日本という〈身体〉の治癒はいかに可能か── 加藤典洋『3.11──死に神に突き飛ばされる』

南泰裕(アトリエ・アンプレックス主宰/国士舘大学理工学部教授)
◉ 加藤典洋『3.11──死に神に突き飛ばされる』
(岩波書店、2011)

この傷ついた身体の治癒は、いかに可能か

例えば、ごく一般的な身体を持つ一個の人格が、さまざまな内情を抱えながらも、表面的にはごく一般的な社会的存在として活動し、生きていた、としてみたい。彼/彼女は、過去の特殊な経験を引きずっているかも知れないし、他者には容易に告白できない困難な持病を抱えているのかも知れない。あるいはまた、仕事での葛藤や家庭上の事情から、絶えない未来への漠然とした不安を、うちに秘めているのかも知れない。
しかしそうであっても、さしあたり彼/彼女は、日々のルーチンのなかで、ささやかな充実と楽しみを享受しつつ、社会をなすひとりの独立した存在として、自らの存在を疑うことなく生きてはいた。多くのものごとは思い通りにはいかないものの、よく世界を眺め渡せば、彼/彼女を取り巻く状況は、取り立てて悪くもなく、それなりに平和で充ちている、と言えなくはなかった。
けれどもある日、彼/彼女は突然、これまでに経験したことのない未然のアクシデントに遭遇する。それまでのどのような経験も役に立たない、恐ろしくも不可思議な、言葉にならない極端なアクシデント。それにより、彼/彼女の身体は、大きく損傷する。命を脅かすまでには至らなかったものの、半身を喪失しかねないほどの甚大な重傷を負い、一時的に意識を失う。そして気がついたときには、そのアクシデントによる影響で、身体の一部を激しくやられ、怪我を負い、血流する。その影響は今も続く。それがあまりに特殊で激烈だったので、最初は何が起こったのかすら理解できず、言葉にならず、希望も失い、「これが本当に現実なのか」と、自らに起こった運命を呪い、「なぜ、私がこのような目に遭わないといけないのか」と絶望し、愕然となる。
しかし、やがて少しずつ心を落ち着かせ、現実を何とか受け止めながら、自らの傷ついた身体の治癒の方途を、ようやくのように、ゆっくりと、考え始める。
例えば岸田秀が、日本の近代を一個の人格として精神分析してみたのに倣って語れば、東日本大震災を体験した日本という今の〈身体〉は、そのように描写できるだろうか。 そして本書は、その、とてつもないアクシデントに呆然となり、途方に暮れ、怒りを覚え、哀しみ、混乱し、その先でようやく、日本という〈身体〉が今後へと向けて治癒していくための理路を、少しずつ探り出そうとしている軌跡として読める。

本書は、文芸評論家として多くの特筆すべき業績を残している、加藤典洋氏による、3.11以降の状況をめぐる論考集である。全体は大きく2つの章からなり、ちょうど東日本大震災を挟んで『朝日ジャーナル』等に発表された原稿をまとめた、「死神に突き飛ばされる」★1という前半と、戦後の原子力の平和利用についての歴史的な背景をもとに、今後のエネルギー政策について書き下ろされた「祈念と国策──いま、考えるべきこと」(書き下ろし)という後半とで構成されている。
東日本大震災が起こる以前に発表された、その冒頭に収録されている「『追い抜かれる』という新しい経験」において、これまでの日本の成長路線に疑問を呈し、右肩下がりと成熟の時代を迎えつつある、新しい日本の未来について語っていることは、優れて予言的であったろう。というのも、効率と技術の限界を目指そうとする原子力発電こそ、20世紀的な成長・拡大という国家指針の象徴であったからである。
加藤氏が、そうした見識を述べた矢先に、東日本大震災が起き、福島第一原発が危機的な状況に陥る。表題の「死神に突き飛ばされる」という形容は、あまりにショッキングで読むものを瞬間、立ち止まらせるが、その表現は予想に反している。ここで氏が述べているのは、次のような体験である。地震発生時、仕事でアメリカに滞在していた著者は、福島原発の近くにいる知人宅に、放射能に効く安定ヨウ素を送ろうとしたところ、それが40歳以降の人間にはほとんど有効でないことを知り、唖然とする。つまり、死神はこれから生まれてくる赤子や子供といった若い人たちに向けて、まっしぐらに進んでおり、40歳以降に属する自分たちは、死神にすら相手にされず、蹴り飛ばされている、と感じた、そのことを指しているのである。
そうした認識の延長で、これまでその職能に即して、主として過去にまなざしを向けていた著者は、「今回のことは自分の生涯で一番大きな出来事」という認識のもと、福島第一原発の事故をめぐって戦後の原子力開発政策を問い直し、その先で今後の日本のあり方を問おうとする。それが、後半部に収められた「祈念と国策」である。
著者の考えは、さまざまな条件を考慮したうえで、「段階を踏んで脱原発を目指す」というもので、その際に「核燃料サイクルの放棄」がもっとも肝要なポイントだと述べる。その上で、それを放棄することにより、福島第一原発の事故に対する反省を一歩先に進めると同時に、66年前の広島への原爆投下の体験を再考することになるのだ、と主張する。筆者によれば、核燃料サイクルがある限り、原子力事業のなかに軍事利用の観点が不可避的に入り込んでくるのであり、それを放棄することが、真の意味での原子力の平和利用へと繋がるのだと言う。
さらにここでは、原子力の平和利用からイメージされたアトムと、原爆の申し子としてのゴジラによる、「アトムとゴジラ」の架空対話が描かれ、「原子力」と「原爆」という極限の二つの様態が、互いに背反しながらも捩じれて繋がっている状況が明らかにされてゆくことになる。
今回の震災にまつわる問題を、戦後の原子力利用に絞り込んだ上で、今後の日本の未来を問う筆者の論点は明快である。科学技術の究極の形態としての原子力発電が、将来へと向けてそれ自体消失していくような方途を示すことは、20世紀を覆った、進歩主義的な科学技術のあり方を再考させ、それによって新たな技術転移が起こる可能性はあるかも知れない。

筆者はそれらの論考を締めくくるなかで、「今回の地震と原発事故がどのような出来事なのか、まだよく分かっていない」、と率直に吐露している。そしてその反省として、これらの文章が書かれたのだ、と告白している。
その通りなのだと思う。恐らく、誰にとってもそうだろう。東日本大震災にまつわるこれらの出来事については、どのような言葉を紡いでみても、それが語られたとたん、現実の「残酷と悲惨」に軽々と突き返されることを、誰もが痛烈に直観しないわけにはいかないからである。
震災直後、多くの識者達が言葉をなくして「失語症」に陥り、書籍を紐解く気力を失って「失読症」に落ち込んでしまっていたことは、記憶に新しい。本書は、そうした多くの識者たちが経験した戸惑いのプロセスを、等身大で代弁している。
しかしそれでも、その現実に向かって、某かの言葉が語られなければならないのだろう。希望がわずかでもあるのであれば、その希望の針穴に向かって、数限りの言葉が、やはり、発話され続けなければならない。
ここにわずかばかり、建築プロパーとしての私見を付け加えるとすれば、本書のなかで批判的に紹介されている、立花隆氏の「現代の最先端の原発であれば、福島第一原発のような全電源喪失メルトダウンは絶対起こらない」という発言は、再考の余地があるだろうとは思う。技術への絶対的信頼には、むろん一定の留保と絶えざる検証が必要だが、建築はいかなる災害が起きても、人命を守ることを含め、少なくともその主要な部分については、「絶対に壊れることはない」という理念を持ち続けることもまた、必要だろうとは思うからである。現実には、それが不可能であるのだとしても。そしてそのことは、「原発を推進すべきか、廃絶すべきか」という問題とは、別の次元に立っているはずである。
それは言ってみれば、医療のあり方に似ている。回復不可能なまでに損傷を負った身体の、すべてに渡る完全な治癒は不可能であるとしても、今後の「事故と病気」への予防も含め、それがいかに可能か、と問い続けることは、深く意味を持つに違いないからである。そのような理念の追求を有した上で、原子力発電を他の代替エネルギーへと転換させていくことは、必ずしも両者を対立の次元へと導くものではないだろうと思う。
日本というこの傷ついた〈身体〉の完全な治癒は、いまだ、そう簡単にはいかない。いや、完全な治癒が実現できるのかどうかすら、分からない。いずれにせよ、これから、気の遠くなるような時間がかかるだろう。また、震災で傷を負った日本の、局所的な痛みは今後も長く続き、その痛みによって国内外の生産や交通や流通といった血流は低下し、各種の臓器をなす社会資本の復興は遅れて代謝は滞り、日本全体の免疫力の低下と不調へとつながる状況は、まだしばらくかかるだろう。
日本という〈身体〉の治癒は、いかに可能か。震災から1年あまりが過ぎた今だからこそ、この問いを、すべての人が、持続的に反芻し続ける必要がある。本書の行間からは、その真摯な問いかけが、絶えず響いてくる。




★1──『週刊朝日緊急増刊号』 「特集=知の逆襲第二弾 日本破壊計画──未来の扉を開くために」と題して、2011年3月15日発売・19日発行。原稿は3.11以前、2月に執筆した、とあとがきに記されている。

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