【第3回】[インタヴュー]新しい「まちデザイン」を考える 3──ヨーロッパの都市デザイン20年史

服部圭郎(都市計画、明治学院大学教授)+太田浩史+乾久美子+阿部大輔
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左から、太田浩史氏、乾久美子氏、阿部大輔氏、服部圭郎氏

呼応し合う都市

太田浩史──今日服部先生にお聞きしたいのは、ブラジルのクリチバ市における元市長ジャイメ・レルネルさん(1937─)、コペンハーゲンにおけるヤン・ゲールさん(1936─)、そしてアメリカ、イギリス、スペインといったそれぞれの都市再生のお話、そしてさらに、90年代から世界各地で「コンパクトシティ」に代表されるような反近代都市計画的な動きについてもパースペクティヴを掴んでおきたいと考えています。
また、今日はバルセロナの都市再生の研究家でもある阿部大輔さんにもお越しいただきましたので、いろいろな角度から世界の事例についてお伺いしたいと思っています。

服部圭郎──「反近代的な都市計画」って面白いキーワードですね。あきらかに90年代から方向性が変わってきていますよね。僕も以前からこの傾向をどう表現してよいのか考えてきましたが、「温故知新」というとベタだけど、時計を逆回転させるような動きがある。たとえば、ヤン・ゲールがいまアメリカでこれだけ支持されているんだから面白いですよね。

太田──以前、財団法人ハイライフ研究所の取材でヤン・ゲールさんにインタヴューをされていましたが(「豊かな公共空間をつくる 前編(http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=3689)」「同 後編」(http://www.hilife.or.jp/wordpress/?p=3803))、どういう感想をもたれましたか?

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ヤン・ゲール
『建物のあいだのアクティビティ』
服部──ヤン・ゲールについては大学院のときにケヴィン・リンチやジェイン・ジェイコブスと同じように研究していまして、彼の著書『Life Between Buildings』(原題『Livet mellem husene』[1987]、邦訳『建物のあいだのアクティビティ』、鹿島出版会、2011)を読んで感銘を受けていました。僕にとっては憧れの人でしたから、客観的になれなかったこともありました(笑)。ただこの時代にあって出版から25年近く後にアメリカで受け入れられているのが面白い。マンハッタンのブロードウェイを歩行者専用道路にしてしまおうという、クリチバ市でジャイメ・レルネルさんがやったようなことを提案して実現してしまったのですから。たしかにニューヨークは特異解で、アメリカ全体にその流れがあるとは言えませんが、すくなくともニューヨーク市民がこの提案を受け入れていたという事実がすごい。

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ブロードウェイ(ニューヨーク、撮影=服部圭郎)

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花通り(クリチバ、撮影=服部圭郎)

ニューヨークはここ5年で、長い目で見れば9.11以降だと思いますが、都市再生の事例として面白いことをしていますよね。ハイラインなども成功していますし、ユニオンスクエアもファーマーズマーケットを週4日開催して多くの人を集めていたり。
ヤン・ゲールは日本に関して珍しくだめ出しをした外国人の都市デザイナーです。ほかの都市デザイナーは、京都の先斗町や東京江東区の砂町銀座などヒューマンスケールの都市を高く評価して日本についてあまり悪く言わないものですが。ヤン・ゲールは、都市空間の利用者のヒエラルキーのトップは人間であることを都市計画の大きな前提としています。それが日本はできていないと批判をしていたのが印象的でした。
彼の研究ですごいなと思うのは、デンマークの歩行者天国「ストロイエ」の研究。ちなみに彼はたまにストロイエをデザインしたと誤解されていますが、彼はデザインではなくストロイエの研究をしたことで注目を浴びました。いまわれわれが北欧に行くと、屋外の使い方がうまいなと思ったりするけれど、昔はオープンカフェなどありませんでした。そもそも北欧人は公共屋外空間を楽しまないと批判されていたくらいだったのです。実験的に行なって成功したという意味では、クリチバのレルネルさんの花通りの進め方と似ていますよね。

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ストロイエ(デンマーク、撮影=服部圭郎)

旧市街地に車が入れないようにしているまちはヨーロッパなどにも見られるけれど、それはストロイエの成功で発展したことなのです。その背景には、イタリアやバルセロナといった雪が降らない地中海気候地帯のスクエアやシエナなどの広場のオープンカフェで、コーヒーを飲んだりアイスクリームを食べたりするアーバンライフへの憧れなどの影響したとは思いますが、実際に北欧で屋外空間の過ごし方が多様になっていったのは、60年代以降だと言えますね。

太田──この20年、まったく離れた所にある都市がお互いを参照しながら都市再生を進めてきたところがありますね。

服部──それは第二次大戦後以降、旅行することが一般大衆化したことと関係するかもしれませんね。

太田──僕はアメリカのボルチモアがイタリアのジェノヴァのウォーターフロントに影響を与えたと聞きました。

阿部大輔──バルセロナのオリンピック村も設計コンセプトもボルチモアから学んだようです。

服部──ハンブルグのハーフェンシティはバルセロナですね。そこにはバスコ・ダ・ガマ広場とか、マルコ・ポーロ広場がある。それはなぜかと調べると、広場の設計者がバルセロナの都市デザイナー達なんですよね。バーモント州のバーリントンにあるチャーチ・ストリート・マーケット・プレイスという目抜き通りも、中央通りから自動車を排除し歩行者専用道路として成功している。それを仕掛けたのはバーリントン市の都市計画委員会の委員だった建築家。新婚旅行でストロイエを見てこれはいいと思い、わがまちでも提案したら通ってしまったという話です。こうした話で言えば、日本も各国の都市に影響を与えていますよね。クリチバも日本の影響を受けている。

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ハーフェンシティ(ハンブルク、撮影=服部圭郎)

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チャーチストリートマーケットプレイス(バーリントン、撮影=服部圭郎)

太田──どの辺りがですか?

服部──たとえば、クリチバには24時間通りという道があります。レルネルさんが日本の三宮の繁華街を訪れたときに、夜の12時を過ぎても店が開いていて、人がにぎやかに過ごしていることに感心したことから、クリチバでも24時間営業する飲食店を作ることを試みたんですね。いまではあまりうまくいっていないようですが、日本のまちにヒントを得ている人たちは多いようですね。

太田──そうした世界中の都市が呼応しあう現象はどうして起こるのでしょうか。

服部──ひとつは脱近代化というテーマが普遍的であることが理由でしょうね。それからインターネットの存在。そして英語の普及。バルセロナでは何が起きているのか、詳しくはスペイン語で読まないとわからないのでしょうが、英語さえわかればなんとなくつかめますから。

都市再生第2世代のキーワード

太田──都市再生にも第1世代、第2世代があるような気がしています。クリチバ、コルドバ、コペンハーゲン、バルセロナ、そこに触発されて、ボルドー、ニューキャッスル、ビルバオ、マンハッタン......。この20年、世界ではいろんなことがあったと思うんですが、なぜこれほどまで日本に伝わっていないのか、訝しい思いです。

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グッゲンハイム・ミュージアム(ビルバオ、撮影=服部圭郎)

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東京大学cSUR-SSD研究会
『世界のSSD100──都市持続再生のツボ』
以前、阿部さんも参加された『世界のSSD100──都市持続再生のツボ』(東京大学cSUR-SSD研究会、彰国社、2007)という500頁を越える分厚い本をまとめ、「これを知らないとだめだよ」という世界の都市再生事例をすべて載せて出したのですが、まだまだ都市再生という運動が情報共有されているとは感じられません。一般に「コンパクトシティ」というような言葉は流布していますが、世界の事例を知らないまま議論の対象になっていて、首を傾げてしまいます。

服部──そう、「コンパクトシティ」とは何なのか、わからないまま議論が進んでいますよね。

阿部──コンパクトシティ論が危ういのは、それがいつのまにか形態論にしてしまいがちなところと言えるでしょう。それから近年では、コンパクトシティ論もさることながら、クリエイティブシティ論が盛んです。コンパクトシティよりクリエイティブシティのほうが政策上のフラッグシップになりやすく、少なくとも行政レベルでは市民権を持っているようにも思います。それはつまり、形態の話をしなくても創造性に関する話はできるから。都市再生の第1世代は、人間中心で心地よく歩きやすいといった空間のリテラシーづくりとその成功体験を連続させていくような計画をしていたと思うのですが、それが結果的に創造的な空間として読み替えることが可能だったこともあり、都市再生の第2世代は第1世代の成功を受けてプランニングとして創造的な空間を創出しようとしているようにも見える。ただ、私たちは普段、「これは心地よい空間だな」と感じることはあっても、「これは創造的な空間だ」と感じることはあまりないですよね。クリエイティブシティと銘打つまちに住んでいる人たちは、クリエイティブシティたる空間の実感を得にくい状況になっているのではないでしょうか。

服部──僕はクリエイティブシティには批判的なんです。クリエイティブシティと言われても、何をもってクリエイティブなのからわからないし、シティがクリエイティブになるのではなく、クリエイティブな人が住んでクリエイティブシティになるわけですよね。リチャード・フロリダのあの本がなぜウケるのか、さっぱりわからない。

阿部──空間論に結びついていかないですよね。安易に飛びつくと、結果的に資源を消費して終わってしまうような危険性がある。それにフロリダの話を忠実に聞いていると、結局のところ人材の奪い合いだし、単なるエリート論に聞こえなくもない。クリエイティブシティはわれわれ一般市民には少し響きづらいように感じます。

服部──エリート・クラスのなかでも、アメリカ的なブルジョアボヘミアンのクラスですよね。ゲイテッド・コミュニティの精神に近いものを感じる。そう思うと、いまの受容のされ方がますますよくわからない。

太田──ナントでは20年以上かけてロワイヤル・デュ・ルクスやラ・フォル・デジュネのようなコンテンツを育成しています。地道な文化政策がベースにあって、それから土地利用や建築のリノベーションのビジョンが生まれてくる。クリエイティブシティというかけ声でこのようなプロセスが見失われるのは怖いですね。

阿部──私は、環境に対応しているひとつの都市形態論がコンパクトシティで、経済に対応しているのがクリエイティブシティ論なのだろうと理解しています。だから経済系の人は比較的違和感なくクリエイティブシティ論を受け入れているようです。とすれば、プランナーや都市を扱うわれわれが議論のプラットフォームを設定できればいいのかもしれません。こうしたなか、私個人はこれから社会的持続性がますます問われるだろうと思っていますが、それに対する都市論がありません。これまで社会的持続性というと参加と共同の話になりがちですが、新しい都市論が欲しいと考えています。特にヨーロッパは移民問題が大きく、社会的弱者が多いなかで、多くのアーバンデザイナーがどういう役割を果たせばいいのか、頭を悩ませています。しかしこういう時であっても、結局デザインがいい悪いよりもそこにパブリックスペースを生み出せるかどうかという話に落ち着いている。そうなると、よいデザインがどれくらいの効力を持つのかという議論はますます遠ざけられてしまうのです。

社会デザインから公共空間を考える

太田──それと同じ現象は貧富の差の大きい南米でも見られていて、たとえばクリチバにおいても、パブリックスペースを市民の社会的平等の希望として再定義しようした訳ですよね。阿部さんも行かれたコロンビアのメディジンも、教育とパブリックスペースを強く結びつけ、公共性の問題を空間的に表現しようしています。

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服部圭郎氏
服部──広場は市民の公共性意識を鍛えますよね。日本ではなかなかいいパブリックスペースはできないのではないかと考えています。日本人がデザイン面で劣っているとはまったく思えませんが、おそらく国民レベルで民主主義がまだ浸透していない。そのために民主主義を発露させるためのパブリックスペースのニーズがあまりない。上から公共空間を与えられても、そこから十分な公共意識を学んでいないということかもしれません。とはいえ同情すべき点もあります。いま、例えば市民がまちをどうにかしてほしいと役場に行ってもなかなか対応してもらえない。小さなことは対応してくれるかもしれないけれど、みんなで広場をつくりたいと思うようなコミュニティがあったとしても、広場は具体化できないのです。これは、自治体の自治権が少なすぎるから。公共性を育み、パブリックスペースを含むまちづくりを自治体が実践できにくい制度になっている。中央政府に権限が集中しすぎです。1億2000万の人口を抱えるこの国は経済はまだ豊かですが、中央集権でいろいろやっている状況が市民レベルでの公共性を豊かにすることの一番大きなネックとなってしまっているのです。経済が成長している時は中央政府は豊かさを分配するだけですのでまだいいですが、これからパイが拡大することが考えられない状況では、すぐにでも中央集権をやめて地方に自治を任せるべきですよ。
建築という単体、ミクロの視点から広域的に見る努力をされている方はたくさんいますが、逆に国から都市、まちに考えを落とすような人が少ないですよね。建築的な思考を拡大深遠しても、大きな枠組みを変えないと限界はある。どれも制度的な問題ですよね。

太田──そのスケールの問題は、まさにこの連載の目的でもあるのです。いま、僕や乾さんと同世代の建築家がまちに関わることが多くなりましたが、それは20年ほど前、僕たちが大学にいたときとは全く違う状況だと思っています。こうした傾向は今後も長く続くでしょう。地方都市には都市計画家はいないけれど、地元の工務店や、大学を卒業してふるさとに戻った若い建築家がいます。彼らは日常の問題として、地域をどうするかを考えています。僕は、地域の建築家が都市的な知見をもって実践的に提案をしていくこと以外に、まちデザインの方法はないように思っているのです。

服部──ただ、その流れをサポートする市民が弱いですよね。市民のサポートがあったとしても、制度的な弊害があって通りにくい。地方に行くとマスタープランを印刷屋がやっているところがあるわけです(笑)。恐ろしいですよね。うちの市はマスタープランを印刷所に外注していますと言うんです。マスタープランをつくると報告書を印刷するじゃないですか。その印刷代のおまけでマスタープランをつくっているんだと。それでもよしとしている市民もいるわけですよ。

太田──この無関心は何でしょうね。都市についての関心がすっぽりとぬけている。

阿部──私はやはり成功体験が少ないからだと思います。よく言われる話ですが、海外旅行に行って経験したまちはすごくいいと思うのに、日本に帰るとがっかりする。それは欧米を崇拝しているのではなく、経験として圧倒的によかったという感性、体験の問題なのです。日本でも好きなまちを考えると、ふとした出来事と空間が結びついていたりする。そういう経験をどう積み重ねていくことができるのか、これからのプランナーなり建築家に求められているのでしょう。それが制度の問題になるとなかなか事業自体進んでいかない。そこをどう統合していくのかという大きな問題があるのではないでしょうか。一方で、私がやりたいからやっているという趣味的活動から、まちを少しずつ変える活動につながれば、劇的に楽しさに満ちた経験になる。そういった意味で悲観的に見えながらもチャンスはあるなと思っています。

服部──私の経験では例えば、富山市は面白いと思います。ライトレール(LRT)は日本では法律上できないと聞かされていました。補助金制度をうまく使ったことが幸いしているのかもしれませんが、LRTができたというよりはむしろ、首長が「やろう」と言えばやれてしまうんだという事例として印象的だった。ただ、こうした成功事例があってもほかの自治体では自分のまちではできないと言う。海外だと国が違うからできないという言い訳にはできるけれど、富山市の事例はもはや言い訳にもならないはずなのになぜかうまくいかない。一気に普及すると思ったのですが。

太田──先日行なわれた「世界シビックプライド会議」(2011年10月9日)で富山市のLRTの車体デザインをしているグラフィックデザイナーの島津勝弘さんのお話を聞いたのですが、反対意見が強いなかでLRTの車体を白色にしたそうなんですね。白色にすると、車体全体をキャンバスにして、記念日にはさまざまにラッピングしたり、子どもたちに絵を考えてもらったり、LRTを都市のメディアとして使うことができる。そうしたデザインコントロールはなかなかほかではマネはできないだろうとおっしゃっていました。

服部──駅もまたメディアとして使っていてうまいですよね。

太田──われわれはそうしたことの総称を「まちデザイン」と呼んで連載をしています。まちづくりとアーバンデザインの中間的な言葉でもあるのですが、そのデザインは建築や公共空間の設計だけではなく、どういうふうにまちを伝えるのかといったこと、メディア的機能も含んだデザインが必要なのではないかということを考えています。

服部──まちは部分集合の小さいところから取り組むというのが正攻法だとは思うけれど、社会をデザインしなおさないといけないというのが僕の考え方で、日本のまちづくりやまちデザインがうまくいかない状況に対しては、建築家ががんばっても限界があるのではないかと思ってしまっています。自分たちのことは自分たちで決められる、そしてお金がある、そのような状況にある例えばドイツの都市とは大きく異なっているのです。

乾久美子──私はいま、宮崎県の延岡市の延岡駅周辺整備を手伝っています。これまで単体の建築設計をやってきて本年度になってはじめてまちづくりに関わるようになりました。最初、中心市街地活性化の認定をとろうとしていたのですが、認定をとろうとすると言葉だけの「メニュー」に従わなければならないという問題があることに驚きました。駅前に大きな複合ビルを建てることが暗に求められていたりとかなどですね。認定をとりやすいメニューを見ていると、なんだかばかばかしいものが多い。今年度まで行政の方々は認定の方程式に従ってメニューづくりをしていたのですが、私がメニューに対する疑問を投げかけたりしている内に、認定をとることが前提といった考え方をシフトされるようになってきました。ところが、今度はどこからお金を持ってくるのかという問題に直面する。そこでいろいろなアイディアを抱えて霞ヶ関に向かうのですが、結局、否定されてしょんぼりして帰ってくることが多いです。地方には優秀な人がいても中央から押さえ込まれてしまう構図があることを間近で見ているので、服部先生のお話にも納得しているところです。

服部──いままではそれでもなんとかやってこれたけれど、これからはそれではやっていけないですよね。システム、制度の問題です。落としどころがこうなってしまって申し訳ないですけれど。
東日本大震災の後、日経新聞系の雑誌から都市計画の有識者へ、震災復興を地方自治体に任せるか、中央官庁に任せるかというアンケート調査がありました。誰もが地方自治体に任せるのが当たり前と答えると思っていたけれど、中央政府にやらせたほうがいいという声が多かったと聞きました。現地の自治体は被災しているからたしかに難しいところがあるかもしれません。しかし地方自治体ごとに被災状況をすべて霞ヶ関が把握することは不可能でしょう。

都市を縮小させるという発想の転換

太田──再びヨーロッパや南米の話になりますが、都市間競争をしながら同時に都市間協力もしたりして、都市単位で情報交換をしていますよね。そういう仕組みをどのように日本で作っていけるのでしょうか。

服部──ええ、それぞれの都市の魅力をどう発信するかが大きなテーマになっています。90年代からの反近代的な都市計画の動きの話がありましたが、その背景にもEU(欧州連合)という存在がありますね。

服部──ビルバオはまさにEUの形成をうまく活用した事例だと思います。

阿部──私の恩師でした北沢猛さんは「アーバンプランナーの役割は地獄絵を描くことだ」と仰っていました。たとえば、現在元気なヨーロッパの都市の少なからぬ数は、EUのUPPやURBANといった補助金を受けています。しかし、こうした補助金スキームが実効力を持ったように見えるのは、1980年代に大変深刻な都市問題を抱え、このままでは都市が都市でなくなってしまうという共通の危機感を持ち、地獄絵を描いたからこそその後の政策にスピード感があったと思うのです。一方でわれわれの都市問題は茫漠としていて、全体で共通して認識しやすいものとも言い切れない。あるいは全体ではなくても、少なくともアーバンデザイナーや建築家なりがどういった地獄絵を描くことができるのか、そのことが問われているのではないでしょうか。そういう根本的なことができていないので、さきほど話にあったメニューのようなもののなかから全体解を探すことになってしまう。最近に限らずここ20~30年続いていることだという気がしますね。

服部──それは面白いですね。僕がドイツに興味を持ったのは縮小する都市が多いからでした。特に旧東市街地の縮小化は急激です。そうしたとき、都市のどの部分を縮小させるのか、縮小計画を策定しますよね。それは実は言うは易く行うは難しで、なかなかできないことです。中心市街地は都市の核だから残して、新しく作られた郊外住宅を取り壊して減築し、公園や森林に戻していく計画が多いわけです。でも郊外のデッサウはバウハウスがあるのでちょっと普通じゃプライドが許さないと思ったのかどうかは分かりませんが、島状に残すなどということをしている。
一方同じく縮小化が進む日本は、いまだに経済成長を唱えているし、地獄絵とはいかないまでも、縮小を前提にフレームワークをつくってそのうえで都市の絵を描くのがまったく下手ですよね。特にいまの福島の状況を見るとこの国はどこに行こうとしているのだろうか、考えてしまいます。セシウムの半減期がわかっているんだから、それを基準に都市のあり方をかえることがなぜできないのか。冷静理知的ではないですね。僕の友人でもあるドルトムント工科大の先生は、縮小計画を立てられるのはドイツのすぐれたところであると言っています。けれど、そう言う彼が住宅地を森にすることに対しては怒っているから面白い。都市をなくすことが都市計画だというのは、まあ、都市計画の観点からすれば抵抗があるんでしょうねえ。しかし僕は「ドイツはこういうことをやっていますよ」と伝えることで、妥当な将来計画としての都市のマスタープランを策定できるような状況に日本をしたいと考えています。だって成長できるわけないのに成長するような計画立ててもドツボにはまるだけでしょう。それよりは縮小しても都市で生活していく人のためにベストな環境を提供するとか、発想を転換したほうがいい。

阿部──ええ、そういう認識に変えていかなければならないでしょうし、いまの行政はまさにそうせざるをえない状況にあると思うんですよね。行政が「成長、成長」とスローガンを掲げていますが、であれば成長の概念を変えていかなければならない。こういう状況でこそどういうチャンスがあるのかを経済的に見出す起業家的精神も必要ですよね。

服部──先に太田さんから、世界中の都市が互いに良い事例を学んでいるというお話がありましたが、日本の勉強量は他国に比べてすごく多いと思うけれど、自分にとって都合のいい表面だけを学んでいるんじゃないかなという気がしますね。勉強しても実践が伴わない。僕は特に道路のことを思いますけど、韓国の清渓川(チョンゲチョン)のように高架道路を廃止したり、デュッセルドルフのように道路を地下化したり、マンハッタンやミュンヘン、コペンハーゲンのように市街地から車を排除するようなことは脱近代化の重要なテーマ、それこそが「メニュー」であるべきですよね。とりあえず改善の処方としてどの都市でも検討をしていますよね。ヘルシンキでもオタニエミとタピオラの中間地点にある住宅地を走る高速道路を地下化して上を公園化するという取り組みが行なわれています。スウェーデンのヨーテボリでも高速道路を撤去しました。

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清渓川(チョンゲチョン、撮影=Svdmolen)

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道路を地下化してウォーターフロントを開放したプロムナード(デュッセルドルフ、撮影=服部圭郎)

太田──日本ではいっこうに行政が動きません......。

服部──日本は日本橋の高速道路も撤去してしまえばいいんですよ。日本橋の地下なんかに車を走らせる必要はないんです。
東京外郭環状自動車道ができたら、せめて都心の山手線のなかは全部高速道路を撤去する。そうすえれば東京にあるまちは相当よくなると思いますよ。

太田──なぜかもともと撤去する選択肢はないんですよね。撤去で一番可能性が高いのは、汐留と京橋の間の2kmしかない東京高速道路。あれが撤去されると銀座のマリオン周辺がウォーターフロントになって、全国のモデルとして波及するのではないかな。

公共空間の多様性を楽しむ

服部──撤去後の建物が建っていない空間に価値を見出すということが、なかなか理解されないですね。世界には事例がたくさんあるのに、日本人は大局観的に都市をとらえることができないのでしょうか......。

太田──90年代には一時、歩行者空間の話題が大きく扱われたこともありましたが、不思議なことに行政は原宿の歩行者天国を廃止するとか、イラン人もマーケットを排除するとか、まったく逆行することをやる。僕は子どものときに原宿の歩行者天国でいろいろんなことを学んだ気がするんですよね。その後の都市は管理が厳格になる一方ですね。

服部──みんな実際は「アーバン」の感覚が嫌いなのかな。われわれは「アーバニティ」が好きな人たちだけで集まって「アーバニティっていうのはさあ」と議論をしているだけなのだろうか、とさえ考えてしまいます。

阿部──空間を管理しておいてほしいという人も多いのでしょうね。ショッピングモールの擬似的なパブリックスペースのほうが心地よいと思っている僕と同世代の人が多かったり、同時にパブリックスペースで凶悪事件が起きてしまう社会情勢もありますね。秋葉原で起こった、週末の歩行者天国での無差別殺人事件のようなことがあると、空間は管理しておいてほしいという声はどうしても強まる。

服部──海外でもありますよ。僕はバルセロナの地下鉄構内で2人のおじいさんがナイフで格闘していたのを見ましたよ(笑)。

阿部──凶悪犯罪は特殊な例としても、パブリックスペースは危険性も当然潜在的に含まれています。その状態を忌避するということは、空間に関する緊張感がない、緊張感を求めていないということでもあるのではないでしょうか。その指向性はアーバニティを楽しむこととは反しますよね。危険性も含めて多様な状態がそこにあることがパブリックスペースのひとつの特徴だとすれば、知らない人がいるので緊張する、でもおめかしして歩くという感覚こそがアーバニティでしょう。そういう多様性の楽しさを求めていないというのは、そもそもパブリックスペースを求めていないということで、緊張感を必要としない部屋の延長線で楽しめるショッピングモールを居心地良いと感じるのは、そういう心性からなのではないかと思っています。

服部──パブリックスペースでは多様性を楽しむことができる。まさにその通りです。

阿部──ヨーロッパの広場にあるオープンカフェでコーヒーを飲むと楽しいけれどなんだか緊張しませんか? すられるのではないかと思いながら、気にしていないそぶりをして、背景の一部になっているという。それを楽しみに向こうの人も夕方に出てくる。そういう感じは日本の都市から消えつつあるなと。かつての商店街などはどういった空間だったと思いますが。

服部──ブラジルはバブリックスペースとしての公園がほとんどなかった国でした。クリチバ市でレルネルさんはバリグイ川の氾濫対策として河川敷に150万平米もあるバリグイ公園をつくりました。さらに公園のなかで人が集まる拠点としてビアガーデンをつくったのです。でも、一般庶民はビアガーデンは見たこともないし、公園でビールを飲む習慣も知らないから利用しない。そこでレルネルさんが毎日職員や友達を誘ってそのビアガーデンで飲んで楽しそうな演出をしていたら、だんだん市民たちも訪れるようになった。いまバリグイ公園は人で溢れていますが、最初は使い方がわからなかったわけです。アメリカ人も多様性が重要だということを最初はわかっていなかったと思う。でも、ジェーン・ジェイコブスの指摘の仕方が上手だったのとインパクトが強かったのでプランナーたちの考え方が変わったということがあったと思います。

都市再生事例の流行

服部──ところで、建築家のお二人を前に申し訳ありませんが、建築家や建築教育においてここまでル・コルビュジエが賞賛されているのはなぜなのでしょうか。フランスのロンシャンの教会に行ったとき、名簿を見たら日本人だらけでしたよ。確かに建築は悪くはないけれど、よく考えたらフランスの片田舎。わざわざ日本から来るようなところとも思えません。このル・コルビュジエ教のすごさは......。

太田──実は、先日大学の2年生に製図の授業でル・コルビュジエを教えたばかりです。本当はバックミンスター・フラーを教えたいのですが(笑)。

服部──ル・コルビュジエがどうしてここまで日本人の琴線に触れたのか。われわれはいまだに近代建築的な呪縛から解放されていないんじゃないか。建築的な価値を正しく評価するなら問題ありませんが、その後のポスト近代的な、ポストCIAM的な流れから日本だけ取り残されているような。このあたりのことは都市を考える際にいつでもすごく興味深く思うんですよね。
ル・コルビュジエなどの特定なスター人物に偏って依存して、全体的な流れから目を逸らそうとしているようにさえ感じられる。クリエイティブシティやコンパクトシティなども、その背景にある流れや理念を見ないで新しいテーマや新しい流行語として飛びつく傾向がありますよね。先日も建築学会である先生が「もう『エコロジカル』は古い」などと言っていて、耳を疑いたくなりました。それではもはや事業予算をとるための知恵とかわらなくなってしまう。

阿部──政治学の人は、クリエイティブシティ論を内発発展論と読み換えることにしていますよね。そのうちのひとつは文化芸術の産業化ですが、「文化産業論」ではあまり飛びつきたくならないんでしょうね。

服部──クリエイティブシティはヨーロッパでもウケているんですよね。

太田──僕は年代の近い人には、クリエイティブシティ論を映画『フラッシュダンス』(1983)の話にたとえて伝えます。主人公のジェニファー・ビールスは昼は溶接工、夜はバーでダンサーとして働き、ダンスのオーディションに受かるまでを描いているのですが、この舞台はピッツバーグなんですね。つまり映画自体が、重工業都市としてのピッツバーグが文化都市になっていく様を描いている。印象的なのは主人公が倉庫をリノベーションして暮らしていたことですよね。そういう暮らしが格好が良い、という風潮が80年代のピッツバーグに芽生えていたわけですし、実際に現地に行くと、地元出身のアンディ・ウォーホールの美術館が倉庫のリノベーションで出来ていて、文化実験の場としてものすごく頑張っていたりする。最も実験的な人たちに、都市空間や既存ストックの読み替えを託し、それが大胆な形で実現するところこそが文化的な訴求力を持つ。『フラッシュダンス』に心をときめかせた人には、クリエイティブシティをそのように理解していただきたいですね(笑)。

服部──なんとなく国土交通省がクリエイティブシティに飛びついたらいやだなと思いますね。

阿部──バルセロナは創造都市の代表例のように理解されていますが、あれは自分からクリエイティブシティだと言っていたのではなく、リチャード・フロリダが「バルセロナはクリエイティブシティだ」と言ったからなんですよね。それが一人歩きをして、クリエイティブシティを目指すことが再びハコモノ行政を後押しすることになる。内発的にクリエイティブな方向に行く人は勝手にSOHOに住み始めるところを、このあたりは創造的な界隈になる計画です、というように政策化してしまうと、ある意味定義矛盾となり、都市のヴィジョンとしては真逆に進む可能性があるわけです。

服部──例えばいまの下北沢がクリエイティブシティかというとなかなか難しいところはあるけれど、劇場がたくさんあるし、北側は大手資本ではない若者たちが起業するような小さな店がある。東洋百貨店は1坪か2坪の場所を起業家に与えるチャンスをつくっていて、それこそクリエイティブシティ的な動きで面白いですよね。それに対して、こういうクリエイティブな動きを生み出す下北沢の環境を潰そうとしているのが22メートル道路を強引につくろうとしている東京都なのです。まちをつくる主体はそこで生活する人達であって、行政がクリエイティブシティをつくろうと思ってできるのかなというところにも大きな疑問がある。

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東洋百貨店(下北沢、撮影=服部圭郎)

太田──ニューキャッスルでは行政が都市の実験をやって、タブーを壊し、ルールを破っている。

服部──マンチェスターもそう。面白いですね。反抗的で海賊的なイギリス人気質が出ますね。いろいろな事例を通じて日本でも真似すればできるかもしれないけれど、いまの中央集権体制だと潰される可能性が高い。だからこそ地方のうまくいっている事例をみていく必要があると思います。
また、小都市のほうが実験的になれるということもありますね。下北沢がある世田谷区も人口80~90万クラスだし、勝手にやらせればいいじゃないかと。下北沢ではハイラインを真似する動きがありますね。そういえば、この間チューリッヒに行ったらハイラインもどきがありましたよ。これからしばらく流行りますね。

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ハイライン(ニューヨーク、撮影=服部圭郎)

阿部──淸溪川の次はハイラインでしょうか。でも、ハイラインはコロンブスの玉子的ですよね。うまくつくれば、市民にとって高い視点場が得られるのですから。

服部──ハイラインでは、建物の3階くらいの視点場からちょっと引き気味にクライスラービルやエンパイアステイトビルなどが見える。移動もできるし、イエローキャブを心配せず歩けるのは歩行者のパラダイス。あれは本当にこれまでなかった空間ですよね。

都市計画を現代に読み替える

──さきほどの日本橋の高速道路が撤去できない話と関係するのですが、行政の人は、既に決定されていることを再考することにすごく抵抗しますよね。例えば都市計画決定した広場があって、その形を変えたほうがよっぽどよくなるのに、いろいろな理由をあげて変更を否定するのです。変える手続きが面倒くさいという以上に、いまのあり方を決定した人に悪いという気持ちもあるのかなあと、そんなことすら考えてしまいます。日本橋の高速道路を撤去できない理由の半分は、東京オリンピックのときに鳴り物入りでつくったということが否定できない心情の問題も大きいのではないでしょうか。するとハイラインのように撤去するのではく公園に転用していくというのであれば、昔、高速道路を策定した人の意志を継承したとも言えるので、日本人の心理に受け入れられやすいのかなと思いました。

服部──でも夕張には人類史的にも面白い産業遺産があったのに、それすら壊して平気で遊園地にしてしまいました。よくここまで破壊してくれたなと。これなんかは、壊せないというよりも役所だけの論理だけが稼働している。
ピーター・ホールの『プランニング・ディザスター』は、いままでの都市計画の失敗を検証した本です。80年代の成功事例としてカリフォルニア大学システムは教育機関として成功した事例であると書いてある。低予算で学生の授業料も安く、有能な人材を多く輩出することができた成功事例であると。でもその10年後には、大赤字を出して大失敗するんですよね。教員も優秀な人はどんどんとやめていってしまう。ずっと成功し続けるシステムなどありません。ニーズや社会経済を背景にシステムを設計しても、10年、20年と経ったら状況が変わるから、時代ごとに不要になるものも多いと思うんですよね。
田中角栄が本州と四国を結ぶ本四架橋をつくったら四国の人口は600万人増えると言ったけれど、全然増えなかったじゃないですか。田中角栄でも時代を読み謝るということですよね。

阿部──既存のプランニングにうまく新しいプランニングを重ねていくようなアクションがあまりないですよね。下北沢も小田急線の地下化の話を空間づくりの議論につないでいくことができればいいですよね。
そこでバルセロナのセルダを思い出すのですが、19世紀半ば、旧市街に20~30mの幅員の都市計画道路を3本引くプランニングがなされたわけです。その後は何も動かないまま100年が経ってしまい、計画地域は朽ち果てていた。いざ民主化の後につくり直そうとしたときに、まさに下北沢的状況と同じで反対運動に遭い、圧倒的に空間が足りなくなりました。そこで都市を多孔質状にすることが考えられた。つまり直線道路を張り巡らせるのではなく、道路に広場的な特性を持たせていったのです。そうしてできた空間を、私は「広場」ではなく「広場的街路」と呼んでいるます。クリチバの元市長ジャイメ・レルネルさんの著書で、服部先生の訳された『都市の鍼治療──元クリチバ市長の都市再生術』(2005)のなかには、道の真ん中が遊歩道になっているランブラスをスラム地区のなかにつくった話がでてきます。こうして、かつての道路計画と現在の歩行者空間の確保という計画の重ね合わせが成立する。われわれはその両方の意図を後から読むことができる。単に変えられないというのではなくて、いかに最初の設計を読みながら変えていくかがプランナーに面白みとしてあって、そういう可能性があるべきだと思う。ただプランナーには建築的なリノベーションの概念があまりないんですよね。

太田──そうですね。この10年、建築ではリノベーションが増えましたが、都市レベルでも、論理の不整合を読み替えて新しい価値にするような傾向が生まれてほしいですね。

服部──新しい価値づくりのための合意形成をどう積み重ねていくか、それは非常に難しいことですよね。そもそも公共空間といっても、昔は公共空間だらけだったわけで、それを徐々に私有化してきた長い歴史がありますからね。私有化、すなわち専有化と快適さの追求をしてきたのであって、新しい公共性をどうイメージすればいいかというリソースが少ない。また、世代的な共有も困難ではあって、高齢者にとってはサステイナブル・コミュニティは昔の村社会とだぶって見えて抵抗感を持つ方もいると思います。脱プライヴェート、脱近代といったさまざまな問題をうまくバランスするような公共空間のイメージを提示することが求められるのでしょうね。

太田──それを形にして「なるほど」と言っていただくのが、建築家の一番重要な仕事なんだと思いますよね。

服部──デザインすることは建築家にとって一番大事な仕事だと思います。あるデザインがいいものであるということや、あるデザインを実現するための制度面の問題をどう解決すればいいのかといったことが、もうちょっと一般レベルにアピールできるといいですよね。

都市の魅力を伝える手段

太田──都市インフォメーションセンターの重要性をパートナーで東京理科大の伊藤香織とよく議論するのですが、なかなか日本ではできませんね。ドイツに行くとどのまちにもありますよね。どんな都市計画が考えられ、どんな建築がつくられているのかインフォメーションセンターに行くとわかります。

阿部──バルセロナも週末に行くと高齢のご夫婦がまちの模型を見ている。その光景にはまちと市民の距離の近さを感じました。新聞でもいい頁に図面と写真でまちがアピールされていたり。

服部──それは地方紙が発達しているからでもありますね。延岡新聞なんていうのがあると、状況はすこしでも変わるはずですよね。

太田──バルセロナに行って驚いたのは、子ども用にまちの歴史の教材をつくっているところ。ドイツにもありますよね。まちの教育が子どもの頃からされている。

阿部──セルダについての絵本もいくつかありましたね。カタルーニャの言語の勉強もかねていて、いくつかの学習を複合させているのが面白い。

服部──あとね、ドイツの人々は自分たちの町の建築やまちの歴史などをよく知っていますよ。日本は小学生くらいからまちの歴史は学習したりしますが、どの建物を誰が設計したかまでは教えませんよね。

太田──僕も地方の郷土博物館には行くのですが、縄文時代や文明開化のことはあんなに詳しくやっているのに、戦後になると一切ない。そこが一番まちが変わっているところなのに。

阿部──最近、「回遊性」という言葉が様々な都市で流行っていますよね。歩くこととまちの魅力を見つけることをわかりやすく繋げることが求められている。私は去年から鹿児島市と一緒にまちなかの回遊性向上のプランを考えていて、先週は社会実験として学生と一緒にアーバン・インフォメーション・センターをつくりました。太田さんがおっしゃるように、鹿児島も都市の戦後の資料館がない。幕末の英雄を多く排出した土地なので、幕末関係の資料館はとても充実しているのですが。ただ、まちの歴史全体を考えると、戦災復興のまちの作り方が面白いと感じました。その情報が足りないと思ったので、学生と一緒に資料を集めて都市の近代の歴史を展示しました。いらっしゃった方の反応は様々でしたが、やはり戦災復興の歴史はあまり知らなかったという声が多かったです。日本は近代のまちの歴史を知りたがらないというよりは、どうとらえたらいいのかわからないというか、あっという間に変わってしまったという感覚が当時を過ごされた方には特にあるのだと思います。空間としてどう変わってきたのかをあまり理解していないのが実情ですね。

太田──早稲田大学の佐藤滋先生が城下町都市の近代化のプロセスを研究されたのも、この20年ほどのことですよね。都市の近代について、自省的に考えることができるようになったのは最近のことなのかもしれません。

──一方でブラタモリみたいなものが流行っていますよね。そうした状況をみているとニーズは確実にあることを感じます。

阿部──タモリが紹介するようになって、近代以降の都市は市民権を得ましたね。それが単にまち歩きで止まるのはもったいない。散歩の雑誌はたくさんありますよね。もう一方でスノッブとして『Casa BRUTUS』などが流行っている。太田さんがよく言われていますが、まちを批評するメディアが日本にはないんですよね。

服部──批評はリテラシーを高めるためには重要ですよね。

阿部──日本の場合、都市開発に対して手続きや事業費に関する批判は起こるのですが、たとえばタワーをつくるときに、「なんで足下がこんなデザインなのか」とか「なんでタワーに上れないんだ」とか、市民生活に密着して想像力を働かせた批判をすることがないですよね。

服部──そういうリテラシーをつくるためにも、小学生から高校生くらいまでに建築に親しめるような持続的な機会がつくれるといいですよね。修学旅行にお寺を見に行くだけではなくて、近代建築も見せてみるとか。ル・コルビュジエの国立西洋美術館を見てどう思うか、いいのか悪いのかとか。それでいまひとつだと言ったら、「お前はわかっていないなあ」とかではなくて、どうしてそう思うのかなといった対話ができる環境ができるといいんじゃないかなと思いますね。

◉ 服部圭郎 はっとり・けいろう/都市計画、明治学院大学教授
◉ 太田浩史 おおた・ひろし/建築家
◉ 乾久美子 いぬい・くみこ/建築家
◉ 阿部大輔 あべ・だいすけ/都市計画、龍谷大学准教授


※「新しい『まちデザイン』を考える」は隔月で連載を行ないます。


201112

連載 Think about New "Urban Design"

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