長坂常インタヴュー──1/1、誤用、自由

長坂常(建築家、スキーマ建築計画)、インタヴュアー:門脇耕三
長坂常氏(左)、門脇耕三氏(右)

「A面」感覚と「B面」感覚

門脇耕三──僕は建築のスタディの方法論にずっと興味をもっているのですが、2000年以降のスタディの方法は、自分以外の「他者」を設計に如何に織り込むか、という試みの連続であったように思っています。たとえば、模型を大量に製作するスタディは、製作の過程に偶然紛れ込むノイズのようなものを、模型の客観的な観察によって拾いあげ、空間の秩序に回収する方法だと僕はとらえていて、このとき「他者」は模型にあたります。一方、これは長坂さんと個人的に議論を重ねているうちに気付いたことでもありますが、長坂さんの一連のリノベーションでは、既存の建築を他者としてとらえ、それを「誤読」という独特な方法で観察することによって、創作のための発想を得ている。この誤読と呼ばれる観察から出発し、発想に至り、最終的にリノベーションが完了するまでのトータルなプロセスを「誤用」と呼んでいるわけですが、「既存の建築」という新しい他者の発見と、そのきわめて独創的な観察の方法論によって、長坂さんが「誤用」した作品は、いままで見たこともなかったような表現に到達していると感じています。しかも、最近ではその「誤用」的創作の手法が、リノベーションばかりではなく、新築のプロジェクトにまで展開されている。今日は、その誤用的方法論と、それが切り拓く可能性について、詳しくおはなしを伺いたいと思っています。
まず、誤用的な試みが最初に行なわれた作品である《Sayama Flat》(2008)[fig.1]のことからお聞かせください。

fig.1──長坂常(スキーマ建築計画)《Sayama Flat》(以下特記なき写真は撮影=太田拓実)

長坂常──《Sayama Flat》で最初に試みた4室は、お金がなかったので図面は描かず、もし失敗したら解体してしまえばいいという姿勢で臨んだので、みんなでハンマーとバールを持って壊しては掃除をするという、完全に現場仕事でした。もともとリノベーションに相応の改修費を提示していたのですが、クライアントであるこのマンションのオーナーさんからの要望は「現状復帰と同等の予算でこの空間を変えられないか」というものでした。ただ、話をしてみると、彼は「建築家は自分の住む空間は素敵にするけれども、他人のための空間は非常に息苦しくつくる」という考え方をしていて、「あ、そういうノリでいいんだ」と理解したわけです。
行ってみるとそこは築38年の社宅マンションで、建築的に褒められるところがなんにもない。なおかつ息苦しいので、まずは明るさを確保するべく壁を取っ払っていきました。あとはまあIKEAでキッチンでも揃えればいいかという程度に思っていたのですが、現場で解体を進めていると、それまでは想像もしていなかったような、かっこよく美しい状況に自分が立ち会うことになったわけです[fig.2]。たとえば、いままで「畳+障子+ふすま+砂壁+押し入れ」のような「和室」という概念でくるまれて認識されてきたモノたちのうち、ひとたびなにかが欠けてくると、突如「押し入れ」が、他の要素と拮抗する存在になりえるのだということを強く意識するようになるのです。つまり、モノはひとつずつ独立して存在していて、それぞれがそれぞれとどのような距離をもつことが美しい状態を生むのか、その状態を編集していくことの面白さに途中から気づくことになったのです。そのときから設計の方法が変わり、一切足さずに抜き取っていくことだけですべてを再構成していこうという判断をしました。

fig.2──《Sayama Flat》

門脇──ここでは頭の中であらかじめ最終像を描かず、ともかく解体をしていったわけですよね。つまり解体の過程に参加しながら、それを丁寧に観察することが、そのまま新しい空間を発想することでもあったわけです。そのとき長坂さんは、解体の結果が「かっこいい」あるいは「美しい」と感じられることを頼りに進んでいったということですが、それは具体的にはどんな状態ですか?

長坂──例えば、LDKでは室内の壁や扉ひとつで和室と洋室が切り分けられているわけで、それらを同時に見ることはないという絶対的な条件で空間ができているわけですね。そうした絶対条件を壁や扉と一緒に外してしまうと、和室と洋室がバッと同時に見えてくるわけです[fig.3, 4]。そういう光景は多くの人にとっても見たことのないものだと思ったのですが、それはまずは「かっこいい」「美しい」という以前の「刺激的」という表現が合っているかもしれません。そこから「かっこいい」「美しい」までどう昇華するのかまだ完全に明確には言えませんが、さっきまでただのLDKだった空間がなぜ「かっこいい」空間に変わってしまったのか、自分でも不思議でしようがなかったですよ。


fig.3, 4──《Sayama Flat》

足して変わるのはわかりますよ。でも、引くだけで構造などはいじっていないのに空間がよく見える、というのは非常に新鮮な驚きでした。それは逆に、さっきまでの「うゎ、ここは耐えられない」という感覚はなんだったのかを考えるきっかけにもなりました。説明をつけることが難しいのですが、こういう価値観の転覆が自分が行なう解体によって起こっていることに非常によろこびを感じていたのです。
ですが、当時はこの感覚が共通言語になるのかどうか、つまり他者との共感を生み出すことができるのかがまったくわからず、発表しようかしまいかについてもずいぶん悩みました。同時に、この感覚は確かなよろこびの感覚だけれども、このままこの道を一歩先に進めてよいのか、よくわかりませんでした。だから仲間内で「かっこいいよね?」「大丈夫だよね?」と確認し合うことしかできませんでしたが、じわじわと客観的な評価が得られる状況になっていって、4戸から始まり全部で20戸ほどをこの方法でつくりました。すべて塗装職人のなかむらしゅうへい君に入ってもらったのですが、ここでは塗装をせず、なかむら君が普段仕事でお金をもらっているようなことは一切しないでもらうことにしました。「塗らない」という判断も価値を生むから、絶対に無駄な塗装はしないでください、という依頼です。僕は仕上げ管理者としてのなかむら君とスタッフの間に立って、現場で必要な指示を出すという立場でした。
車で狭山からなかむら君と帰ってくる途中、《Sayama Flat》で得た実感から、東京の風景もなんとかなるんじゃないかというようなことを何度も話した記憶があります。そうしたことから、見えるものをあらかじめ固定された価値観によって見るのではなく、まだ評価されていないものも含めて、都市を360度見渡して見えるものすべてを、平等に見る姿勢が自分のなかにつくられたように思います。

門脇──周囲の風俗的環境が強いなかで、集合住宅の一室をリノベーションした《円山町の部屋》(2008)[fig.5, 6]はその後ですよね。


fig.5, 6──《円山町の部屋》

長坂──はい。ホワイトキューブと古い建具や天井、分電盤などとの距離感のつくりかたは《Sayama Flat》の延長ともいえます。ただ、不動産価値的にも、一般的な評価に対しても、《Sayama Flat》でつかんだ感覚をどういうところにアジャストしていっていいのかという問題は解消されず、ここでも悩みました。やはり1年間くらいはよくわからなかったですね。つまり、一般的に評価されているデザイン・ヴォキャブラリーを「A面」とすれば、ぼくらが始めてしまった「B面」の活動をこれからどうディヴェロップしていこうか、ずっと考え続けていました。そんななかで「B面」を評価してくれているんだなと思う方々から仕事をいただくこともあり、《奥沢の家》(2008)[fig.7]をやることになりました。

fig.7──《奥沢の家》

おおらかな「抜き差しなる関係」

門脇──たとえば、竿縁天井が見えていたり、木軸が現しになっているというのは、現代の建築のヴォキャブラリーでは考えられたこともなかったような、全く新しいかっこよさだと思うのですが、そのかっこよさが定着されていったのはどのような経緯を通じてですか?

長坂──それは簡単です。施工を終えたあとの《Sayama Flat》で、住人の方々が暮らしている姿を見たんです。これは予算制約上至らないことがたくさんあるということを前提にしたプロジェクトなので、引き渡し後に自分で手を入れていいですよ、という契約になっているんですね。なので、ペンキを塗ったり壁を立てたり、棚を付け足したりする住人がいて、そこに行ったときに、僕は自分がつくったものに誰かが手を加えているのを見て、はじめて嫌な思いをしなかったんですね。完成した後に見に行くと、だいたい嫌な使い方だったり嫌な家具や布団が散乱していたりして──本当に失礼な言い方だと思っていますが──、自分が想定したことと違うことが起きているのを見るのは、相当腹立たしいわけです。けれど《Sayama Flat》ではまったく違う、「おぉ面白いじゃん、一緒に楽しもうよ」というような感覚を得たのですね。それはなぜかと言うと、自分は全体を初めからつくったわけではない、すでに多様なものがあった場所に行って何かを引いてきたという意識が強くあって、新しいルールや線を引いたわけではないからなんですね。そのおおらかさが僕にとってはとても気持ちよく、こういうおおらかさはどうやったらつくることができるんだろうということを、その後ずっと考えることになるのです。
僕らが教わってきた建築デザインは、建築家と建築との緊張した対峙のなかで「抜き差しならない関係」をつくること、あるいは空間を形づくるルールを一定化することであって、クライアントによってその緊張線が冒されるんじゃないかと、いつもハラハラしているわけです。それまでは疑うことなくそういうものだと思っていましたが、《Sayama Flat》をやったことでそのおおらかさの価値を知ることになるわけです。この「抜き差しならない関係」においては、100円ショップで買ってきたゴミ箱、カッシーナのイス、きれいなシャンデリア、そういうものが並んでいるのを見てしまったらもう腹を立てるほかないのですが、おおらかな「抜き差しなる関係」においては、そのほうが自由で楽しいということを味わったわけです。
僕はレゲエが好きなのですが、ビートを刻む仕方にもロックやパンクのような直線的なものもあるわけです。ところがレゲエは裏拍(ダウンビート)を入れてその直線性を外していくんですね。それによって踊っている人はおのおの違った格好をする自由を得るんです。こういう感覚は、《Sayama Flat》や《円山町の部屋》などで試みてきたことに通じていて、言ってみれば「抜き差しなる関係」なんですね。
《奥沢の家》は、奥沢のレンガ造りのいわゆる洋館に手をつけられるというので、「はじめて残しがいのある建物をリノベーションできるかも」と、とても期待してはじめた物件です。でも行ってみると、どうも変なんですね。洋館っぽいけどレンガ造ではないだろうし、木造にしては柱が少なく、1階には広い広間があったり。屋根はパラペットだけどその上に三角屋根が見えたり、こんな家にはだれも好んで住まないだろうというような物件で、正直、最初はショックを受けました[fig.8]。《Sayama Flat》で自信をつけていた僕らも、この難題を前にかなり困っていたんですね。 だれも好んで住まないと言いましたが、要は半地下の駐車場やサウナがあったりする、僕らの世代も知っているひと昔前の金持ちがちょっと見栄をはって設計した住宅なんですね。小学生の頃に「○○ちゃん家はお金持ちでいいなぁ」と羨望したようなその家を、そんな懐かしさとともに少し愛着をもって手を入れることにしたのです。
アメリカや西欧的価値観にかぶれていた父親が、偽物とも本物ともわからずに新しいものをつかまされてしまったような家ですが、それを見て育ってきた僕らだってそういう価値観を信じてきたわけだし、いまになって指をさして笑うこともできません。だから、そういう無視できない年老いた父親にツッコミを入れる、愛情たっぷりに皮肉を利かせるという感覚で計画できたらいいなと思ったんですね。

fig.8──《奥沢の家》(リノベーション前)

門脇──《奥沢の家》では、一部が解体されることによって、もともとの住宅が見栄を張っていたような部分がさらけ出されて、恥部が顕わとなった表現を見ることができます。たとえば長坂さんは、レンガで偽装しているとはいえ、紛れもない在来木造住宅のはずなのだから、1階の広間でこんなにスパンが飛んでいるのはおかしいと考え、そのスパンを無理矢理に成立させていた補強鉄骨を顕わにし、重要な表現に転換させています。こうした発想は、既存の建築を表面的に観察するだけでは生まれえないもので、仕上げに隠された構造など、この家の深層も長坂さんは観察していたはずです。この「既存の建築をさまざまなレベルで観察し、読む」という作業が、長坂さんの発想の過程を特徴付けていて、かつ重要なのだろうと感じます。

長坂──読むという意味では、僕はこの家の1/20の軸組模型をかなりの精度でつくりました[fig.9, 10]。細部がどうなっているのかを知りたかったので、なかの骨組みを想像しながら組んで、仕上げを貼って。仕上げを再現したのは、この家もまた引き剥がしていくことを決めていたからでもあります。


fig.9, 10──《奥沢の家》模型(提供=スキーマ建築計画)

1/1の読み解き方

門脇──長坂さんの模型の扱い方からは、模型を建築の縮小物としてではなく、実物の建築そのもののコピーとして捉える姿勢を感じます。しかも、実物の建築には、さまざまな部材を組み立てる手順まで織り込まれているわけですが、意識としてはその手順も含めて、既存の建築の完成形を一回つくってみるような。

長坂──そうそう、そうです。もう一度つくりなおす感覚で模型をつくるんですよね。《Sayama Flat》でどの部材もかっこよくなる可能性があることがわかった経験から、現場で作業する以前に判断をしてはいけないということをルールにしています。そうして、まずは一回全部を見てみる、そのうえで何をすべきかを考えるんです。だから恥部であろうと明るくつっこんで明るくカミングアウトさせるというのが基本のストーリーです。この時点で、三角屋根と1階の大広間ありきでデザインをスタートさせました。かつ、周囲にはピンクのアパートだったり、住宅メーカーの家が並んでいたりと、とても平凡な東京の風景があり、そんななかで《奥沢の家》をつくり込んで風景の連続性を遮断するのがいやだったので、風景と共存することもひとつのストーリーでした。こういうストーリーや施主の要件など、外せないポイントを空間のなかにアンカーとして打っていって、それらがうまくつながっていくためにすべきことを考えます。ですから、最初から全体の構成や最終形のイメージをもっているのではなく、無責任に打ち込んだアンカー同士を組み替えたり、それらの交点をどうつくっていくかスタディをしていくんですね。三角屋根と1階の大広間以外に、トイレと階段の関係も面白くて、既存の階段室を動かしたことによって、トイレのドアだったものが階段室のドアになっているんですね[fig.11, 12]。こうしたちょっとした操作によって湾曲したストーリーができ、滑稽で愛着のわく場所になる。要は門脇さんのおっしゃる「誤用」ですよね。


fig.11, 12──《奥沢の家》トイレと階段の関係

門脇──長坂さんの「誤用」的な操作には、既存の建築がまとっていたストーリー、つまり物語を書き換えるような意識を感じます。先ほど部材を組み立てる手順のはなしをしましたが、この「誤用」的操作には、「時間軸の操作」も含まれているように感じます。つまり、解体によって既存の建築ができあがるすこし前まで時間を巻き戻し、そこにわずかになにかを付け足すと、それがありえたかもしれない未来も同時に浮き彫りになる。このドアはトイレのためのドアだけれども、階段のためのドアとしてもありえたかもしれない、というように、異なる2つの未来を同時に見ているような感覚になる。この異なる未来が同時にあるという状態に、ある種の自由さを感じるのかもしれません。

長坂──単純に形だけをいじくるのではなくて、そのモノをどう捉え直すか、解釈し直すかということを、動線や空間のちょっとした変更によって変えていく感覚を《奥沢の家》で得ましたね。すでに存在しているモノたちありきで考えていく場合、この考え方は非常に有効なのではないかと思います。特に、壊すことも、形を大きく変えることもなく、小さな操作によって空間が愛すべき存在になりえるということがわかってきてから、もう一度都市に対しても目を向けられるようになりました。

門脇──スタディの過程で1/20の軸組模型はどのように使っていくのですか?

長坂──模型には風景をつけたり、精巧に仕上げを貼ったりしていますが、スタディとしてはすこしずつ剥がしてみたり、戻してみたりといったことをしています。同じ模型を使いながら、きっかけがどこにあるかを探していました。

門脇──1/1の模型、つまりリノベーション前の《奥沢の家》でそれができれば、一番望ましかったとも言えますね。

長坂──そう。でも、現場では計画を遂行する前に一旦壊す工程を挟むから、解体契約というのを結ぶんですね。とりあえず壊してみるというわけにはいきません。だから模型を使っていろいろと試してみるわけです。

門脇──縮小物である1/20模型を、かぎりなく1/1に近いものとして扱っていますね。ものを縮小するということは、そこでディテールの省略も行なわれますから、どうしてもある種の抽象化を伴わざるをえません。抽象化には空間のルールを明快にするという効果があるわけですから、それはそれで良い側面もあるのですが、長坂さんはけっして抽象化をよしとせず、あくまで実物に基づく思考をしている。

長坂──そうです、そうです。実物でやりたいけど、やってしまうと壊れてしまうこともある。だから1/1が頭にイメージできるまで模型でスタディをして現場に足を繰り返し運んで、というのを繰り返し、1/1のイメージが定着したら解体を始めます。1/20は《奥沢の家》のイメージを正確に結ぶための模型でした。
さきほど言ったアンカーにはいろんなものがあるんです。アンカーはたとえば〈卵〉と〈鉛筆〉と〈おもち〉と〈灰皿〉......というように、すべてちがうわけです。けれどもそれらはともかく大事だから、篩(ふるい)にかけず、分類せずに、等価に、それらを編集するように扱う。僕らが大学の建築教育で教わってきたことは、これらバラバラなものをきれいに並べて軸をとおし、そこにどんなコンセプトを与えるかということで、それにしたがって細部をコントロールするわけでしょ。大事なのはそういうことではなく、はじめから破綻しているようにみえるものを下手にそのままつなげようとせず、同居するための環境をみつけていくことなのです。
ただ、即興的にそうしているわけではなくて、《Sayama Flat》では僕は現場には週に1度しか行きませんでした。なかむら君と当時の担当スタッフ畠中はいつも喧嘩して帰ってきて、なにをめぐって揉めているかをそれとなく聞いて把握し、解決方法を提案していたわけですね。この2人は《Sayama Flat》の重要なプレーヤーで、同じくらいの年齢なのですが、畠中は建築家気質で、モノを足してつくりたいんですね。だから《Sayama Flat》ではイライラしたのでしょう、初日にホームセンターでアルミパネルを買ってきて、壁はこれがいいなんて言い出してわれわれに総スカンをくらいます(笑)。なかむら君は反対に《Sayama Flat》は引き算でできると思っていたから、「アルミパネルなんてダセーよ」とか、毎日やりあっていましたね。僕はそれをちょっと引いて見ながら全体を判断していったのです。そういう人の配置も、さっきの《奥沢の家》の1/1模型でサッシの収まりを把握し、構造的な力の流れ方を読み込みんだりということとたいして変わらずに把握しなければならないことなんですね。そういうことのなかからデザインがうまれてきたりするのです。

モノを参加者に見立てる

門脇──最新作の《はなれ》(2011)は《Sayama Flat》以降に完成した初の新築のプロジェクトですが、リノベーションとはちがって、既存の建物という、これまでの長坂さんの発想にとっての重要な登場人物がいないわけですね。だとするならば、その発想の過程に、リノベーションの場合と違うところはあったのでしょうか。

長坂──《はなれ》は急勾配の崖の上に建てた新築の住居です[fig.13]。「外から見られたくないけど外は見たい」「池を見下ろしたい」「インフラは自由に扱えるようにしてほしい」「つくっていく過程を見たいので分離発注したい」といった施主の要望や、断熱と構造の取り合いで混構造にならざるをえないことや、特殊な敷地条件といったことを整理していくと、すでにけっこうなことが決まっちゃっていて、その宙ぶらりんな多くの条件を四方八方に置きながら設計をしていくのですが、やはり分離発注なのでモノとモノとの接点、インターフェイスが決まっていかないといつまでも前に進まないんですね。だから空間に、鉄骨と木、ガラスと断熱、山と建物、インフラと建物、人とインフラ等々、多くのものを取り持つ接点を設定してくことがこのプロジェクトの最大の特徴だと認識しました。なので、従来の建築のような、面や線による構成にはなりえず、まずは一つひとつの接点に答えを与えていきながら空間を考えていくということをしていきました。点によって要素をつなげ、構成を決定していくわけですから、面や線の構成と比べて、選択肢は格段に多くなります。だからここでは、機能を必要最小限インターフェイスと部材で合理的に構成していくと、結果的に鉄骨と木、内と外のどちらが意匠なのかという状態になっているんですね[fig.14]。見ていただいた方からは、「表と裏が反転することがテーマなんでしょ」という感想をいただいたりもしましたが、実はあまりそういうことは考えていなくて、僕の設計方法がこのようにいろんな意味で自由度をもっているから、みなさんが勝手に誤読をしてくれるというか、建築にいろんな想像を与えてくれるのだと思っています。さっきも言ったように、普段僕らは引き渡し後に操作されることを想定しない建築をつくっているのですが、今回のプロジェクトは「住まいながら自分たちで手を加えていきたい」というクライアントの要望もあって、操作されることをある程度引き受けたうえで設計しているので、できるだけ接点をわかりやすく示して、あとは住み手が操作について考えやすい状態をキープすることが大事だと思っていました。


fig.13, 14──《はなれ》

門脇──さまざまな要素の接点、つまり要素どうしの関係性をつくっていくということは、すなわち空間の秩序を考えるということでもあると思いますが、その秩序が面によって担保されるものではないというのが重要ですね。面にいろいろなものがくっついてきてしまうと、それはもはやフラットな面としては認識されなってしまいますので、あとからいろんなものが参加しにくいというか、参加して欲しくない状況ができてしまう。また、面による秩序は、表現としてはどうしても純粋な立体を志向します。つまり抽象化の傾向を帯びる。しかし、ここではあくまで点によって要素の関係性を取り結ぶわけですから、そこにくっつくものは自由にふるまえるし、何でも選択できる。だから、抽象化を経ない建築部材そのものを扱うこともできるし、むしろそういう状態が目指されている。

長坂──はい。僕らは残念ながら建築の構成が身に付いてしまっていますよね。新築をつくる場合でも放っておかれると字義通りの構成をしてしまう。たとえば木とガラスの接面から考え始めると、無駄なものをどんどん排除することになってしまう。でも僕らは《はなれ》でしたように、最初に部屋の真ん中に丸太を置くことで、そういった構成を外すんですね[fig.15, 16]。レゲエみたいに。初期設定で構成を外す状況をつくっておいて、あとは欲求を満たしていくことを考えるわけです。たとえば、屋根の庇が2m出ていますが、冬の間は南から窓際の棚材のブロックに光が当たって蓄熱し、夜の間は部屋の床を暖めますし、夏の間は逆に遮られて涼しい。外せる状況を許さない、余計なものを排除するような設計をしてしまうと、たとえば庇を出すことは合理的であるはずなのに、絶対それは選択しない、といった不自由さが生まれてしまうことがあります。


fig.15, 16──《はなれ》の大黒柱のような丸太

門脇──なるほど、「点による秩序」は、クライアントの要求にもとても素直に回答できるという効果も生むわけですね。また、構成のはなしが出ましたが、《はなれ》は言ってしまえば、プランも構成もない住宅です。かといって、空間に秩序がないわけではなくて、即物的な部材そのものが取り結ぶ関係性が、空間の秩序として現われている。また、部材の関係性という秩序には、部材の組み立て方という時間軸が織り込まれているので、そこには連綿と続く時間の流れも同時に感じることができます。つまり従来的な建築とは異なり、「完成」という凍結した一瞬の時間だけが表現されているわけではないので、後から新しい役者も加わっていける。それは長坂さんがこれまでリノベーションのプロジェクトで考えていたことにすごく近いのではないかと思います。たとえば《Sayama Flat》では、既存の配管がいかに自由にふるまえるか、あるいは表現としては、それが剥きだしとなった躯体と同じくらいの強度をいかに持ちえるか、といったようなことが試されていましたが、新築でありながら、《はなれ》では同様の実験が行なわれている。今回は分離発注という条件が、こうした実験の引き金となったのかもしれませんが、分離発注ではなくても、十分可能性のある取り組みに思えます。

長坂──そうですね。最初はやっぱりデザインをしたいとか思っちゃうんです。でもそうすると複雑につくってしまうので、分離発注することを通じていろいろと考えが進みました。今回は工務店ではなく大工さんでしたから、鉄骨と木をどう組み合わせるかという問題も、大工さんがわかりやすく理解できるようにとすべてやっていったのです。地盤もそうですね。上から山が崩れてきてはならないので、ショベルが届くところの山を切り崩していったわけですが、当然、崩した部分はもとに戻りませんから、ショベルカーが通る道がそのまま敷地になります。そして、それが終わったらコンクリートを被せて、擁壁業者を呼んでと淡々とひとつずつ決まっていき、後戻りがけっしてできないプロセスが淡々と累積されます。

門脇──それも1/1でスタディしていることを感じさせる話ですね。うかがっているとある意味で連歌的な発想でもある。

長坂──僕は家具などのスケールのものもつくっているので、まだなにも決まっていなくても突然1/1のディテールの話に移れるんですよ。あるいはこっちのディテールを放置してあっちのディテールを詰めていくというやり方もできる。複数のディテールを同時に扱って繋げていくというジョブ・ランニングです。極端なことを言えば、〈金〉と〈ベニヤ〉くらい価値観が連続していなくてもそこに怖さはないという感覚ですね。連歌と言っていただきましたが、本来はこうあるべきだというのがモダニズムであって、「こっちを選んだらこうなっちゃった」はデザインではないと教わってきましたが、「こっちに進めばそれが見えて、あんな幸せも味わえる」という連歌的発想を選ぶ勇気さえあれば、見通しのよい高みから空間をコントロールする立ち技ではなく、リノベーションと同様に、寝技的な方法で新築をつくることができるのです。

門脇──一般的に言って、決定者が自分一人しかいない超越的な状況では、自分が圧倒的に正しくないと選択できないことがあると思います。しかしその選択の場に、自分以外の決定権者が参加してくると、自分とその参加者の力関係で選択が行なわれるので、決定の論理がこうあるべきだという「べき論」になる確率がグンと下がります。長坂さんはけっして超越的な決定者としての建築家なのではなく、プロジェクトに携わる人間ばかりか、人格をもたない「モノ」さえをも決定権をもつ参加者のように見立てて、「圧倒的に正しい」という息苦しい選択の論理を回避しようとしているのではないでしょうか。

長坂──そう、そっちのほうが豊かな選択だと思うんですよ。「人生で一回だから最高のものを」ではなく「たった一回だから、その都度行き当たりで楽しくいこう」というほうが絶対豊かでしょ。こっちに転んでいったら、それを観察しながらこの世界がどう変わっていくのかを僕なりに楽しみながら発見して、最終的に答えを出していくんです。施主との関係でいえば、最初からゴールイメージがあって、そこに向けて走っているわけではないので、走り出したときは施主と同じ地点に立っている。だからあるとき施主を抜かなきゃいけない。転がりながら観察して、最後は形をつくらなきゃいけない。本当のことが見えないかぎり僕らはスパートをかけられないので、ずっと見ていて「見えた」と思った瞬間に施主を追い抜く。それまでは、ずっと寄り添って施主も一緒に走らせなきゃならない。同じように、モノにも走ってもらわなきゃなりません。

長坂常氏

図式(シンタックス)と意味論(セマンティクス)を仲介するテクトニクス

門脇──《はなれ》を見た人から、「裏と表の反転を扱っている」という感想を言われたというはなしが先にありましたが、しかし長坂さんは、やはりモノの関係性の話しかされません。このことを、僕はとても興味深く思っています。長坂さんは、さまざまなモノを自由にふるまわせ、一つひとつのモノの自律性を担保するようなデザインをするわけですが、それは結果的に、モノにこびりついている意味をも見せてしまうような作用があるように感じています。《はなれ》では、木軸が現しになった部分など、一見「表と裏の反転」の表現だと思われるような場所があるのですが、長坂さんに言わせれば、それはモノの組み立て方に素直にしたがった結果でしかない。つまり長坂さんは、モノを純粋にモノとして扱っているわけですが、しかし結果として、見る側の方にある「木軸が見えている面は裏だよね」という無意識に認識している意味を呼び起こし、それが「表と裏の反転」というテーマを駆動させてしまう。長坂さんは、純粋にモノを走らせているだけですが、しかしそれを見るわれわれの存在があることによって、そこにある種の意味が投影されてしまうことを指摘している。それは、意味論(セマンティクス)の所在をめぐってとても批評的に見えるわけです。
また、「表と裏の反転」などというテーマは、建築を図式的に捉える態度がないと認識されえないものです。図式的には「表」であるはずの壁に、「木軸が現われているのは裏だよね」という慣習的な意味が投影されることによってはじめて、「反転」するからです。しかし《はなれ》での長坂さんは、図式的な思考も一切していません。このことも、極めて興味深く思っています。一般的に言って、図式(シンタックス)的な思考は抽象的で、意味論を排除する方向に向かい、両者は水と油のような関係にあります。しかし長坂さんは、モノの組み立て方に即した思考、つまりテクトニクスを介して、シンタックスとセマンティクスをなめらかにつないでしまった。「あれ、この2つは接続するんだ」という感じで、僕はそのことにとても感心したのです。
リノベーションでは、モノそれ自体が持っていた固有のストーリーを読むということも重要ですよね。長坂さんの表現には、時間軸が織り込まれているというはなしを先にしましたが、たとえば《奥沢の家》のドアには、「かつてはトイレのためのドアであった」という来歴が織り込まれていて、そのこと自体が表現上の重要な要素となっていますが、それはモノがもっていた物語、あるいは意味を操作しているようなこととも捉えることができます。おそらくリノベーションを通じて、そうしたモノがもつ意味に対して、繊細な感覚を身につけていらしたのだと思います。その意味で、新築である《はなれ》においても、モノの読み解き方にリノベーションの時と連続するものを感じます。

長坂──モノやモノの構成における意味はもちろん大きいですし、帯びてしまうストーリーについては意識的でしたよ。しかし否定していました。新築でストーリーは不可能です。

門脇──けっしてストーリーを捏造しようとする態度を感じるわけではなくて、むしろ否応なしにストーリーを帯びてしまう局面に対して、そのストーリーを相対化するような思考を感じるんです。どうしても帯びてしまうストーリーがあるんだったら、ツッコミを入れられるストーリーにしとけ、というような。たとえば、《はなれ》では「モノの組み立て方をつまびらかにする」という思考、つまり仕上げと下地といったような、隠すものと隠されるものに区別がなくなってしまうような思考が徹底されているわけですが、施主の側から「来客のときはキッチンの調理台を隠したい」という要望が出ると、そこは素直に扉で隠せるようにする。しかし、調理台を扉で隠すと、今度はそれまでその扉で隠されていた分電盤が現われてしまう(笑)。あれだって施主がこうあってほしいというストーリーに対するツッコミの表われですよね。

長坂──いえ、どこをとってもネタ化はしていませんよ。

門脇──あるいは、あの大黒柱のような丸太は、すごく意味の強い存在です。《はなれ》において、ああいうものが重要な要素として使われているのは、モノ論だけでなく意味論をも扱おうということの表われではないでしょうか。

長坂──意味論の操作というよりも、これから生まれてしまう大きな意味をあらかじめ外しておくため、これからの想像の幅を持たせるためですよ。だから丸太じゃなくてもいいのですが、後々まで触れ幅の自由度をキープしていたり、施主の矛盾をどこまで内包できるかということを考えたときに、あれで余裕が保たれたのです。

門脇──なるほど。意味をなくそうとして、白く抽象的な空間をつくっても、今度はそれがスタイルに転化して、そこに突然「モダン」や「おしゃれ」といった意味が発生します。それはもともとの意図とは離れて、すごく不自由な状況を生んでしまう。《Sayama Flat》で和室と洋室が同時に見えることを美しいと思ったとおっしゃった感覚は、そうした一見勝ち目のない戦いに対して、まったく違う立ち位置を示しているという点で、とても示唆的です。

長坂──感情を挿入する場所、参加する余地をつくりたいんですね。なにか一方的にすばらしい話を聞いて「うんうん」と頷くのではなくて、そこにある矛盾も一緒に対話をしていく自由。その自由がただ壁を取り去っただけの《Sayama Flat》に存在していた、ということです。新築においてもたぶん存在するのです。
以前、フィリップ・ドゥクフレの演出で、舞台に仕切りを立てて、舞台aと舞台bはお互いを見ることができず、観客のみがその両方を見られるので、演技者は全体の演技を気にするとき、必然的に観客を必要以上に意識する。そんなパフォーマンスがありましたが、そのとき観客は既にただの観客ではなく演技者同様舞台に参加している意識にさせられます。ああいう関係性が空間のなかにもほしいですし、そもそも都市はそんな視線、矛盾、複雑な成り立ちに満ちあふれていますよね。ところが建築だけがなぜかひとつの視線で構成できると思われていたり、都市的なものから切り離せるものとして扱われていたりするのはおかしいことだと昔から思っていました。もうすこし多様に、自由な視線をもつことは大切なことじゃないかと感じているのです。そのための方法がすこしわかってきたのかな。そのような世界に到達するめにはやはり1/1は必要だったのだと思います。
ちなみに《はなれ》もものすごく大きな、1/1にちかい部分模型をつくりながらスタディしました。かといって全部を1/1で押さえたわけじゃないですよ。全部やろうとしたら膨大な時間と、それぞれのバランスを1/1でとっていくことになって進みませんからね。想像しておきたいところを徹底的に1/1で想像しておくと、ほかの場所もそのときの生きたスケール感でいけますから。僕らも絶えず1/1を見ているつもりでいますが、そのために1/100、1/30が都合がよければ使います。その場合にも絶対に模型を信用するな、というのが僕らが事務所で守っていることです。あくまでも頭のなかで想像するためのサポート・ツールでしかないのですが、建築家は模型をずっと見ているとこれが本当の感覚だと思っちゃうんですよ。不思議なことですよね。そのためにも、スタッフには日頃から家具屋さんに行って家具を触ってくるとか、絶えず想像のトレーニングをさせています。
最後に都市の状況について触れたいと思いますが、もうしばらくの間、都市の問題が距離と時間をはじめとする計量的な価値だけで計られる傾向にあります。一方、計量的価値観から外れたところに文化があって、にぎわいがあって、コミュニティがある。そして障壁もあれば分断もあって、それらが空間の豊かさを担保しているということは、本当はだれもが知るところのはずですが、いまだにそれを平均化することで街が生き返るという主張があることがすごく不思議なわけです。ところが一方には、われわれ建築家側には、多くの利用者や住人と同様にその空間の豊かさを「えも言われぬ」というような表現でしか評価できていないという問題がある。人々が「えも言われぬ」と言っているうちに数字の原理で都市が評価され尽くされてしまいますし、現在は圧倒的にその趨勢が有利です。その問題に対して僕は、言葉で守れないならば建築・デザインでそこに参加していかなければダメだと思っているのです。そのためには僕が言っているような「デザイン」は絶対に必要であって、そこにどんどん参加していきたいと思っています。「抜き差しならない関係」では、都市はスクラップ&ビルドを繰り返すだけ。「えも言われぬ」汚い飲み屋の建物が都市に参加できるような状況に、リノベーションによっても、そして新築によっても参加していけるような方法を考えたいと思います。下北沢しかり、新宿ゴールデン街しかり、一掃されることで行き場のない人たちが生まれていく状況は都市として豊かじゃない。それを建築行為で変えていけないか、「抜き差しなる関係」のデザインはそのための表現、方法論であるのではないかと思うのです。

2月28日、HAPPAにて



長坂常(ながさか・じょう)
1972生まれ。建築家。東京藝術大学美術学部建築学科卒業。スキーマ建築計画。主な作品=《kitchen café cube》《Sayama Flat》《円山町の部屋》《奥沢の家》《Flat Table》《はなれ》など。 http://www.sschemata.com

201204

特集 設計スタディの現在形、新たなテクトニクスの発見へ


2000年以降のスタディ、または設計における他者性の発露の行方
長坂常インタヴュー──1/1、誤用、自由
ソーシャルメディアにおける他者の可能性
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