感覚の空間化──王澍の実践について

助川剛(建築家)

王澍がプリツカー賞の最終選考に残ったみたいですよ。

世間話にしては衝撃的で感動的な一言であった。2011年の暮れ、その王澍(ワン・シュウ)が設計した厳しく底冷えのする製図室でのエスキスを終えたのは夜の8時も過ぎたころであった。この苦行で冷えきった身体を温めようと、他の先生方とともに小走りで行きつけの料理店に向かう道中、今特集の執筆陣の一人である李凱生が白い息を吐きながら話しかけてきた。
足を止めることなく、暗がりにかすかに広がる《中国美術学院象山キャンパス》の建築群のヴォリュームと稜線を辿る。このキャンパスのほぼすべての建築は王澍が設計をし尽くしたものである。「王澍が獲るなという予感だけが沸き上がる。彼の受賞が、中国国内の建築界にとっても、世界の建築界からの中国現代建築に対する理解を刷新するうえでも、いまもっとも必要なことでありこのうえなく効果的で戦略的な展開であるように思えたからである。


結局、この2カ月半後に王澍のプリツカー賞受賞が正式に発表された。これで、中国という国に純国産の〈建築家〉という文化的な職業が正式に成立したわけである。そもそもこの職業において「正式」という定義はなにもないのだが、どういうわけか中国では自国産に対する疑いが大きいという、なんとも悲壮な矛盾があり、建築の分野においても中国人建築家に対する職能がなかなか認知されずにいるのである。こうした状況のなか、もっとも理解しやすいかたちで純国産建築家の存在と、中国現代建築というものが語りうる自国の建築の文化的価値が証明されたのであるから、今回の出来事の持つ意味は計り知れなく大きい。

王澍建築の本質とは?

王澍という建築家を認識したのは確か2002年頃であったと記憶しているが、なによりも鮮烈だったのは、《中国美術学院象山キャンパス第一期》の建築群が発表されはじめた2004年以降の一連の作品群である。モダニズムを強く意識した紛れもない現代建築でありながら中国固有の歴史や社会性を想起させるという点で、ひときわ異彩を放っていたのである。
しかし、その頃の王澍作品に関する批評の雰囲気というのは、極めて高い評価を得てはいるものの、中国固有の伝統性を設計に取り込んで云々などと当たり障りのないものが多かったように思えるのである。ようするに作品自体の本質的な意味や解釈を説明するには不十分な印象があったのである。これについては、中国現代建築の評価軸では判断し難い部分、つまり、たんに開発のムーブメントと逆行している感があったため、しばらく様子を見る必要があるのだろうと理解していた。そして同時に、「ディテールの放棄」「粗末な材料」「独占的なキャンパス計画」などという批判を耳にすることもしばしばであった。ただしこれらの批判はやや嫉妬的でもあり、これこそ王澍建築の本質的な批評にはまったくならなかったといえる。そもそも王澍建築の本領というものは、強固なモダニズムの概念に沿って成り立つ建築の構造を強引かつ自由に捩じ曲げて空間の可能性を広げてしまうというものである。この空間の構築方法の鮮やかさが際立っているために、どうしても「あえて文句をいうならば......」的な事態になるのである。
とはいえ、これらの問題に関しての「本当のところ」つまり設計者の姿勢については、一番興味が惹かれるのも事実である。特に次から次へと建築が増殖し、一人でキャンパス全体の建築群を設計するという、横暴とも受け取れる振る舞いの背景とはいったい何なのか。よほどの政治力でもあるのだろうかなどと下世話な考えもよぎる。一方で当の本人は、中国の歴史建築研究の第一人者であるにもかかわらず、作品に直接的な歴史的表現をしないのと同様に、プロジェクトの背景にもディテール論争にも特に触れることもないままに作品を発表し続けていた。ただ唯一、《寧波歴史博物館》をはじめとした作品のファサードに用いた廃材の再利用については現代社会の「乱開発」に対する強い批判と時間と空間に対する建築家の姿勢を強く表明していたくらいである。

シンプルで完璧な説明

2010年の春に某建築雑誌から、「使える」中国人建築家のリストアップを依頼された。この場合の「使える」は「世界に紹介するほどの価値のある」という意味であり、正直なところこのハードルは非常に高い。中国で暮らしている身として共感できる建築家は結構いるのだが、世界に通用する建築家となると話は別である。結局は「王澍だけだよなあ」と独り言を呟きながら、他は適当に数人をリストアップした。それからほどなくしてその雑誌の取材に同行というかたちで王澍本人と面会する機会を得ることになった。個人的な話ではあるが、ちょうど彼が学院長を務める中国美術学院建築芸術学院への教員申請をしていた時期であり、妙なタイミングではあったが、野次馬的にインタヴューに同席したのである。
待ち合わせのカフェにほぼ同時に到着した一行が互いに握手を交わし、粛々とインタヴューが始まった。写真で見るより気さくな雰囲気の人物であり、編集者の質問に対して丁寧に回答すると言う印象である。ただし基本的には、当たり前で簡単なことしか言わない。極めて教育者的であり、かつこれまでの経験から導き出されたと思われる明快な回答が強情とも言えるくらいに完璧に準備されているのである。正直、学生や素人相手にはいいが、建築誌に対する回答としては少し物足りない内容なのである。
言葉を選びながらいっさいぶれることなく進行するやりとりに若干の退屈さを感じながらも、編集者の質問に便乗するようなかたちで、一人でキャンパスのほぼすべての建築を設計するという事態になったことに触れてみた。即座に質問の意味を理解した彼はまず、「当初は何人かの仲間を呼んで設計に取り組んだが、結局は設計料もまともに支払うことができなかった」というエピソードを慎重に話しだした。さらに詳しく聞いてみると、そもそも学院が提示した施工費は平米あたり800元という超底予算であったのだという。この価格はじつに驚異的であり、さらに設計費などというものは予算に計上すらされていなかったのだという。それ以前に学院長としては校舎がなければ将来的に授業もままならない。とはいえこれでは他の人に話を振ることもできない。結局は学院の給料以外の報酬は考えずにともかく設計に取り組んだのだと言う。そして、いくらか申し訳なさそうに「仕方がなかったのです」と言った。
これは合点のいく話である。この国において、仮に超低予算のプロジェクトでも最終的にはどこかから資金が捻出されるだろうと楽観的に思うことは多々あることであるが、そもそも設計料が出ないのでは話の次元がまったく異なる。普通に考えて建物が建つという可能性はないと言ってもよい。ところが彼の場合は、まともにこの条件下での仕事(任務)を引き受けて設計をこなしたというわけである。さらにこの、予算がないという事実は、ディテールに根本的な影響を与える。ところが、このことは建築を設計し、作品を語るうえではなんの理由にも言い訳にもならないのだから、もっとも始末が悪い状況であったと言える。
それにもかかわらず、先にも触れたとおり、遠回しな嫌みや疑念ともとれる酷評も多く噴出したという。そしておそらく彼は(それらの批判に対し)予算のことにはあまり触れずに、自身の設計する空間の原理原則に則った解説を徹底的に繰り返したのであろうと推測できるのである。なぜならば、この取材において彼の言葉に耳を傾ける限り、自身の設計手法を対比を用いた簡単な方法で説明してゆくからである。「内部と外部」「直線と曲線」「水平と垂直」「伝統と現代」などである。これこそが、王澍建築に関する批評の当たり障りのなさと取材時に感じた若干の退屈さの原因なのかも知れない。



以上、王澍《中国美術学院象山キャンパス》(2004/2007)、筆者撮影

経験に根ざす「感覚」

しかし、彼の建築は彼が説明するほどに単純ではない。特に《象山キャンパス》においては各建築同士が織りなすヴォリュームと空間の関係に設計の興味が集中していると言っても良く、周到に空間の連鎖が計画されているのである。本来、学校建築とは、基本的に廊下と教室の連続体であり、比較的シンプルなビルディング・タイプであるともいえる。それに対して彼の設計する建築は一見して複雑そうであり、単純に迷宮などと比喩される。ところがこの校舎を日常的に受け入れ始めると、案外迷うことは少なく、不思議と行動にフィットするのである。立体的に絡み合うヴォリュームが生み出す空間の強弱は、自身と空間の関係が感覚的に把握し易い構造をしているのである。簡単に言うと、良く考えてつくられているということである。じつは彼の建築空間に潜む一種の凄みとはこの「感覚」の部分にほかならない。
この「感覚」に関しては、彼のキャリアのなかにおける、歴史建造物の改修や中国庭園の実測などの経験が大きく影響していると考えられる。そして、教育者である彼は、この経験によって会得した感覚をセオリー化するよりも、先に触れた金銭的な問題によりだれも手を付けられないコンディションのキャンパス計画に反映させることのほうに意義を見いだしたのであろう。設計の過程や説明は授業の一環であり、これは営業的プレゼンテーションではないために設計を必要以上に粉飾、誇張することもない。さらに廃材の再利用や、公共建築への木材の利用、法規に縛られる建築のヴォリュームやプロポーション、配置構成において、実験的で先駆的な試みを繰り返してゆく。結果、実質的な部分だけが力強さを増し、遂には現場で学生や職人とともに設計を調整しながら建築を普遍的なものとして構築してゆくのである。そして最後には、言葉にならない感覚的な部分だけが強力な空間として研ぎ澄まされた存在感を増す。この場合、大きく明快で解釈可能な点のみがシンプルな言葉に変換されるのである。過酷な条件に対して彼は極端な実践主義を貫くことで応戦し、見事な化学反応を生みだすことに成功したのである。
学生の一人が興奮気味に「王先生は現場でいろいろ考えるんです。そして設計を変えちゃうんです」と言う。彼の実践は、たんなる建築的成果だけではないようである。学生たちにきちんとしたイズムとして継承されていることが、彼らとの付き合いのなかで頻繁に感じ取れるのである。そして現在も《象山キャンパス》にはいくつかの建設現場が稼働し、学生たちの興味を惹いている。王澍の実践はまだまだ続くのである。


すけがわ・たけし
1969年生。Atelier SIGHT-WORKS主宰。中国美術学院建築芸術学院城市設計系客員教授。磯崎新アトリエを経てoffice SIGHT-WORKS 発足。作品=《深圳市人材園》《青城山ARCHINART計画》《寧波它山石彫芸術博物館》ほか。


201208

特集 建築家、再考──王澍の反全球的中国建築


10年代の中国から建築家を再考する
感覚の空間化──王澍の実践について
主体に基づく一種の詩的表現
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