光学としての建築映画

日埜直彦(建築家)
『建築映画 マテリアルサスペンス』と題されたこの本の読み方はいくつかあるようだ。

第一に、本書はいわば愛の書だ。"建築映画"とそっけなく名付けられた映画のカテゴリーへの愛、物語とも意味とも関係なくただひたすら〈建築〉が映っている映画に向けられた愛の書である。とはいえ建物が背景として写っているというだけでいいというわけではもちろんなく、背景であれ前景であれ、建物が〈建築〉として映画の中にその姿を現している、そんな映画である。映画の中の建築を扱う類書とは違って、いわゆる名建築とされる建物が映っているからそれが建築映画だというわけではなく、むしろなんのへんてつもない小屋が映画の中に〈建築〉としてこつ然と現れるそんな瞬間に、著者鈴木了二は建築映画を見ている。
カサヴェテス『フェイシズ』ラストシーンの階段、ジャームッシュの『ダウン・バイ・ロー』冒頭の墓場から滑り出してうらぶれた街を流し見る移動撮影、リーフェンシュタール『意思の勝利』のナチス党大会の俯瞰、やはり外せないゴダール『軽蔑』におけるマラパルテ邸、キューブリック『シャイニング』の迷路、例えばそんなふうに映画のあるシーンが、ピックアップされ賛美されていく。
その愛にはどこかフェティッシュの気配がないでもない。次々に列挙される映画のシーンをひとつひとつ追いかけてみれば、我が意を得たりと膝を打つこともあれば、幾分怪訝な気分になることもあるだろう。しかしそれも愛の書だから致し方ないところ。ともかく、仮にここで登場する映画を見たことがなくとも最近はちょっと動画検索すればたいていの映画はどこかには転がっているので(著作権的にどうなっているのか不明ではあるが)、まぁそんな風に概要を確認することは出来るし、そうして追いかけながらこの愛の告白を読み進めるのはかなり面白い読書体験である。

第二に、これは建築的視覚と映画的視覚という二つの視覚の体制についての書である。
建築的視覚、などと言うと急に話はややこしくなってくる。書中にはコーリン・ロウの透明性の議論およびアーウィン・パノフスキーの透視図法の議論が援用されているが、その種の近代の視覚にとどまらず、建築という専門領域が歴史的に育んできた建築・都市・場所を把握する手法によって規定される視覚、とおおまかに考えておけば良いだろう。例えば平面、立面、断面で三次元の対象を捉えることもその一つだし、そこに幾何学的な規則性を見いだすことで全体のなりたちを把握しようとすることもまた一つだろう。視覚が、単に光学的・網膜的なものではありえず、知覚的・遂行的であることは、いまさら言うまでもない。
映画的視覚は、建築的視覚とは明らかに異なる条件のもとで、この100年余りの短い歴史において急速に発展してきたもう一つの視覚である。カメラの光学系や撮影技術の進化、映像編集の文法の蓄積など、映像を扱う視覚もやはり歴史的に形成されてきたものであり、自明で普遍的なものではない。映画もまた基本的には三次元の対象を捉えるのだが、とりわけそれはカット割りのようなフィルムの編集を通じてスクリーン上の時間の流れを操作することによってそれを見せているのであり、そうした手法が映画的視覚を特有のものにしている。
建築的視覚と映画的視覚はぴったり重なりはしない。それが成立する物的条件も、手法も、目的もまるで違うのだからそれも当然だが、じつのところその視覚のズレが緊張感を持って交錯するところにこそ建築映画は現れるのだ。したがって建築映画は愛のような個人的事柄とばかりは言えない。むしろディシプリンとディシプリンの間の落とし穴のようなものとして建築映画はある。映画的視覚のディシプリンにおいて見いだされた建築が、建築的視覚のディシプリンが把握しようとする建築と、ズレつつ出会い、一瞬すれ違い、つかのま共振する。そうして最小限のショットが的確に建築を捉え、その成り立ちのリアリティを見るものにありありと感じさせる。こうした類の建築映画を"リテラルな建築映画"と著者は呼ぶ。
これに対して、建築映画にはもう一つ、"フェノメナルな建築映画"とでもいうべきものがあるという。ここではヴァルター・ベンヤミンが言うところの「気散じ」が一つの鍵である。『複製技術時代の芸術作品』においてベンヤミンは、絵画のように注視される古典的芸術作品と、映画のようにくつろいでぼんやりとした「気散じ」の視線において体験される作品がいかに異なるかを示し、そこに区別を付けようとしているのだが、まさにそこで古来からその「気散じ」の視線で受容されてきた芸術として建築が例示されているのだ。もちろん「名建築を鑑賞する」視線は絵画に対するそれと同様に注視する視線に違いないが、街を歩いているとき、誰かと会話するとき、焦点も定まらずただ受動的に"見えている"、そんなときにこそ不意に意識され立ち上がる〈建築〉というのもあるだろう。ちょうどそのように、"フェノメナルな建築映画"においては、映画の物語の傍らにふいに〈建築〉が現れる。
リテラル/フェノメナルというロウの用語法に乗っている以上、後者に力点があるのは間違いない。ふいに、のっそりと、映画の画面に突き出してくる〈建築〉、映画の物語と異質の物質性を画面に差し込み画面を緊張させる〈建築〉のリアリティ、そしてそれへの待機。だが一歩引いてみたとき、それはあられもなくロマンティックではないだろうか。ここに至りひとまず立ち止まらざるを得ない。

第三に、このことはあまり表立っては主張されていないのだが、この本は現在の建築をとりまく状況に対する抵抗の砦でもあるようだ。
どのような状況か? 書中からざっと抜き出してみよう。「建築の言説空間ほど全体性が議論されているところもない......建築を設計して施工の実施に至るためには全体像を仮定し、把握し、そして記述しなければならない......ここには明らかに全体が部分を統括するという認識のヒエラルキーがある」。それが「通俗的な社会モデル、すなわちはじめに世界が全体としてあり、それが社会性として組織され、その末端で私性と世界が繋がっているかのようにイメージされる社会のヒエラルキーモデルとよく似て見えてしまう」。そんなアナロジーの果てに「『窓を大きく開けて社会に開く』とか『間仕切りをなくして共同性を高める』とか『アトリウムを広げてプログラムを多様化する』といった程度の、建築の言説の外から見たらほとんど根拠の怪しい陳腐なスローガンが、もっともらしい顔で笑いもせずに語られている」。このような状況において、フェノメナルな建築映画に現れているような、言葉にはなりにくい〈建築〉の占める位置が擁護される。上に抽出したくだりをそのまま読めば、どうかすると、そもそも建築映画なるものが、建築と社会がぴったり呼応するかのような危ういレトリックに対する抵抗として立ち上げられているかのようだ。
だがこれはかなりきわどい論理である。いずれにせよ事後的には建物の全体像は生じる。そのような全体を統制する論理として古典的な建築術は育まれてきた。今に始まった事ではない。著者がそのような"全体"を棚上げにしながら、むしろなにかとなにかの間の空間の可能性を押し広げるように建築と取り組んできたことの重みを頭に置きつつ、それでもなお、やはりそうだろう。そして冗談にもならないおしゃべりが横行し、またそれほど怪しげなことでなくとも一般にリテラルに語り得る効用によって建築を正当化することにいそしむあまり、反面においてリテラルに言い当てることの難しい〈建築〉のクオリティが抑圧されている、という現在へのいらだちに同意するのは難しいことではない。さらにまた、その「リテラルに語り得ないなにものか」をあらためて意識化し擁護するうえで、フェノメナルな建築映画が実にデリケートな触媒となりうる、という提起に共感を覚えもする。だがそう言うならば、ごくあたりまえの他人と他人が関係を取り持つなかで、かたちをもつことのない「こうあれかし」と、かたちとなった「ならばこうあるべし」を、裏付けのない跳躍として交換し、それを物的環境として構築するという困難を抱え込んだ実践がそもそも建築である。この危うさを笑うその支えにフェノメナルな映画を持ち出すことを、シニシズムと見分けるのは難しいのではないか。
その論理のきわどさは、著者が建築家としてある一貫性を堅持してきたことによってかろうじて担保される。同世代の多くの建築家が時代の潮目の変化を器用に乗りこなし、ほとんど修正主義のような振る舞いを臆面もなくやってのけたのに対し、この建築家はきわめてデリケートな隘路を一貫して進み、それどころかその狭隘さを押し戻してあるフィールドを確保してきた。そのことは、まさにこのきわどさを確信とともに選択したこととともにあるのだろう。

愛の物語、二つの視覚の体制、抵抗の砦、こうした読み方が本書の読み方として単に並列にあるというわけではない。本書の全体をかたちづくっているのは、あくまで建築映画への愛の物語である。だが一皮めくってみれば、そこには鋭い拮抗が潜んでおり、我々の視覚の体制の抜きがたさがあらわになる。そこで見いだされた〈建築〉の寡黙な姿は我々の対面する現代においてとても批評的な視角である。考えてみればニーチェが言う"病者の光学"とはこのようなものだったかもしれない。趣味的に建築と映画を繋ぐあれこれを楽しむのももちろん結構、だがそのすぐ下にあるひとりの建築家の実践を賭け金としたこの切実さがあるとしたら、それを見逃すのは惜しい。あきらかなことは、本書がこの建築家の多才を証しだてているというよりも、なにをするにせよやはり一つの核心に向かうほかない作家の度し難さの一つの喜ばしい姿であることである。


日埜直彦(ひの・なおひこ)
建築家。1971年、茨城県生まれ。1994年、大阪大学工学部建築工学科卒業。1994−2002年、設計事務所勤務。2002年、日埜建築設計事務所設立。2006年−、芝浦工業大学非常勤講師、早稲田大学非常勤講師。


201304

特集 鈴木了二『建築映画 マテリアルサスペンス』刊行特集


建築─ガレキ─映画
「Playback」と「建築映画」
鈴木了二氏への手紙
「建築の証拠」からグルーヴするその論の行方
光学としての建築映画
建築のエモーショナルな感受性へ
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