは疑いない。けれども、それらの否定的な見方に通底しているのは、アーティストや鑑賞者の欲望の視点が欠落している点である。アーティストにとって「黄金町バザール」は何よりもまず制作と発表のための有効な場所であるし、鑑賞者にとってのそれは、他の展覧会やアートプロジェクトと同様、優れた作品と出会えるかもしれない可能性に満ちた場所であることに変わりはない。「黄金町バザール」がエヴィクションによる空白を埋め合わせる使命を帯びていることは間違いないにせよ、だからといってエヴィクションとの連続性をイデオロギー的ないしは倫理的に断罪したところで、なんら批評的な生産性は望めないだろう。
「黄金町バザール」が前提としているような都市の再開発やエヴィクションの問題は、むしろ所与の与件として考える必要があるのではないだろうか。現代の都市社会を客観的に診断すれば、それが再開発の計画と工事を繰り返していることは明らかであり、そうである以上、程度の差はあるにせよ、エヴィクションの問題は不可避であるからだ。ファイン・アートを標榜するアーティストたちが自らの作品を発表する空間としてホワイトキューブを想定しているように、街やストリートで表現するアーティストたちの出発点には再開発やエヴィクションの問題がデフォルトとして埋め込まれている。だとすれば、検討しなければならないのは、街やストリートのアートと再開発やエヴィクションとの関係性であり、そのような条件のもとでアーティストに何ができるのか、その可能性を問うことにほかならない。
再開発・エヴィクションとアート
再開発やエヴィクションとアートとの関係性。それは、「黄金町バザール」のようにエヴィクションの空白を充填する事例を除けば、次の3点に集約されると考えられる。
第一に、再開発された場所に新たに導入されるパブリック・アート。屋外に作品を設置するという点では野外彫刻の伝統があるが、それとは別に都市の再開発計画の一環としてパブリック・アートが設置された事例として「ファーレ立川」が挙げられる。「ファンクションをフィクションに」というフレーズに示されているように、「ファーレ立川」の特徴は再開発された街の機能とアートを一体化した点にある 。建物の外壁、換気塔、車止めなどがアート作品とされたが、それらは従来のモニュメント型のパブリック・アートとはまったく異なるありようだった。モニュメントがそのための空間を用意されるのとは対照的に、「ファーレ立川」には計画段階からそのための空間がなく、苦肉の策として都市の機能に侵入せざるをえなかったからだ 。アートをアートとして自立させるのではなく、社会の隅々にインストールすること。「ファーレ立川」が試みたのは、もちろん広い意味でのアートの社会化として考えられるが、より厳密に言えば、都市の再開発計画にアートの存在を認知させることだった。今日、再開発された商業施設や集合住宅の一角にあるアートの数々は、その承認を得た結果としてとらえることができるだろう。
第二に、アーティストが再開発される前の貧しい地域に率先して入居する場合がある。制作のための広い空間を確保したいアーティストにとって、倉庫やロフトを比較的低価格で借りることができるエリアは魅力的だ。それらを自分たちでリノベーションすることで快適で機能的なスタジオをつくり出す現象は、ニューヨークであろうと東京であろうと、先進諸国の都市であれば比較的容易に見出すことができる。そのようにしてクリエイティヴな活動を繰り広げることによって、貧しいエリアのネガティヴなイメージが一新されることも、ままある。ただ、それを契機として、資本が投入され、ジェントリフィケーションが始まってしまい、結果的にエヴィクションを余儀なくされる場合がなくはないようだ。80年代のニューヨークでは、それまではアーティストが安く使うことのできたロフトの購入価格が急騰したという 。再開発に組み込まれたパブリック・アートでなくとも、アーティストが図らずもその先鋒を担いでしまうこともあるのだ。
第三に、再開発やエヴィクションに抵抗するアート。
具体的な作品としては、クシュシトフ・ウディチコの《ホームレス・ヴィークル》が挙げられる。ニューヨークのホームレスたちが実際に使用することができるこの作品は、路上で生活するホームレスにとっての居住空間としてもデザインされていたことから、たんなるアートというより、彼らをシェルターに隔離する福祉政策への批判として評価されている 。より直接的なアクションで言えば、90年代後半の新宿ダンボールハウス村がある。新宿駅西口の地下通路でホームレスが暮らしていたダンボールハウスに、武盾一郎らのアーティストが絵画を描くという活動だった 。スクワットとペインティングによってエヴィクションに対抗したのだ。
とりわけ特筆したいのが、「黄金町バザール2012」に参加した太湯雅晴の《まちづくりのためのプロジェクト/黄金町》である。この作品は、展示室の1階に黄金町で収集した廃材で小さな小屋をつくり、その中に太湯が雇った日雇い労働者を居住させたもの。同時に、展示室内の様子を監視カメラで撮影し、その映像を2階の別室でモニタリングできるようにした。生身の人間を展示するという発想自体は、とりわけ珍しくはない。けれども太湯が鋭いのは、それを「黄金町バザール」の文脈に逆らうかたちで展示したからだ。日雇い労働者は、生身の人間であると同時に、「黄金町バザール」にとっては好ましくない過去と現在を連想させる記号でもあった。エヴィクションの対象に照明を当てることによって、エヴィクションそのものを逆照したと言ってもいい。太湯の作品は、展覧会という制度の内部でも、いや内部においてこそ、抵抗の意志を表現できることを証明した 。
- 太湯雅晴《まちづくりのためのプロジェクト/黄金町》2012[写真:笠木靖之]
再開発とアートの関係性には、このように多様なかたちがある。「再開発の美学部門」 として奉仕するパブリック・アートがあれば、アーティストがジェントリフィケーションに資する場合もある。あるいは逆に、そうした再開発やエヴィクションに真っ向から反逆するアートもある。総じて言えば、アートの両義性がこれほど開陳される局面も珍しいのではないだろうか。
ただ、そのような資本の生々しい力学を前にして、アートの両義性を対置させることの限界を感じないでもない 。両義的な身ぶりは、アートであろうとなかろうと、あらゆる政治的・社会的・日常的な実践に通底する技術だからだ 。それを、例えば谷川雁の「工作者」 のように個別の局面に応じて極限化させるならまだしも、単に両義性をもってしてアートという価値概念の属性とするには、あまりにも不十分である。アートならではの可能性、あるいはアーティストでしかなしえない何か。それはいったい何なのか。
「抵抗」を突き抜ける想像力
東京都渋谷区の宮下公園。現在、フットサルコートやクライミング・ウォールなどの設備が充実しているが、以前はホームレスが居住するエリアだった。2009年、渋谷区は公園のネーミングライツをスポーツメーカーのナイキに売却し、有料公園として改修する計画を発表した。これに対して、その計画段階からアーティストを中心に反対運動が組織された。2010年に渋谷区は大規模なエヴィクションを執行し、ホームレスを一掃。現在も反対運動は継続しているが、ここで紹介したい のは、むしろ当の宮下公園を主題にしたアートワークである。
手がけたのは、パンクバンド「切腹ピストルズ」のリーダー、飯田裕之 。彼はアーティストではないが、優れたデザイナーであり、自分たちのフライヤーを自作するほか、それらをグラフィティとして発表することもある。白と黒を反転させたシンプルな画面によって、ナイキの主張と切腹ピストルズのそれを対置させているため、非常に明快にメッセージが伝わってくる。宮下公園の問題について、これほど的確にナイキの欺瞞を突いた、正鵠を射たアートワークは他に見たことがない。しかも注目したいのは、ここで「切腹ピストルズ」が江戸への回帰を訴えている点である。
- 飯田裕之《ナイキvsイキ》
宮下公園にしろ、昨今の脱原発デモにしろ、あらゆる政治的社会的な反対運動の決定的な弱点は、それがネガティヴなイメージに終始しがちであることだ。「反対」という性格からして致し方ないのだが、それが運動の求心力を損なってしまう一面は否めない。だが、逆に言えば、ポジティヴなイメージを提供することができれば、運動の推進力は飛躍的に高まることが期待できる。「切腹ピストルズ」のアートワークが優れているのは、「江戸」というポジティヴなイメージを打ち出しているからだ。再開発によるエヴィクションに反逆しながらも、その批判の切っ先がナイキを突き抜け、「江戸」まで達していると言ってもいい。むろん、「江戸」ははるか彼方に過ぎ去った過去ではある。近代社会の合理的な基準からすれば、乗り越えるべき「前近代」に過ぎない。けれども、あえてそれを未来像として示す構想力と描写力が、「切腹ピストルズ」の強みである。野良着を日常的に着ながら、太鼓や三味線、篠笛、鉦を打ち鳴らす彼らの美しくも力強い演奏を耳にすれば、誰もが「江戸」を想像するばかりか、自分も「江戸」を生きたいと実感するに違いない。これは凡人にはなしえない、まさしくアーティストならではの、生きる技術としてのアートなのだ。
じつのところ、「黄金町バザール」が目指す安心で安全なまちづくりに欠落しているのは、このような生き生きとした未来のヴィジョンではないか。子どもたちに向けたワークショップが無駄であるわけではないし、家族連れに理解されやすいアートを批判したいわけでもない。むしろそれらは「黄金町バザール」の成立条件として必要不可欠ですらある。けれども、街の再生にアートを活用するのであれば、アートならではの可能性、建築家でも都市計画家でもなく、アーティストでしかなしえない何かを実現してほしい。それは、「切腹ピストルズ」が体現しているように、一見するとありえないのかもしれないが、しかし明るい未来としての魅力にあふれた、爆発的な想像力である。
都市の再開発とエヴィクションの問題を踏まえたうえでアーティストに可能なこと。それは、できるかぎりたくましい想像力を広げることにほかならない。その理路をたどっていくことで、私たちにとって望ましい社会が構築されるのではないか。