「建築の証拠」からグルーヴするその論の行方

藤原徹平(建築家)
本書は、映画論であり建築論であり、さらに痛烈な現代建築批判書でもある。現代建築における安易な物語性への言及や、ポリティカル・コレクトネスを根拠にしたどこか借り物の言葉で説明される設計思想について、了二氏は率直な、しかし確実に息の根を止めにかかるような言葉を随所にちりばめている。

せいぜいが「窓を大きく開けて社会に開く」とか「間仕切りをなくして共同性を高める」とか「アトリウムを広げてプログラムを多様化する」といった程度の、建築の言説の外から見たらほとんど根拠の怪しい陳腐なスローガンが、もっともらしい顔で笑いもせずに語れているのである。(本書 p.76)

白い箱に大小様々な開口部を開けるのが現代建築デザインでは大流行である。窓があると周りのひとたちとの関係も深まり、「社会性」も増大し、見えるビスタもいろいろ変化して楽しいな、嬉しいな、というわけである。開き直ったナイーヴさも、図々しくなければ許してもよい。しかし少なくともそこに、黒沢清の見つけた亡霊としての開口部を受け入れてくれる場所はない。(本書 p.285)

黒沢清やペドロ・コスタの映画を傍らにおけば、例えば建築家が寄り添っていると力説する社会についての想像力が、新築の建築を建てようとする社会についてだけの一面的な寄り添いにすぎないことはすぐさま透けて見えてしまうだろう。了二氏は現代建築のトレンドを一刀のもとに切り捨て、巻頭からすごい勢いで映画の観察から「建築」の核心的な議論ににじりよる。時には都市と交通から、時には小さな一つの小屋から、時には開口部から。その思考の運動の軌跡はため息が出るほど美しいわけだが、しかし一体なぜ映画を凝視するということで「建築」の本質への理解がかくも深まるのだろうか。
かつてペドロ・コスタが短編『骨』上映イベント後、青山真治とのアフタートークでこう言っていた。
「映画で愛(love)そのものを写すことは誰にもできないが、愛の証拠(proof of love)を写すことはできる」。
カメラという装置は、そこにおけばまさにそこにおいたから写るものが写るという客観的な存在であり、了二氏は映画に映ってしまった「建築」の証拠にハイライトし、タグ付をし、いまだかつて語られたことのない建築論を展開していく。

了二氏が映画から「建築」を掘り出していく上で、その科学性とでも言うべき公平な態度の基盤としたのが、『マニエリスムと近代建築』コーリン・ロウの「実(リテラル)」の透明性と「虚(フェノメナル)」の透明性の区別である。今どきの学生でも知っているような手垢がつきまくったコーリン・ロウの著名な透明性の区別を、了二氏は映像論の文脈の中で「時間」をめぐる区別の論として再考察する。そして、時間概念における「虚」の透明性とは、歴史的記憶・人間的記憶ではなく、物質的記憶・身体的記憶に属するものであり、「時間」に裂け目をつくる「非時間」の存在であると定義する。その間たったの72ページという素早さである。
コーリン・ロウの透明性の区別から、「空間」のなかに空間ならざる空間「非空間」という概念を生み、さらに進んで「時間」のなかに時間ならざる時間「非時間」の概念に適応可能ではないかと問いかけるこの了二氏の手口は、まるでアインシュタインの一般相対性理論が時間と空間を可換的な概念として飛躍させていった状況をどこか思い出させる。

本書を、建築が「空間」と「時間」の相対的な概念に踏み込んでいくための試論であると捉えて読み進めていく。建築概念はこれから一体どのように変容すると読み解けるだろうか。
まずは前提に全体性の希薄化というのがある。了二氏がしばしば言うように、どこからどこまでが建築の体験かその定義をすることは極めて難しい。つまり建築というのは、手続きとして図面上で全体が描かれはするが、その全体をそのまま体験することは論理的に絶対できない。そして、建築を全体性の枠組みでとらえているうちには、それは物語的・人間的な文脈に属しているのであって、少しも物質的・身体的な文脈に突入できない。では建築の全体性の枠組みを放棄したとして、建築が例えば外形のかたちの強さをなしにその強度を亡霊のように立ち上がらせるためには何が必要だろうかと問いを掲げてみると、了二氏はおそらくマーク・ロスコ~エリック・ロメール~青山真治における奥行の深さの禁止による触知性の獲得を可能性の第一に挙げ、あるいはデ・パルマ=コルビュジエによる狭窄遠近法あるいは「トンネル効果」を挙げ、もしくはペドロ・コスタにおける「闇」を前提にした空間と地質学的な視点場を挙げ、そしてやはり黒沢清における開口部、踊り場目線とその一歩前に踏み出した距離を挙げるだろう。

これらの四つの建築の可能性は、実はいずれも視点、パースペクティヴについての問題意識を包含するわけだが、了二氏が本書の通奏低音として響かせているのは、ルネサンス以降つづく空間遠近法的な枠組みからの離脱である。それは裏を返すと建築は言ってみれば図法であることは間違いないわけのだから、空間遠近法から離脱するドローイングあるいは図法の存在なしには「時間」概念と「空間」概念が結びついた可換的な概念へ移行することはないということかもしれないし、あるいは了二氏がすでに『物質試行52 DUBHOUSE』で試みているように、映画こそが時間=空間相対性建築論におけるドローイングそのものであるということなのかもしれない。

映画と建築を同時に論じるという巨大なパースペクティヴを掲げながら、しかし奥行の深さを禁止した緻密な映画情景の描写とその描写からの丁寧な論考を非常に滑らかに進行させていく本書は、その形式がすでに、これから立ち上がるであろう新しい建築論の行方とフラクタルな関係性を持つという怪物的な書物である。


藤原徹平(ふじわら・てっぺい)
建築家。1975年、横浜生まれ。横浜国立大学大学院修了。2001年より隈研吾建築都市設計事務所勤務、設計室長、パートナーを経て2012年退社。2008年より横浜国立大学非常勤講師、2009年よりフジワラテッペイアーキテクツラボ代表、2010年よりNPO法人ドリフターズインターナショナル理事。2012年より横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。


201304

特集 鈴木了二『建築映画 マテリアルサスペンス』刊行特集


建築─ガレキ─映画
「Playback」と「建築映画」
鈴木了二氏への手紙
「建築の証拠」からグルーヴするその論の行方
光学としての建築映画
建築のエモーショナルな感受性へ
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