堀口捨巳と神代雄一郎──二つの発言への註

磯崎新(建築家)

いまお二人の近代建築史を中心に研究されている方の見方がありましたが、僕は建築史家ではなく建築家です。じつは堀口さんも神代さんも建築史側の人ではないかと思いながら話を聞きました。今日は、歴史家には恥ずかしくてはしたないと思われるような話を前説にしたいと思っています。

日本工作文化連盟の存在

『新建築』という雑誌がありますが、そのなかにいらっしゃった方や、追い出された方もたくさんいて、日本の建築ジャーナリズムの役割を担ったことははっきりしています。そして、その他に同人誌やマイナーな建築雑誌もいろいろあります。そのうち、1936〜1940年のあいだに『現代建築』という雑誌があり、僕が学生のころは、全部図書館にあって、もっぱらそれを見ていました。僕の建築学科での学生時代は1952〜54年ですから、だいぶ戦後からはずれていますが、その頃でも一番おもしろかったのは『現代建築』でした。この雑誌は神代さんも研究されていた日本工作文化連盟の流れにあります。そして、この本を印刷している印刷屋さんの二階に堀口捨己さんは事務所を構えていました。雑誌が返本されて戻ってきて、積まれている横に捨己さんがいたわけです。この『現代建築』という雑誌は戦争中にある意味で独特の役割をはたした雑誌だったと思います。日本工作文化連盟の中心には堀口さんがいて、その理事のようなことをやっていたのが岸田日出刀先生です。その他にもいろいろな建築家が関係していますが、このふたりが仕組んだ奇妙な運動のひとつだったと思います。この雑誌には国際的なものが紹介されていますし、丹下健三さんの論文「ミケランジェロ頌──ル・コルビュジエ論への序説として」もここで初めて出ます。堀口さんは細かく編集をされてレイアウトをしていたと思います。
もうひとつあるのは、吉田五十八さんの事務所に行ったときのことですが、事務所の入口に部屋があって、そこに『国際建築』の編集部がありました。平良敬一さんたちと同世代で編集をやられていた渡邊員人さんという編集長がおられました。僕は五十八さんへインタヴューへ行ったのですが、自分の仕事場を出て、その『国際建築』の打ち合わせ室に来られ、そこで話を聞きました。吉田さんは一般的には和風一本の方だと見られていますが、『国際建築』はいまの『a+u』のような雑誌で、世界の建築を日本に紹介するものでした。僕は戦後のことしか知りませんが、そういう場所にあったということです。そして、堀口さんと吉田さんという戦前から戦後にかけて活躍された方が、いずれも国際的な情報を扱う雑誌と深く付き合っています。
もうひとつは、戦後のNAUの機関誌『NAUM』ですが、後付を見ると建築関係の図書を出している相模書房から出ていて、その編集にはどういう方がおられたのかはわかりませんが、神代さんは深く関われていただろうと思います。そこで課題として取り上げられているのは、浜口隆一さんの『ヒューマニズムの建築』の評価と、戦争中の残党として唯物史観による建築観の見直しだったと思います。唯物史観派が圧倒的に占めているなかで、浜口さんは批判対象になります。明治大学の建築学科が1949年にできていますが、同時期です。
2011年10月に、法政大学の経緯を振り返るような意味で大江宏さんについて議論する機会があり、僕もそこに伺って話をお聞きしました。大江宏さんが設計した《55/58年館》はある意味でモダニズムを学んだ卒業設計のような建物で、すべてが純粋モダニズム美学の基本でできています。その議論のときに印象深かったのは、今日は内田祥哉さんもいらしていますがそのお父さん、祥三さんが校舎のオープニングにいらしたそうで(編集部註:http://www.55-58saisei.sakura.ne.jp/gallery/photo8/completion.html)、たいへんな話題になっていたということです。そして、内田先生は東京大学建築学科の中心人物であり、ある意味で明治以来の国家を背負っていたような人です。じつは大内兵衛さんという人が法政大学の組み立てに関わられていたのですが、大内さんは曲学阿世と言われたような人たちのひとりでした。戦争中は睨まれていましたが、アカデミーを組み立てるという役割をしました。そして、その法政に建築学科ができたのが1947年で、大江宏さんは中心人物になりました。それと同じく堀口捨己さんは明治大学の建築学科で先生になり、校舎をつくられました。両者ともそれぞれの学科を代表する看板教授というか、リーダーになったと思います。浜口隆一さんが本を書いていた時期であり、NAUなどの活動があったのと同時期です。大内さんは戦争中の行動があり、内田祥三先生から非常に睨まれ、この人のことはもう支援しないとも言われたそうです。内田先生は大江さんの先生でしたから、大江さんもある種屈折した思いもされただろうと僕は感じました。

丹下健三対西山卯三の代理戦争

僕の学生時代は、堀口捨己さんは明治に移られた後でしたから、時々、講義に来られた際に後ろ姿を拝見していたくらいです。この頃、堀口さんについて東大のなかで聞いた話があります。東大には、とりわけ日本の都市の近代化を中心的に考えられ、関東大震災からの復興をやった佐野利器先生と、その次に取り仕切って東大キャンパスの復興などを構造的にまとめた内田祥三先生というおふたりの流れがありました。堀口さんが1920年の分離派の旗揚げやその後について、残党が建築学会などで座談会をやりますが、ほとんど構造派や都市派と言われている先生方、つまり日本の近代化をまっとうに引き受けたテクノクラートの先生方が、デザインをやっている連中をいじめて、落第だというくらいにコテンパンにやられていたとぼやかれています。東京大学の建築学科は元々日本の近代化に寄与する人材を養成するためにできたわけですから、当然の理屈です。アメリカ型の都市開発と超高層の技術で商業ビルなどをモデルにして、都市をつくり、日本の近代化をするというのが佐野さんの持論ですし、それを研究されて具体的に都市の形に置き換えたのが内田さんです。日本の近代化のためのテクノクラートを養成するという教育方針ですから、そこからパージされた卒業生、もしくは意図的に逃げ出したのが分離派です。石本喜久治にしろ、山田守にしろ、東大の構造と都市の先生には、困ったもんだと盛んに言われていたわけです。その先生方の理論にあるのは野田俊彦の「建築非芸術論」です。学生は時代の流れや仕組みに敏感ですから、決心して新しいモダニズム運動を始めたわけです。
京大の西山夘三さんや東大の高山英華さんなどは、学生時代に唯物論を勉強した人たちですが、戦争中は黙っていて実証的に研究をしていた人たちです。そして彼らが戦争の研究を理論として復活させ、NAUの運動のバックアップになっていきます。丹下健三さんと浜口隆一さんのふたりは岸田研究室に残り、おもにヨーロッパの歴史や美学の流れを盛んに研究されて、そのなかから日本国民建築様式論をつくることになります。丹下さんはそれ以前には「ミケランジェロ頌──ル・コルビュジエ論への序説として」を書いているように、純粋モダニストでした。さきほどの岸田さんや浜口さんが丹下さんを推して、雑誌『現代建築』を仕組みます。そこでは、満州でやっていた計画は古いから、もっとル・コルビュジエ風の新しいことをというような議論が出てきます。それらを裏読みすれば、この人たちは当時モダニズムで日本批判をしながら、紀元二千六百年という国家的な祭典や、東京オリンピックや万博や中心広場の計画など1940年代にやろうとした国家的プロジェクトのすべてを、内側から乗っ取ろうとしたんじゃないかと思います。日本工作文化連盟はそういった裏側の仕掛けでしたが、結局潰されて、国民様式になっていきます。ただ、戦後にそのあたりの議論をもう一度理論化したのも浜口さんで、戦争に出る直前に脱稿したという「日本国民建築様式の問題──建築学の立場から」(『新建築』1944年10月号)を発表しています。浜口さんはそのときの理論を元にして、戦後に『ヒューマニズムの建築』を書き、NAUの議論へと展開されていきます。このときのことは、神代さんが「近代建築研究の現代に於ける二つの課題──浜口・図師両氏の論争を中心として」(『新建築』1948年7-8月号)で、批判的にきちんと整理しています。浜口さん対図師嘉彦さんという唯物論の方ですが、僕から見れば後の丹下健三対西山卯三の代理戦争が、この浜口対図師論争だったと思います。神代さんは浜口さんの下にいましたが、明朗に両者の議論の展開を整理され、しかも公になった文章だということは、浜口さんの真下にいたときは言えなかったけれども、1949年に明治大学に助教授になられ、僕は独立してあなたを批判しますよと決められたのだと思います。

神代の気づき

明治で神代さんはウィリアム・モリスなど、初期のイギリスの近代化の流れを研究されますが、これは技術の人たちにも研究される流れです。浜口さんは逆にウィーンやゼツェッションなどの理論、一種のフォルマリズムへいきますが、神代さんの頭のなかには社会運動、初期マルクスの視点があります。その唯物論は西山さんが組み立てた戦前の理論をある程度引用するかたちで話をそらしておられます。僕の印象では当時の理論の教科書になっていたロシアのスターリニズムの時代の歴史唯物論を頭に入れてやっていたんだと思います。
日本は占領国で、デモクラシーが入ってきます。リンカーンが「人民の人民による人民のための政治」という言い方をしましたが、これがデモクラシーの原点です。リンカーンは"citizen"とは違う、もっと普遍性を持った意味で"people"を使ったという解説ですが、当時はこの"people"が「人民」と訳されました。いまでもそう訳されています。この「人民」という言葉はスターリニズムのなかでの「人民」とも一緒です。当時の日本の左翼が言っていた「人民革命」も一緒ですし、毛沢東が中国共産党で言っていた言葉も同じです。ですが、それぞれ意味が違っていて、それがはっきりしていないがために、議論や問題が膠着状態になり、解決不能なままNAUが潰れていったのだと思います。
神代さんはそのことに勘づいていたと思いますが、すでにある歴史的な定義や大学のしがらみがありました。なぜ浜口さんが『ヒューマニズムの建築』を書いたのかの通俗的な理解で言えば、社会主義になって人民が主権を取ったときに起こるかたちだというものですが、やはり、浜口さんはそれに乗せられてしまったのだと思います。浜口さん自身はルネサンスを研究していましたし、他のいろんな論文からも見えますが、彼の頭にあったのはルネサンスの時代で言わていれるヒューマニズムの建築理論です。これについては戦後誰も触れていません。ルドルフ・ウィットカウアーがアルベルティを研究して『ヒューマニズムの建築の源流』を書き、非常に重要な西洋の美術史のなかでのポイントとなっていますが、ここでもヒューマニズムという言葉が使われていて、浜口さんもこれをタイトルにしています。ところが、このルネサンスの「ヒューマニズム」は棚上げされ、人民、社会主義、唯物論などの議論になってしまっています。丹下・浜口のデザイン、つまりモダニズムやフォルマリズムを批判していきます。この批判のしかたは、スターリンが社会主義リアリズムを取り上げて、ロシア構成主義、ロシア・アヴァンギャルドを批判したのと同じロジックです。こういったある種のねじれがありました。そして1950年代には、丹下さんが縄文以来の生命的なものと弥生以来の美的なものへ読み替えをすることで切り抜けようとします。岡本太郎は対極主義だと言って、1960年代後半にはまた別の議論になっていきます。
神代さんは、それらを頭に入れて、1950年代の終わりに話をされました。

モダニズムとの距離

もうひとつ言いたいことは、議論がいろいろあったなかで、堀口さんや神代さんは日本の近代化を使命にしてきた東大からパージされて、敗者になったというのが僕の勝手な解釈です。思想的に居直り、戦争中にお茶室を勉強したり、「非都市的なもの」が出てくるのも、「様式なき様式」もノイエ・ザッハリッヒカイトの考えだと思いますが、みんな居直りです。それが明治大学の人だと思います。それからマルクス理論できちんと反論されていた大江宏さんもいます。大江さんの解釈や、その時期の動きについては詳しくつかめませんが、少なくとも1957年の論は純粋モダニズムではなくある種の折衷や様式の混在を意識されています。それらを頭に入れて堀口捨己さんにくっついていて東大の外に出たと見ると、大江さんのスタンスも見えてきます。モダニストから堀口捨己さんの考え方を介して大江さんは自分の次の仕事に移られたと。そのときに堀口さんは茶室でしたが、大江さんは能楽堂で、日本の古典の正統です。近代化からパージされるという姿勢は同じですが、数寄屋のほうにいくのと、宮大工がつくる正統的な能舞台へいくという違いがあります。そういった読み替えやお互いのテーマは1950年代の半ば頃にあったと思います。また、村松貞次郎さんもその正統の側におられるわけですが、神代さんも貞次郎さんから当然批判され、抹殺されるようなところまで追い込まれました。僕はそういった印象を持っています。

磯崎新氏


いそざき・あらた
1931年生まれ。建築家。作品=《大分県立中央図書館》《岩田学園》《福岡相互銀行本店》《つくばロサンゼルス現代美術館》《バルセロナ市オリンピック・スポーツホール》《ティーム・ディズニー・ビルディング》《山口県秋吉台国際芸術村》ほか。著書=『空間へ』『建築の解体』『手法が』『栖十二』『建築家捜し』ほか。


201306

特集 建築家とは何か──堀口捨己、神代雄一郎の問い


イントロダクション──趣旨説明
基調講演1:表現者・堀口捨己──総合芸術の探求
基調講演2:神代雄一郎、その批評精神の軌跡
堀口捨巳と神代雄一郎──二つの発言への註
プレゼンテーション+ディスカッション
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