フランシス・アリスのリズム──空間の占有・更新・中断

大山エンリコイサム(美術家)

10月15日の夜、カナダ・トロント経由でニューアーク・リバティー国際空港に降り立ち、22時過ぎにマンハッタンに到着した。翌2012年の4月まで、ブルックリンはウィリアムズバーグにあるアーティスト・イン・レジデンスのプログラムに参加するためである。個人的には、2009年9月と今年の7月に訪れて以来、3回目のニューヨークになる。冬季の、しかも長期の滞在は初めてなので、良くも悪くもこの地で生活することのさまざまな現実に、これから直面していくのだろうと、ひとり思いを馳せてしまう。東京で生まれ育った僕の感覚からしても、ニューヨークは他に例を見ないほどスピーディーでタフな土地だと言わねばならないだろう。経済的・文化的、そしてエスニシティの面においても超過密であるこの都市空間は、まだほんの数日しか滞在していないにもかかわらず、その怪物性の片鱗に気づかせてくれる。

1|グリッドと欲望──マンハッタンとファイブポインツの相似性

そのようなニューヨークの怪物性が圧縮されているのがマンハッタンであり、そのマンハッタンを下部構造のレベルで規定しているのがマンハッタン・グリッドであることはよく知られている。直感的な物言いになるが、島国日本の閉ざされた環境下で、しばしばガラパゴス的と形容される特異で奇形的な文化が生みだされたように、ひとつの島=都市であるマンハッタンは、地理的に限定されたその空間にあらゆる類の欲望が投下され、詰めこまれることで、祝祭的とすら言える現実離れした怪物性を手にしている(レム・コールハースが指摘するように、マンハッタニズムの原初的形態は、19世紀末のコニーアイランドで花開いたテーマパークのシュルレアルな光景に求められるだろう)★1。その怪物性を、過密性と言い換えてもよい。そして、マンハッタンの超過密な都市空間は──共産圏の一部に見受けられる殺伐とした計画都市のように──無機質に秩序だっているわけでも、また無秩序であるわけでもなく、あるいは生態系のメタファーで語られるような自然発生的秩序からも遠いところにあるだろう。むしろそこで前景化しているのは、あらかじめ人工的に整えられた構造=秩序(マンハッタン・グリッド)と、そこに収まることなく肥大し、暴れつづける資本主義的欲望の、緊張を孕んだ「共犯関係」ではないだろうか。グリッドは、ドライブする欲望の加速器であるとともに、実際の都市空間におけるその制御装置でもある。

グラフィティがあるダウンタウン・マンハッタンの街並み。建築の構造に沿いながら、グラフィティが施されている
撮影=大山エンリコイサム(2011)

そのように考えていくと、クイーンズ地区のロング・アイランド・シティにあるファイブポインツ・エアロゾル・アートセンターの外観は、マンハッタニズムの縮図のようにも思える。世界中からグラフィティ・ライターが集まるこのストリートアートのメッカでは、柱や窓といった建物の構造=秩序に寄り添いながら、壁面全体にグリッド状に配置されたグラフィティが犇めきあうようにかかれており、また定期的にかき換えられ、更新されている。グラフィティは、社会的権力やシステムに対するストリートからのレジスタンスとして、文化左翼的な視座から語られることも多く、特に80年代に器物損壊の軽犯罪法に抵触する社会問題として取り締まりの対象になり始めてからは、たしかにそのような側面を差し引いてとらえることは片落ちと言わざるをえない。しかし同時に、その出発点においてグラフィティは、自らの名前をストリートのあらゆる場所にかき残し人目に触れさせるという、私的な顕示欲のささやかな表明でもあった。ここで詳述することは避けるが、ポストモダン文化としてのグラフィティとは、個人のうちに断片的に内面化された資本主義的欲望の、ひとつの特殊な現われでもあるだろう。そこで、ファイブポインツの建築平面が提供するグリッドと、そこに整然と並ぶ無数のグラフィティ(個人のうちに断片化された資本主義的欲望)の関係を、マンハッタン・グリッドとそこに配置された個々の建築物(都市空間のうちに造形化された資本主義的欲望)の「共犯関係」へと重ねて考えてみることも、おそらく的外れではない。

クイーンズにあるファイブポインツ・エアロゾル・アートセンターの外観
撮影=大山エンリコイサム(2011)

2|地図線としてのグリッド/ネットワークとしてのカメラ

マンハッタンのこのようなグリッド性は、街路を移動するときの感覚にも大きく働きかける。ニューヨークに発つ直前の10月上旬、2回ほど仕事で京都へ赴く機会があったが、そこでもいわゆるグリッドの街路構成がなされている。だが、あらためて実感したのは、例えば四条、五条という地名や「碁盤の目」という呼び名からも察せられるように、京都の街路は番列化されてはいるものの、ある種の風土性がその上をやんわりと覆っているということだ。一方で、マンハッタン・グリッドが特異なのは、より直接的に番列によって位置が与えられることにあるだろう。目的地を示すのに「17th Streetの5Avenueと6Avenueのあいだ」というような表現は珍しくないし、地下鉄駅名の多くにも番地がそのままあてがわれている。そのことによって、移動者はつねに、自分がいまマンハッタンというフィールド全体のどこにいるのかという俯瞰的な位置情報への意識を抱かざるをえないし、また、定量化された距離のなかを移動しているという感覚に捕われてしまう。かつてロラン・バルトが、整理された街並みをもつ米国の諸都市や京都と比較しつつ、東京における街路の複雑さを評し、日本人はそのような整合性の欠如を、紙に即席の地図をかくことで補うと述べたことが思い出される★2。だが、マンハッタンでその必要はないだろう。街路そのもののなかに、地図線はすでに織りこまれているのだから。

マンハッタン・グリッドの地図
引用出典=http://wiki.fadeu.org/Imagen:New_York_1755.jpg

さて、マンハッタン・グリッドが都市構造に対する近代的アプローチのひとつの極地だとすれば、情報技術時代のそれにあたるものとして、ロンドンの監視カメラが挙げられるかもしれない。周知のとおり、ロンドンは世界でもっとも監視カメラが多い都市であり、市民は一日に平均して300回も監視カメラに映りこむと言われている。ニューヨーカーが定量化された位置や距離の感覚に捕われているとすれば、ロンドナーは、気づかぬところでネットワーク化された位置情報の網目に捕縛されていると考えてよい。したがって、英国出身のストリートアーティストであるバンクシーが監視カメラをモチーフに行なっているいくつかのゲリラ的実践を、マンハッタン・グリッドとファイブポインツの相似関係に比較してみると面白いかもしれない。ロンドンのカメラ・ネットワークとバンクシーの関係は、マンハッタン・グリッドとファイブポインツの関係とはある点で大きく異なっている。ファイブポインツは、有象無象のグラフィティ・ライターたちの手による産物であって、言わばグラフィティという匿名的なサブカルチャーの集合的無意識として見ることができる。グラフィティ文化が最初にニューヨークで発展したことを顧みれば、それがマンハッタンの下部構造を支えるグリッドに準えられるのは、なかば必然的なことと考えてもよいかもしれない。他方で、バンクシーはグラフィティ文化を経由しながらも固有名を保持するストリートアーティストであり、その試みはカメラ・ネットワークという情報システムを準えるものというよりは、むしろ、そこに意図的に軋轢を引き起こそうとするものであろう。その戦略は多岐にわたるが、他所で詳しく論じてあるのでここでは繰り返さない★3

Banksy《WHAT ARE YOU LOOKING AT?》, Marble Arch (London)
© seanbjack, URL=http://www.flickr.com/photos/sean-b/288646167/in/photostream/

3|フランシス・アリス《Seven Walks》について

ここで、監視カメラを主題に制作されたフランシス・アリスの一連の作品についても触れておきたい。ベルギー出身のフランシス・アリスは最初、ヴェニスで建築を学んだが、後に現代美術に転向し、現在はメキシコを拠点にしつつ国際的に作品を発表している。アリスの代表作のひとつである《Seven Walks》は、アートエンジェルというプロジェクトの企画として2004-05年にロンドンで制作され、それぞれ《Guards》(2004-05)、《The Nightwatch》(2004)、《Railings》(2004)と呼ばれる三つの映像作品を編集してひとまとめにしたものである。
まず《The Nightwatch》は、真夜中に無人のナショナル・ポートレイト・ギャラリー(ロンドン)へと一匹の狐が放たれ、館内を歩きまわるその姿を監視カメラで撮影したものであり、漠然と屋外の都市空間に結びつけて考えられがちな監視カメラという装置が、美術館などの屋内公共施設にも同じように張り巡らされていることを僕たちに知らせてくれる。この問題意識は、例えばバンクシーが監視員の目を盗んでニューヨーク近代美術館(MoMA)や大英博物館(ロンドン)に自分の作品をゲリラ設置したという事例とも、無関係ではないはずだ。美術館における監視の問題への介入は、広い意味で、美術という制度そのものへの異議申し立てとしても機能している。
とはいえ、《Guards》や《Railings》に目を転じれば、アリスの関心は単に監視カメラの存在のみに向けられているわけではないことがわかる。もともとフランシス・アリスは「歩く」ということを主題に制作を行なってきた作家であり、《Seven Walks》の一連の作品にもそれは濃厚に看取することができるだろう。《Guards》では、英国の近衛兵軍楽隊64名が異なる地点からバラバラに歩行を開始し、ロンドンの市街をランダムに動きまわる。各近衛兵は他の近衛兵に遭遇すると隊列を組み直して合流し、さらに歩を進めるなかで徐々に人数が増えていき、最終的に64名全員で8×8の隊列ができるまでランダム・ウォークが継続されるという映像作品である。機械のように無表情な近衛兵たちが、ある仕方でネットワーク性を感じさせる方法論に基づきながらひたすら歩きまわるその姿は、体制による監視の視線が都市空間を満たしているとも解釈できるという意味で、監視カメラのネットワークを揶揄しているように見えなくもない。だが、そのような意味解釈とは別のところで、《Guards》の映像がより直接的に鑑賞者の意識に刻むのは、近衛兵たちの、不気味とも滑稽ともとれるような、その「歩く」という身振りそのものだろう。そこではしかし、映像のなかで起こっている現象に強いルール性があるため、鑑賞者はそのルールを把握し、意味づけを行ないたくなる誘惑に駆られてしまう。そのことによって、同作に秘められているかもしれない「歩く」という行為についてのより根本的な問いかけが、中和されてしまっているようにも感じる。

フランシス・アリスを紹介するメキシコのテレビ番組。当作家へのインタビューや《Seven Walks》の一部を見ることができる。
引用出典=http://www.youtube.com/watch?v=pzmHzmS64co&feature=player_embedded

4|空間の占有、リズミカルな更新、そしてその中断をめぐって

ここで、僕たちは《Railings》に注目しておきたい。"Fitzroy Square"と"Samples II"の二部構成による《Railings》は、アリスが短い棒のようなものを片手に鉄柵やガードレールなど街中の公共物を叩いて、音を鳴らしながら淡々とロンドン市街を歩きまわるだけという極めてシンプルな映像作品である。だが、このシンプルさにおいて、アリスはある重要な問題提起をしている。すなわち、この作品において「歩く」という行為は「音を鳴らす」という行為と完全に重なりあう等価なものとみなされるわけだが、そのことは「歩く」という行為に内在的なひとつの作用を浮き彫りにしているように思う。注視すべきは、アリスが歩きながら鳴らす即興的な音が、ある種のリズムのようなものを形成しかける瞬間だ。ドゥルーズ+ガタリによれば、暗い森のような混沌のなかにいる存在者にとって、歌を口ずさみ、リフレインを生みだすという行為は、自らのテリトリーを画定し、ノモス(秩序)を立ちあげる効果を持つ★4。《Railings》が体現しているのは、「歩く」という行為もまた、ある場所から別の場所へと移動することや、その過程で周囲の環境をどう知覚するかという認知科学的な事柄(アフォーダンス)であるよりはるか以前に、なによりもまず、それ自体がひとつのリズミカルな空間の占有であり、また空間の占有をリズミカルに更新しつづけることであるということにほかならない。それは「場所」や「速度」や「距離」などといった副次的な要素の手前で、「歩く」という行為そのものが孕まざるをえない決定的な様態であると言ってもよい。
だが、《Railings》がロンドンという都市空間を舞台にしていることを見過ごすべきではないだろう。なぜなら、都市は暗く孤独な森とは異なり、不特定多数の他者に溢れた場であるからだ。そこで「歩く」、つまり空間を占有するという行為は、つねに他者の存在/テリトリーとの拮抗関係のなかに置かれてしまう(僕たちの日常生活を思い起こしてみても、このことは、例えば繁華街で人ごみのなかを歩くという経験に結びつけて考えることができる)。なるほど、《Railings》においてアリスは、基本的に人通りの少ない街路で周囲を気にすることなく気ままに歩いているようにも見える。だが、同作でもっとも印象に残るのは、唯一、他者との遭遇が生起する次のシーンではないだろうか。"Fitzroy Square"の終盤で、鉄柵を叩きながら前進するアリスの前に、よぼよぼと歩く老人が現われる。そのままアリスが進みつづければ、老人と衝突してしまいかねない。老人のほうも、脇にそれて難なく相手をかわすほど機敏ではなさそうだ。このままぶつかるのではないか、という不安が鑑賞者の頭をよぎる。だが、常識的な人物だと言ってよいアリスは、老人が目前にまで迫ったところで、すっと鉄柵から離れ、またすぐに元のコースへと戻る。この選択は、アーティストにとって問題でないばかりか、むしろ肯定的な意味すらもつだろう。というのも、アリスの企てにとって、音を鳴らすこと自体よりも、老人に道をゆずるとき、音を鳴らすという行為を中断せざるをえないという事実のほうがより示唆に富んでいるはずだからだ。《Railings》において、音を鳴らさないということは、空間の占有(および、その更新)を他者へと一時的に明け渡すということと同義なのだと考えられるだろう。そこで僕は、フランシス・アリスに倣って都市空間を次のように描写してみたいと思う──「互いに空間を占有し、それをリズミカルに更新しつづける不特定多数の他者同士が同時に居合わせることによって、更新の中断が無数に引き起こされる場」。

音を鳴らしながら歩くアリスの前方に、老人が現われる。フランシス・アリス《Railings》2004
引用出典=http://www.youtube.com/watch?v=tC4-op71sa4&feature=player_embedded#!

5|「Occupy Everything!」が教えてくれること

ここまで筆を進めて原稿を閉じかけた10月21日、ニューヨーク生活の最初の1週間が過ぎようとしていたその日に、僕はたまたま、ロウワー・マンハッタンにあるウォール・ストリートで「Occupying Wall Street(ウォール・ストリートを占拠せよ)」のデモに遭遇した。最後に、簡単にその体験について述べておきたい。このデモについては、日本でも報道がされているので詳しい説明の必要はないだろう。そこでは、いわゆるアート作品とはまた異なるかたちで、都市空間を占有するという実践の、ある意味でもっとも古典的ではあるが、同時にいまだ訴求力のある姿を垣間見ることができた。音楽のライブ、手刷りのTシャツ販売、さまざまなメッセージを掲げたプラカードなど、街頭デモに付き物のあらゆる要素が揃っていたが、個人的に特に目を引いたのはあるプラカードにかかれた次のメッセージである。

Occupy Wall Street! Occupy Verizon! Occupy Everything!
ウォール・ストリートを占拠せよ! ヴェライゾン を占拠せよ! すべてを占拠せよ!

おそらく現実的にはなんら政治的効力をもたないと思われるこれらの言葉はしかし、たしかに道行く人々の足を止めて、しばらくそれを眺めさせるだけの吸引力があったように思う。「すべてを占拠せよ!」──このメッセージはまったく具体性を欠いている。しかしだからこそ、都市において、ある空間をただ占有するということがいかに力強いことであるかを、またそのメッセージの抽象性において、よぼよぼと歩く老人であれ大型のデモ隊であれ、都市空間という器のなかにひとたび僕たちが身を置くならば、そこで起こっている根源的な事態とは、各人が拮抗しつつも、多かれ少なかれ固有に空間を占有しているという事実にほかならないことを、図らずも伝えてくれるように思う。そしてそれは、マンハッタンのグリッドと摩天楼が教えてくれることとはまた別のリアリティに根差しているのである。

「Occupy Wall Street」街頭デモの様子
© BlaisOne, URL=http://www.flickr.com/photos/studiofour/6254528993/

★1──レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』(鈴木圭介 訳、ちくま学芸文庫、1999)。
★2──ロラン・バルト『表徴の帝国』(宗左近 訳、ちくま学芸文庫、1996)。
★3──大山エンリコイサム「バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野にむかって」(『ユリイカ』2011年8月号、青土社)。
★4──ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー──資本主義と分裂症』(宇野邦一+田中敏彦+小沢秋広 訳、河出書房新社、1994)。


おおやま・えんりこいさむ
1983年、東京生まれ。美術家。「Quick Turn Structure(急旋回構造)」という独特のモチーフを軸に、ペインティングやインスタレーション、壁画などの作品を制作、発表している。おもな展示に「あいちトリエンナーレ2010」(名古屋市長者町、2010)、「Padiglione Italia nel mondo : Biennale di Venezia 2011」(イタリア文化会館東京, 2011)など。共著=『アーキテクチャとクラウド──情報による空間の変容』(millegraph、2010)。論文=「バンクシーズ・リテラシー──監視の視線から見晴らしのよい視野にむかって」(『ユリイカ』2011年8月号、青土社)ほか。


201111

特集 方法としての〈まち歩き〉


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フランシス・アリスのリズム──空間の占有・更新・中断
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