〈郊外の変化を捉える 最終回〉
対談:郊外の歴史と未来像[3]
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三浦展(消費社会研究家、評論家)×藤村龍至(建築家)
三浦展氏、藤村龍至氏

都市と都会の違い、高円寺らしさとは

三浦展──今年、これまで十年以上気になってきた高円寺について調べて『高円寺 東京新女子街』(洋泉社、2010)としてまとめたんです。


三浦展+SML『高円寺 東京新女子街』

私は、都市や街の個性はいったいどうして生まれるのかをずっと考えてきたのですが、結局、都市のエレメントを抽出し微分的に分析することで私なりに答えを出せたと思います。
つまり、人なら目が大きいとか、鼻が鷲鼻だとか、肌が白いとか、背が高いとか、声がでかいとか、いろいろな要素があって、その人の個性が生まれる。同じように、街という単位で見た場合には、道の広さ、ビルの高さ、大きさ、古さ、店の大きさ、業種などなど、構成要素の差でずいぶん違う姿を見せる。各エレメントの多様性と量との無限の順列組み合わせがあるわけです。阿佐ヶ谷と高円寺はぱっと見は似ているけど何かが違う。それは街のエレメントの量と質の違いからくる。
しかしいま、例えば、品川、大崎、五反田などで駅前の大規模な再開発が行なわれたり、豊洲、武蔵小杉などで高層マンションが建っていますが、どの街も空気感が同じになっていく。なぜならこういった再開発では、エレメントの量が減り、多様性も減るからでしょう。これをイオン化と呼んでもいい。一つひとつ違っていいはずのショッピングセンターが全部同じ姿をしている。マンションもみんな同じです。品川と五反田の雰囲気はかつてあんなに違ったのに、どんどん似てくる。整形美人、平均的日本美人像みたいにエレメントがぜんぶ同じになってしまっている。対して、高円寺はブスかわいいって感じです。みんながみんな美人だったら、ブスのほうがかわいいよということが起きています(笑)。

藤村龍至──時間をかけて街のエレメントを拾い出すことは、景観研究の分野ではこれまでも行なわれてはいるんです。なぜそれが設計の現場に採用されないかというと、やはり時間の問題が大きい。

三浦──お金じゃなくて時間ですか?

藤村──そうですね。聞いた話では、ショッピングモールは設計期間が極端に短く、1、2か月ほどで設計をしなければならないというケースもあるそうです。しかも設計料は全体で100万というように、設計施工を前提としたような仕組みになってるらしいんですね。

三浦──パルコは社内に設計部があったので時間をかけてつくっていましたね[パルコ、セゾン的なるものと現在のショッピングモールの違い参照]。

藤村──ショッピングモール全体が画一的になってしまうのは、発注者側の体制を含めた広義の意味での設計の問題だと考えています。




日本とアメリカのショッピング・モール。外観




日本とアメリカのショッピング・モール。内観
撮影=三浦展


三浦──でも、基本はチェーン・オペレーションですからショッピングモールはどんなに時間があっても同じものをつくりますよ。そんなところにコストはかけないでしょう。
スーパーの場合、まずお店に入ったら、野菜が並んでいて次に魚、肉、冷凍食品、乳製品、総菜、雑貨とあって、それぞれをぐるりと一周するとレジに着くようになっていますね。店舗によって大きく変えることはよほどのことがない限りしないでしょう。
ショッピングセンターではいわばスーパの食材をテナントに置き換えているだけです。つまり野菜がスターバックスに変わり、肉がユニクロに変わっただけです。まったく同じつくりで売り上げが立つのであればこれに勝るものはない。だからいくら時間があっても店舗ごとに配置を変えてみようとはいちいち考えないですよ。そうじゃなくて、どの店も同じ配置にして、最大の売り上げにならないかを追究するはずです。
じつはチェーン・オペレーションと正反対のことをやったのが有楽町西武だったと思う。当時FENだけを聴くために特化したラジオがあったけど、有楽町西武はそれを洋服売り場に持ちこんだんです。たたんであるシャツを手に取るとシャツの下からラジオが現われる。たしかに森できのこを発見するような喜びはあったんですが、やはり売り上げは思わしくなかったのか、しばらくするとそういう売り方はなくなりましたが。

藤村──コールハースの《プラダ》のようですね。こちらもおそらく商業的な成功は見こめないのではないかと思うので、プラダの強い意思がなければ実現しなかったでしょうね。

三浦──有楽町西武は、モノからコトへ、コトを売る50貨店だというコンセプトだった。当時としては進みすぎていた。

藤村──有楽町西武は隣の日劇を買収できずに阪急が入ってしまい7000平米しか確保できなかった結果、そういう戦略を採ったと聞きました。
美術館が文化的な発信源として組み込まれている施設として、80年代の池袋西武と現在の六本木ヒルズは比較可能だと思うのですが、三浦さんは両者の違いをどのように捉えていらっしゃいますか?

三浦──「都市」と「都会」は違うと思うんです。ここ2、30年使われてきた都市と都会という言葉を私なりに定義すると、都会というのはものを消費するおしゃれな場所で、都市というのは人が交わる場所だと思うんです。
例えば、高円寺はぜんぜん都会的ではないけれども、都市である。いろいろな人が高円寺の街で友だちになって同棲していくように、出会いが多いだけでなく深い人間関係も生まれる。どんな他人が入ってきてもまったく拒まない。高円寺は、都市である。でも都会ではない。
イオンというのはショッピング・モールをつくることで地方に都会をもたらしているけれども、そこは都市ではない。ですからショッピング・モールによって都市空間ができていると捉えるのは間違いです。都会的な空間ができているとみるべきですね。
森ビルが手がけるものも、「都心」のイオンだと思っています。都心に都会をつくった。ものが並んでいて消費してくださいという陳列空間ではあるけれど、人と人とが交わってくださいという都市空間ではない。オフィスビルに入るときにはIDカードがないと入れないわけですから、都市ではないですよ。回転扉に子どもが挟まれてしまうような空間は都市の専門家はつくらない。ですからやはり彼らがつくっているのは都会的な空間であって都市ではないと思うんです。微妙なニュアンスの差なんですけれども。
やっぱり知らない人が訪れても自由に楽しくすごせて、それまで知らなかった人と出会える、話せる、あるいはぼーっと休めるのが都市であって、おしゃれに陳列されたものを買って帰ってくれというのは都市ではない。(ビクター・)グルーエンも書いています。「都市とは無数のカフェであり、一杯のコーヒーと一枚の新聞で何時間かはつぶすことができる」「ハイウエイは都市ではない。それは人々を集める代わりに人々を引き裂いてしまう」「都市は本や詩の中に、また音楽や歌の中に表現されている畏敬や苦悩、それに誇りと愛情の感情を鼓舞する。ある人間にとって都市は時には寂しさであり、ある時には陽気な雑踏である」(『都市の生と死』神谷隆夫訳、商業界、1970[原著=1964])。

藤村──たしか『セゾンの歴史──変革のダイナミズム』(由井常彦編、リブロポート、1991)だったと思うのですが、池袋の西武が第1期から増築していくようすが載っていました。現在は単一の6万平米の建物ですが、増築を繰り返している。すなわち履歴を見ていくと、戦後の闇市から始まる時間が内包されているのだとも言える。高円寺も同じように闇市からスタートしている。
そういう意味では地方都市のショッピングモールにも六本木ヒルズにも時間の蓄積がないんですね。だから三浦さんのおっしゃる都市と都会の違いは理解できます。
『高円寺 東京新女子街』を読ませていただきました。高円寺の成り立ちについても書かれていましたが、もともと高円寺というお寺はあったけれども宿場町ではなく郊外であったと。一番興味深いと思ったのは、かつて「郊外」だった場所が、現在最も「都市的な場所」になっている点です。

三浦──なるほど。

藤村──なぜ高円寺はそういうことが可能だったのか。郊外が都市的に変化する要因としてどういったことが考えられるのでしょうか。

三浦──そうですね。まずは中央線沿線の隣接する地域との比較で考えてみたいと思います。
高円寺と阿佐ヶ谷、荻窪とで地形的に明快な差はないんです。当然、より東にある高円寺が一番低いはずですが、それほどの高低差はない。ですが高円寺は軍隊でいうと少尉、中尉、大尉といった尉官の人々が住む街で、阿佐ヶ谷は佐官、荻窪は将官の街というゆるやかなランキングがあったようですね。高円寺の青梅街道の南にある妙法寺は、永井荷風も訪れるような江戸時代から続く願かけで有名な場所だった。そういう意味では庶民的な地域像が古くからあったのではないかと思います。
庶民的な地域像が生まれた理由には、おそらく高円寺が徳川家の御領地だったために、耕作、狩猟採集が許されなかった。地主から見れば耕作放棄地みたいなもので、価値がない。事実、高円寺村、馬橋村の辺りで大地主というのは寡聞にして私は知らない。大地主のいたのは内田家、宇田川家などのいた荻窪から西荻窪にかけてなんです。荻窪方面にはいまも大きな地主の屋敷があります。それが大正末から東京の人口が急激に人口が増える。そこでもともと価値のない土地に安い家をつくって貸家にしたのではないか。

藤村──そうすると高円寺は阿佐ヶ谷や荻窪に比べると同じ郊外であっても、所得が高くなくても住むことができた。そのことがいまの高円寺にある多様性を導くきっかけになったということでしょうか。

三浦──おそらく、高円寺と阿佐ヶ谷、荻窪を比べると関東大震災で移住してきた際の移住元が違うだろうと思います。阿佐ヶ谷、荻窪は、文京区や港区などの山の手の人たちが引っ越したんだと思うんです。一方高円寺は浅草をはじめとした下町から移住してきているのではないかと推測します。例えば、大久保通りを大久保から高円寺に向かって歩くと道沿いに並ぶのは、板金、左官、畳、材木など、建築工事に関わる自営業の方々の家です。
しかしだからこそ、自分の家くらい自分でつくるし、壊れても向こう三軒両隣で直しちゃう風土がある。だからセルフビルド的な都市になっていく。高円寺は郵便受けも自前でつくった家が多い。家も古い旅館のように建て増しや改築を重ねている。
1軒、中を見せていただいたんです。森ガールの聖地といわれているカフェなんですが、隣は雑貨屋やギャラリーになっていて、外観はそれぞれが独立して3軒並んでいるように見えるのですが、中は連なってひとつの家なんです。階段の途中が物干し場になっていたりする(笑)。自分たちでいろいろと手を加えてきていまの姿になっているんです。


ハンドメイド感のあふれるカフェ「ハティフナット」



古い建物がリノベーションされて独特の雰囲気をもつ
撮影=三浦展


藤村──『高円寺 東京新女子街』で、高円寺の特徴的なビルディング・タイプとして三浦さんが挙げられているものに、通りに面した外階段から直接中に入ることができるというものがありますね。


高円寺で目にする外階段の例
撮影=三浦展


藤村──私が高円寺で《Building K》を設計したときに、じつは通りから直接建物に上がっていくような構成も考えていたんです。高円寺の街のイメージから基壇の上に階段で上がっていくのがいいとそのときは思ったんですね。不動産管理や建築主の方々と話し合いを進めていくプロセスでやはりエントランスがありオートロックを備えたビルにすべきだろうという結論になったのですが。
外階段が高円寺らしさをもたらしているという三浦さんのご指摘は新鮮でした。

三浦──友だちが歩いているのを部屋から見かけると、すぐに部屋からすっと階段を降りて街に出てきて声をかけて立ち話ができる。逆に街を歩いている友だちは、階段を上って気軽に部屋に入ってこれる。

藤村──そうですね。そういうことを意識して《Building K》の2階部分に住民の誰もが出てこられるスペースを考えていたこともありました。2、3メートル下に商店街があるという距離感をつくりたかった。諸事情により実現しなかったのですが、いつか実現したいと思います。


藤村龍至建築設計事務所《Building K》
撮影=鳥村鋼一 提供=藤村龍至建築設計事務所

ショッピングモールの都市化の可能性

三浦──スペインに行った時、夕方街を散歩していて、知り合いに会うと必ず30分くらいは立ち話をする街というのがありました。それが習慣らしい。でもショッピングモールで立ち話をしてる人はいないよね。まあ知り合いとスタバでばったり会うようなことはあるかもしれないけど、あまりショッピングモールではそういう場面を見ない。だとすると、ショッピングモールというのは、都会にいる私を自己愛する空間なのではないか。いなかの人にとってはそういう場所を待望していたということはわかる。でもやはりそこはプライヴェーティズムといえばいいのか、「私」の空間でしかないのではないかという気がする。
ショッピングモールが公共空間になりうるかという難しい議論は、ほかの方にお任せするとして──もちろん公共空間にするためになにをすべきかは考えるべきだけど──、ふつうであれば公共空間にはなりにくい施設ですよ。マイホームのマイガレージからマイカーに乗って駐車場に車を駐める。家を出てからショッピングモールまでずっとエアコンの効いた空間です。言い換えるとずっと自分の空間を携帯したままで許されるのがショッピングモールである。
商店街を歩いても、あたりまえだけどエアコンは効いてないし、風は吹く。ここは公共空間だから自分の空間を持ち歩くなという暗黙の規制がある。一方ショッピングモールはどうぞ、イヤホンを付けたままきてください。部屋からずっと同じ温度ですから、自分の空間の快適さが維持できますよ、通路も平らで歩きやすいですよと。私空間を携帯したまま移動したいというウォークマンに端を発する欲望の流れのなかにあるといえる。だからだれもそこで出会いたいとは思っていないのではないか。まあ、観念的な話はあまりしたくないですが。

藤村──リビングルームの延長でジャージとサンダルで来てしまう感覚を、新潟大学で計画学を研究していらっしゃる岩佐明彦さんは「インドア郊外」と名づけていらっしゃいます。そういう場所には、増田(通二)さんがおっしゃていたような尼寺のようなたたずまいではないですし、チェーホフの小説を想像させるようなアイディアは盛り込まれていない[パルコ、セゾン的なるものと現在のショッピングモールの違い参照]。むしろサンダルで来ることを奨励しているような感じがあるんでしょうかね。

三浦──私もサンダルで西荻窪を歩いているわけですが(笑)。でも、サンダル履きでお寺や神社に行っても、気持ちや意識は変わりますよね。逆にショッピングモールでは、きちっとした服装をしていても、それはおしゃれな自分のために歩いている感覚だと思う。おしゃれな自分のために歩くというと、80年代の渋谷の公園通りはまさにそういう場所だったわけですが。違うとすると、公園通りは現実の空間だということですよ。雨も降れば風も吹いて、しかも坂道であるわけで、ヴァーチュアルな空間ではなく現実なわけです。モールの中でたしかに子どもや老人は歩きやすいと思います。ただ、そうした何も考えずに歩ける空間というのは他者を意識しないですむのではないですかね。宮台真司が言うように、そこでは仲間以外はみな風景になると思うんですね。

藤村──研究室でアメリカの商業空間についてリサーチをしていると、新しい動きとして「ライフスタイル・センター」のようなものが出てきているということでした。従来の消費の場としてのショッピングモールだけではなく、コミュニティやパブリックな場を内包したようなものです。アメリカでは、ショッピングモールの形骸化が著しく進んだ後に、新しいショッピングモールのかたちとして出てきた。生活をする場を人々が求めているのでショッピングモールも変化してきている。日本におけるショッピングモールも成熟化していけば、そういう可能性もあるのではないかと思います。

三浦──そうですね。

藤村──いまはふつう車に乗ってショッピングモールに訪れるわけですが、もう少しマクロな視点で見て、例えばショッピングモールに人が住んでいたらコミュニケーションが発生すると思うんですね。いまはショッピングモールとタワーマンションがばらばらなので車に乗って知らない人同士が集まっている状況ですけれども、ショッピングモールとタワーマンションを複合化し都市化するならば、コミュニティの場もその空間に発生する可能性があるのではないかという気がしています。

三浦──ショッピング以外の機能を付加していくわけだよね。

藤村──都内であれば近いものは現状でもあるかもしれませんが、本格的に実現するにあたっては密度の問題を考えなければならないと思っているんです。例えば「近隣住区理論」のように、1キロ四方に6000人が住んで小学校ひとつを置くというのが従来の都市計画のモデルだった。それではふつう小学校はひとつしか選択できないわけですね。もし選ぼうとするならば越境入学をするしかない。ですが、キロ平米10万人住んでいると小学校は10校つくることができるわけですね。当然この密度であれば商店も複数必要になる。高密度にすると小学校にしても商店にしても選択することが可能になる。都会と都市の差を埋めるために1キロ平米に何人住んでいるのかを考えることが戦略として重要になるのではないかと思います。そのような、ショッピングモールが受け入れられている現状を都市計画に応用するような可能性に関してはいかがでしょう。

三浦──われわれの対談をイオンの方が読んで、やってみようじゃないかと実現してくれれば成熟していくと思いますね(笑)。
いまの藤村さんのお話ですが、利益のことを考えると、そんなことをしても儲からない。ですからどこまでできるのかを考えなければならない。それこそ坪効率を1円でも高くすることが求められるなかで、広場や縁台をつくり、学校を入れることは、一企業だけではできません。椿峰ニュータウンは地主さんとディヴェロッパーが協力体制にあったということでしたが[郊外から建築を考える参照]、やはり自治体と企業のコラボレーションが必要でしょう。
コミュニケーションを促すということであれば保育園を入れるのがいいと思います。ただ、ああいう空間の中に子どもを入れるとみなアトピーになるのではないですかね。私の知人の話ですが、それまで自然食品で育ててきたのに、ショッピングモールが近くにできたということで、子どもが行きたいというので行った。で、ピザ食べ放題で食べたら、翌日それまではなかったアトピーがお子さんにどっと出てしまったそうです。だから、そうね、もしショッピングモールの飲食店がすべてオーガニックになるなら、そこに保育園があってもいい(笑)。

藤村──現在のショッピングモールが飽きられてきて、何らかの価値を付加しなければならないときに、そのことが動機になって新しいショッピングモールのかたちが出てくればおもしろいですね。

三浦──価値を付加したいとイオンは考えますかねえ。じつは大学の研究者に依頼して、いまの場所で売れなくなったらどうするのかというインタヴューをイオンに対して行なったんです。その場合は出て行くという回答でしたね。つまり空きビルにするわけです。売れなくなったら違う価値をその場所でつくっていこうとは考えない。同じ価値のまま、売れる場所を探すのです。
ただし、人口が本格的に減っていくとどこに逃げても売れる場所がなくなりますから、そのときはいまある場所をなんとかしようとするのではないですかね。あるいはへたをすると日本は全部やめて中国やインドに行くというのが資本の論理でしょう。

都市に従属するものから都市を支えるものへ

三浦──もう少し郊外の都市化について考えてみたいと思います。
日本語だと「郊外」、中国語だと「郊区」、いずいれにしても都会の外という意味ですね。字面を見ているだけで、どことなく「関係ねえよ」というニュアンスがあって、否定的に論じたくなってしまうのではないかと思うんです(笑)。
ところが英語の「suburb」というのは外ではないですよね。「sub」と「urb」ですから、都市に従属するということでしょうか。ところが、subjectという言葉が「家臣」という意味と同時に「主体」という意味も含んでいる。近代以降になると「家臣」が「主体」なのだというニュアンスが生まれた。とすると、「suburb」というのは都市に従属しているとか、都市の脇にあるものだったのが、都市を支えるものになり、あるいは都市に先行する「主体」になる転換期を迎えようとしているのかもしれない。
吉祥寺は普通は郊外と言われるのですが、僕は東京の都心だと思っているんですよ(笑)。吉祥寺の伊勢丹がなくなってしまったのは、都心の衰退の一事例であり、新所沢パルコのような郊外の衰退とは異なる現象だと考えているんです。だから伊勢丹の跡地にはけっきょくいろいろなテナントが入るだけのようで、残念です。もっと意欲的な新しい形態の商業施設が考えられればいいのでしょうが、更地ではないのでなかなかそれができない。だから新しい主体としての郊外がつくれない。でも、吉祥寺周辺にはまだ工場跡地などもあるので今後はできてくるのかもしれません。杉並区にはショッピングセンターはひとつもないですが、1万平米くらいの面積の土地ならばまだあるでしょうから、都心でも郊外でもない杉並らしいものが今後はできてくるかもしれませんね。そういう変わり目ではあると思います。
郊外の人の高齢化の問題もあります。郊外に育った優秀な人はやはり都心に出てきてしまうでしょう。郊外の空洞化が進んでいますよね。それでも郊外に住んでよかったと言えるような魅力とは何かを考えないといけない時代です。商業施設だけではなく、いままでの枠組みにとらわれないものをつくったほうがいいと思います。
例えば、近隣住区論でなくてよいのであれば、小学校1年生は緑の芝生のある公園の横で、大人の目が届く安全な場所で勉強する。高学年であれば多少危険度は増しても工場の隣で、働く人を目にしながら学ぶのでもいい。低学年地域と高学年地域など、学年で学ぶことに応じて、場所を変える。私がみかんぐみの曽我部昌史さんとつくった『商店街再生計画──大学とのコラボでよみがえれ!』(洋泉社、2008)で提案したように、八百屋さんの2階が教室になっていてもいいわけです。

藤村──三浦さんは新しい郊外のイメージを杉並に重ねていらっしゃるということでしょうか。

三浦──いえ、所沢でも青葉台でもいいと思いますよ。青葉台などは駅の周り以外は家しかありませんからね。家から出てどこに行くのか。桜台公園といういい公園があるのにだれもいないんですよね。善福寺川公園であれば平日の昼間でも人はそれなりにいますからね。井の頭公園などはむしろいすぎるくらいです。なぜ桜台公園に人がいないのかと考えると、やはり家の中がいいんでしょうね。家主義とでも呼べばいいでしょうか。マイホーム主義、私生活主義なんでしょうね。家に籠もる若者が増えたと言われますが、これもやはり家主義だからでしょう。個室もネットカフェと同じようなもんですし。
新しい郊外と都市をどう結びつけるのかというと、やはりさまざまな個性をもったスモール・タウンが東京20キロ圏から30キロ圏にいくつもある状況が生まれることなのかなあと思います。柏スモール・タウンと所沢スモール・タウンではぜんぜん違う。あるいは所沢のなかにもいろいろあってもいい。
あと、大事なのは雇用の問題と関連づけて構想しなければスモール・タウンも実現はしないということ。住んでいる地域に働く場があることは重要です。例えば、奥さんが趣味で焼いたクッキーがおいしいので売っている店があるとする。そこに若い女の子が店員として雇われる。奥さんは趣味でやっているので自分の所得は月10万円でも問題がなく、女の子もほかでもアルバイトをしているので月5万円でじゅうぶんだというようなスモール・ビジネスがいっぱいなければならない。コンビニがあってもいいけれども、セブンイレブンならば周りの街にあるから、このスモール・タウンの中にある必要はない。むしろ個人がやりたいことができる。個人が売りたいものを売れる。個人事業主的なビジネスがたくさんあったほうがおもしろい。個人事業主はこのスモール・タウンの人たちだけに売るのではなくて、外から来た人たちにもおいしいクッキーを売るわけです。もちろん外から来た人もこの街にお店を出せる。人が集まるいい街なので、自分のつくる雑貨を買ってくれそうな人が集まりそうだということなら、雑貨屋を開く人が増える。マッサージ店でも、小さなホームセンター、リフォーム業でもいいですね。非正規雇用レベルならこの街で仕事が十分見つかる。しかも業種が多様である。コンビニで働いても専門性は身につかないので、この街では大工さんを手伝ったり、パン屋、魚屋、町工場など、1年勤めたらある程度プロフェッショナリティが身につく職業があるほうがいい。アルバイトすることが職業訓練効果を生むわけですから、この街で代わる代わるアルバイトを経験したら、3年もすれば一人前として外で働けるようになる。そういう機能が街に備わるといい。
消費だけの場所はいらない。消費の場所は、同時に必ず雇用の場所であり生産の場所にするようなしかけが必要だと思います。そうすると簡単だからといってスターバックスを入れるようなことにはならないですよ。喫茶店やカフェがほしいのであれば、まずは住民のなかでカフェをやりたい人を募る。その街にいなければ近隣から募る。やりたいけどテナント料が高くて実現しなかったというような人を呼んでくればいい。そういう作業からはじめるべきでしょう。テナントを入れるほうが簡単ですが、その「簡単」に流れると最後に街は死んでいく。
もちろん、運営者、ファシリテーターしだいで正否が変わると思いますし、ファシリテーターの能力や好みの差が、街に個性の違いとして現われるのが理想でしょうね。ロハスな街もあればファンキーな街もある。クリエイティヴな街もあれば、『VERY』な主婦の街があってもいいでしょう(笑)。

藤村──テナントを募集するときに、ファシリテーターを動員して、テナントを育てることから実現しようとすると時間が必要になりますね。

三浦──そうですね。やはりファシリテートに時間をかけることになるでしょう。一気にオープンする必要はないので、子どもが育ってきたらこんな店がいるよねというのんびりした感じで、必要になったときに必要なものを入れられるように、常時3店舗くらい空けておくとか......。ただし、借地借家法などの既存の法律で縛ると実現は難しいので、緩和してもらう必要があるでしょうね。
ロンドン郊外のレッチワースは計画人口に達するのに100年がかりですからね! シーサイドも8ヘクタールくらいしかないのにまだ完成してない。考えながらつくっているからです。街は短期間の大量生産ではつくれないと考えるべきです。
『1995年以後──次世代建築家の語る建築』(エクスナレッジ、2009)に載っていた、長坂常さんの《Sayama flat》はおもしろいですね。狭山にある古い社宅をかなり限られた予算でリノベーションしなければならなかった。低予算であることを最大限利用して自分たちでできるところは自分たちでやって、床などは磨いただけですよね。これがかっこいいんだよね。それでいいじゃんっていう(笑)。
スタバ入れなきゃとか考えるからいろいろな設備が必要になるのであって、森ガールが雑貨屋やるだけだったら設備なんて大していらない。公衆トイレがあれば店内にトイレは必要ないし、水は「マイボトルを持ってきてください」でいい(笑)。それで不便であればまた別の動きが生まれますよ。

藤村──ニューアーバニズムに、郵便ポストを1か所にまとめることで人々を集める試みがありました。不便さがコミュニケーションを生むということを戦略的に使っている事例だと思います。

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三浦──不便ということで言えば、例えば風呂のない部屋がもっとあってもいいよね。エアコンもなくてもいいじゃんみたいな雰囲気にしていくとか。風通しがよければ、なくても過ごせますからね。僕のうちなんか、料理するときにしかエアコンを使わないですよ。屋上緑化すればもっと涼しくできるでしょうし。で、いつも窓が開いているわけだから、友だちが通りかかると家の中の気配が感じられて、「なんかやってるな」っていうのが見えちゃうだろうし、ひまそうにしていたら「ちょっと暑いからこれから飲みに行かない?」てなことになるよね(笑)。
飲む前に銭湯に寄ってもいい。それが新しいタイプの高級公衆浴場でJAXSONとかINAXのいちばん高級な浴槽が並んでいる。「今日はJAXSONに入ろう」というように浴槽をいろいろ選べたりしたらひとり暮らしの家に風呂はいらないよね。
銭湯の話に関連して言うと、現代の日本ではどうしていろいろとこんなにも隠すようになったのかを考えたいですよね。ちょうど『東京人』2010年9月号(都市出版)に書いた書評で、『裸はいつから恥ずかしくなったか──日本人の羞恥心』(新潮選書、2010)を採り上げたんです。江戸時代、ハリスが下田にいるときの話なのですが、公衆浴場に行ったら混浴だったので驚くわけです。下田の町を歩いていても「あ、異人が来た」っていってみんな平気で裸で家から飛び出してくる。江戸時代はここまでおおらかだったのに、どんどん隠すようになっていった。
同じ書評で原武史さんと重松清さんの『団地の時代』(新潮選書、2010)も紹介したんですが、やっぱり隠したい心理が出てきた背景としては、戦後は特に団地の鉄の扉の存在が大きいと思う。

藤村──私の父と祖母はもともと、滝山団地と同じ西武新宿線にある東伏見団地に住んでたんです。原武史さんの『滝山コミューン1974』(講談社、2007)を読むと、当時のあのエリアの背景が理解できる感じがしました(笑)。

三浦──目的があったわけではなく天気がいいから足を延ばしたという感じだったのですが、吉祥寺から自転車に乗って、滝山団地にまで行ったことがあります。滝山団地中央という商店街があり、日活ロマンポルノの『団地妻 昼下りの情事』(1971)の風景がそのまま残っている感じでした。ふつうならそんなに古い商店街は店舗はまばらで歯抜けになっていてもおかしくないのですが、マツキヨなんかも入っていて、すべてちゃんと営業していました。でも、あの、ぼやーっとした雰囲気が『団地妻』の雰囲気そのままなんですよ。『団地の時代』で「団地妻」の話がされているのもよくわかります(笑)。




滝山団地の商店街のようす
撮影=三浦展


三浦──で、暑かったので冷やし中華を食べようと中華料理屋に入ったんです。テーブル席には60歳前後くらいの男女が15人くらい集まって昼から飲んでいる(笑)。カウンターもおじさん3人がビールをがぶがぶ飲んでいる。若い家族も一組いましたね。そこにいる人々はみないっさいいまのファッションではないんです。髪を染めている人はいないし、北朝鮮のカラオケ屋さんに紛れてしまったかのような雰囲気なんです。ここにいる人たちがみな滝山団地の住民だったとしたら原武史さんの気持ちは理解できると思いました(笑)。
僕は、夜中に眠れないときにYahoo!不動産やR不動産を見るのが趣味なのですが(笑)、多摩地区一帯の物件を検索したことがあるんです。滝山団地は3DKで630万円でしたね。滝山団地は外から見る限りたしかに管理がいいんです。きれいだし芝生が整備されている。ところが、僕の好きな阿佐ヶ谷住宅などは草がぼうぼうに生えている(笑)。かつて阿佐ヶ谷住宅はかなりエリート層が住んでいたわけですが、そういう場所は50年経つと草ぼうぼうで、比較的労働者階級が多く住んでいるであろう滝山団地は草が刈り取られている。団地ができて40年ほどですから、団塊世代前後の集団就職世代が70年代初頭から住んでいるのだとすると、仲間意識が強いのかもしれません。これはむしろ下町的で郊外的ではないのですが、地理的には郊外にある。

藤村──郊外の下町ですね。

三浦──深川辺りの雰囲気にも通じます。深川に集団就職に来た人たちがそのまま滝山団地に移り住んだというような感じです。でも、団地はきれいに整備されている。駐車禁止、駐輪禁止、ここで遊ぶなというように、禁止の看板が多い。そういう意味では原さんの言うとおりで、本来家をもてない人が家をもったために、家を守る意識が強いんだと思います。鷹揚さがない。外から入ってくる人に対する警戒心が強い。そういうことは高円寺ではない。




整備された空間と禁止の看板
撮影=三浦展


三浦──ところが、以前NHKのドキュメンタリー番組で1970年代の高島平団地の生活を見た時には、みんな扉を開けていたんですよ。で、ワンピースのミニスカート姿で赤ちゃんを抱いたお母さんたちが、みんな共有通路に涼みに出て、お隣さんとおしゃべりしている。高島平はできた当時は最もモダンな団地でしたけど、エアコンが普及していない時代には、長屋と変わらない感じでご近所さんたちと話してたんですね。それが消えていったのはエアコンの影響に違いない。そして鉄の扉が外気だけでなく公共空間をバーンと遮断していくことになった。
いま、マンションでの孤独死が増えています。僕のもっているマンションでも孤独死が連続して理事会で議論したくらいなんです。僕は扉をふだん少し開けているのですが、音楽を聴くとたまに「音がうるさい」と言われるんです。でも、ちょっとした音漏れで苦情を言う人がいるから孤独死が起きるわけでね。閉め切って「静かにしていろ」という状態では助かるものも助かりません。みんながドアをちょっと開けておけば、もし倒れたとしても「三浦さんきょうは静かだね、何かあったのかな?」と気になって、誰かが見に来るはずですよ。「ああ、大変倒れてた! 救急車を呼ばなくちゃ!」となれば、助かる可能性も高くなる。それに、僕がドアを開けていると、隣近所の部屋の人もドアを開ける人が増えてきたんです。これはおもしろい現象です。
もともと都市はもっと開かれていたのに、都会や郊外は「閉じていく」歴史だったと思う。商業施設のモール化も隠したい心理の延長のようにあると思うんですね。プライヴェーティズム、マイホーム主義の進化型です。僕はやっぱりもう少し開いていきたい。
実は、マイホームやマイルームに閉じっていったほうが、家族単位、あるいは一人ひとりがテレビやステレオや電話などを買うので、物はたくさん売れます。一家に一台、ひとり一台を追求した典型が郊外の住宅のあり方であり、都会のワンルームマンションですが、今後はそれをある程度乗り超えていったほうが楽しいイメージが湧くかなと私は思う。
例えば、最近僕が行なった一都三県在住の20−39歳の女性に対する調査では、18%の女性がシェアハウスに関心をもっていることがわかりました。「お金がない」というのも理由のひとつではあるけれど、お互いに個人を尊重するしかたとか、「ここまでは相手に踏み込めない」というセンスが団塊ジュニア以降身についてきたんだと思います。個人のプライヴァシーの尊重を前提としているからこそシェアハウスにいっしょに住めるということがあると思う。男女がいっしょに住んでも何ごとも起きないのも、個人主義が浸透しているからだと思うんですよ。
一方で、ひとりきりでいるとどんどん閉じていってしまうことのデメリットを実感している人も増えていると思う。もうちょっと開きたいという気分が強まってきたんだと思う。だからこれからは、ながら見でじゅうぶんな番組ならひとりで携帯でワンセグ・テレビを見て、サッカーみたいにみんなでわいわい観たいときはどこかに行って大画面で観ようというようになっていきますね。誰もが20インチのテレビを買う時代ではなくなっていくような気がする。

歩く、語る人間を創造する

三浦──人が集まる場所ということに関連して言うと、通りに面したガラス張りのカフェというのは、じつは渋谷パルコPart1のカフェ・ド・ラペが日本で最初なんです。当時パルコの経営者だった増田通二さんはパリとかローマとかヴェネツィアなど、ラテン文化が好きだったんです。
逆に堤清二さんはケルトなど、ヨーロッパでも北のほうが好きなんですよ。ふつう商業施設で灰色の外観というのは考えられないけど、六本木WAVEは灰色だった。ホテル西洋銀座にしても高速道路の脇という翳りのある場所にある。堤さんは初めパルコをあの場所に出せと増田さんに言ったらしいんです。だけど増田さんは高速道路が嫌いで断わったらしい(笑)。六本木は高速道路のせいで人が回遊しないし楽しく歩けないと言っていたくらいですからね。
百貨店というと昭和初期は駅にあったわけです。私鉄が郊外にまで伸びる鉄道をつくって、ターミナル駅に百貨店をつくった。次に駅のソバの丸井の時代があった。パルコの場合、池袋は駅ビルですが、渋谷の場合は渋谷駅から坂道を800メートルも歩かされるわけです。パルコに行くために遠くまで歩くような、都市的な人間を創造しないと渋谷パルコは成立しえないわけです。歩く、語る人間を創造したい、あるいはどこかに散らばっている都市的な人間を引っ張り込みたいという考えでつくったんです。すごくラテン的なかたちです。


1981年の渋谷パルコPart3前のようす
写真提供=(株)パルコ ACROSS編集部


三浦──現代の日本では、ものは借りればいい、小さくていい、もういらないという方向に変化し始めてるわけですから、ものを買うことが幸せだった時代の最後にショッピング・モールは位置していると思うんですよね。今後意識が変化してしまえばショッピング・モールはまさに巨大な過去の遺物になるはずです。都会が飽和して人は「都市」を、つまり「つながり」とか「人と会うこと」におもしろさを求め始めている。すでにインターネットでは、ものを買うよりデジタルであってもしゃべっているほうがおもしろいという状況でしょ。でもその欲求をリアルな空間に呼び戻したいというのが建築家的な欲望なのではないかと思いますが。

藤村──そうですね。かつて、都市に出るにはものすごくコミュニケーションが必要だったのが、いまはコミュニケーションをしなくていいような仕組みになってしまっている。ものを買わないで借りるにしても、スモール・タウンでスモール・ビジネスを行なうにしても、シェア・ハウスに暮らすにしても、いずれもコミュニケーション・スキルが必要なわけですよね。コミュニケーション・スキルがある人は、今後、そういうライフスタイルになっていくと思うんです。他方で若者論やまちづくり論などでよく言われるように、コミュニケーション・スキルがない人たちをいかにコミュニケーションの場に引っ張り出すのかという問題があります。

三浦──スモールタウン・モデルで言えば、2階の奥に住んでる引きこもりぎみのあいさつのへたなやつを、なんとかこの店で働かせられないかというような長屋のご隠居的なファシリテーターが必要なんだと思う。

藤村──研究室や事務所で若い人たちと話していても、郊外の核家族世帯で育った人と田舎で大家族のなかで育った人では、コミュニケーションの取り方が違うんです。核家族の人は、表面的にはすごくコミュニカティヴなんですけど、人間関係に関してはコンプレックスをもっている。休日はひとりで淡々と暮らすような感じです。反対に大家族の子はまったく無邪気です。シェアハウスをやりたがるのは大家族の子なんですね。両者の差は大きい。

三浦──大家族の子は年齢の離れた人と接してきた経験があるだろうからね。

藤村──そうですね。だから都市の密度を上げることでいやでもコミュニケーションが発生するような仕組みの可能性について考えることもあります。

リアルに引き出す雑魚寝のアーキテクチャ

三浦──坂口恭平さんの『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版、2010)に、ホームレスとして生きると、金目のものは落ちてないかとか、儲かる仕事はないかとか、情報を得るためにいやでも誰かと話さなければならない。そうしないと死んでしまうと書いてあっておもしろかったんですが、それは、個人が自由に生きるには最低限コミュニケーションだけは必要だってことでしょう。それに倣ってフリーターやニートたちにはドアがない雑魚寝部屋をつくったほうがいいかもね。個室に入りたかったらもっと働きなさいよというのがいいんじゃない? 働くにはまずコミュニケーション力が必要だけど、雑魚寝をしていればいやでも話すだろう(笑)。
たとえば、マンションの中にワンルームの個室と4人くらいの雑魚寝部屋と両方用意しておいて、ふだんは個室に住んでいるフリーの編集者が、来月から半年くらいは収入が少ないぞという状況になったら雑魚寝部屋に引っ越すわけです。編集者はいろいろな情報をもっていてコミュニケーション能力もまあ高いから、そういう人が雑魚寝部屋に来ると「君、パソコン得意なの? ホームページつくる仕事があるんだよ」とか、「絵を描くのうまいね。雑誌のイラストの仕事があるんだけどやらない?」というように、仕事が紹介できるわけですよ。
住む場所がないということは仲間がいないということなんだよね。だから派遣村の湯浅誠さんも「とにかく住む場所を」と言うわけです。派遣切りされた人たちが、たとえば空いている公営住宅にまとまって入ることができれば、「こんな仕事あったけど僕はできないからあなたどう?」という関係が生まれることが大事だからです。ただし派遣切りされた人だけ集めると、お互い仕事がないから意味がないので、むしろ仕事がたくさんありすぎて困っている人とか、情報力が高い人が混じって住まないとうまくいかない。貧富の差とか仕事の受注力の差、情報力の差があったほうがいい。あったうえで、シェアすればいい。

藤村──そこには現代的なある種の愛情がありますね(笑)。いまはものを売るためにアーキテクチャを使うことは発達してますけど、三浦さんの雑魚寝のアイディアのようにそこまで過激じゃなくても、なんらかのしかけをして、アーキテクチャを人々にコミュニケートさせるために使いたい。現代都市の設計に関わる者にとってひとつの重要なテーマです。

三浦──そういうしかけをつくるときに、やっぱりあまり自分を隠さないことが重要になってくるんじゃないかな。最近、よく銭湯に行くんだけど、当然みな隠さないわけです。隠さないような人しか銭湯には行かないということなのかもしれないけど、裸になっちゃえば年収とかどこに住んでいるのかは関係ない。そこでは千差万別の体が赤裸々に晒されているわけですが、それを目にすれば、みんな不完全だけど生きていけるということを知ることができるわけです。
それと中国の上海でも急激な都市化でマンション住まいが増え、住民のつきあいがなくなり、孤独死が増えているために、あるマンションでは各住民の得意なことを住民全体に公開して、英語を教えるとか、故障した家電の修理といったことを住民同士でするという仕組みをつくったそうです。つまり、少し自分を公開することで、コミュニケーションが生まれ、コミュニティが醸成されるわけです。
そもそも隠すことは郊外文化の本質のひとつです。あるいは山の手文化の本質。先ほど「みたけ台」を写真で見ましたが[郊外から建築を考える参照]、高台からがけの下まで「台」という名前にしてある。広い意味では「台」には違いないでしょうが、「みたけ谷」にすべきところまで「台」と呼んで、みんな平等だという幻想をつくっている。しかしそういう中流平等モデルに縛られてしまうと、苦しい面がある。実は所得が減って困っているとか、息子が引きこもりとか、娘がリストカットとか、そういうことが起きているのに、家の外からは見えないように隠されている。フロイトは、heimlichハイムリッヒ(家庭的)と言う言葉が同時に「隠された」という意味ももっていて、隠されているがゆえに抑圧されているという指摘をしていますが、郊外のマイホーム主義にはそういう面があると思いますね。
藤村さんみたいにいろいろなニュータウンを自転車で見て回ったような子どもは珍しいでしょう。ふつうは所沢ニュータウンに住んでいる子どもであれば、日本中が所沢ニュータウンのようなものだと思っている人が多いはずですよ。だから大人になって現実に触れて、本当はすごく差があることに気づいたときにショックを受ける。

藤村──インターネットのジャーゴンに「リア充」っていう言葉があります。ネットでしかコミュニケーションできないと自認する人から見た、リアルな生活が充実している人々を指す言葉です。リアルな空間に対する憧れとコンプレックスが入り交じった複雑なニュアンスをもっているのですが、リアルの空間にコミュニケーションを引き出すアーキテクチャをつくれればもっと暖かいインフラがつくれそうです。

三浦──例えば「広場」をつくるときに、よくあるマンションの中庭みたいなものではだめなわけです。そこは住民だけの広場ですから、私有という意味では確かにリッチなんだけど、ただ住民が歩いてるだけじゃ楽しくないし、そこにいるとみんなから見られるわけだから、「あの人いつも平日の昼間からぶらぶらしてるわね、仕事ないのかしら?」などと思われるかもしれない。そうなったら、マンションの中庭には出なくなると思う。
やっぱり広場なんだから、外から入ってきていいことにしないといけない。大道芸人も来るしおでん屋も屋台を出す。外からおもしろい人が訪れてきたほうがその場所が豊かになる。井の頭公園の10分の1くらいでもおもしろい要素があって、外のほうがおもしろいなという気持ちになれたらいい。インターネットにはまっちゃうのは外がおもしろくないからでしょう。おもしろいネタを探して、それこそ藤村さんのように向島まで行く人もいるわけですが、普通の人はめんどくさがるじゃない? もっと家の近くにおもしろさがないとね。


人々でにぎわう井の頭公園
写真集『igocochi』(三一書房、2008)より
撮影=三浦展


60年代のよさを採り入れる過程として
80年代の活気を見直す

藤村──三浦さんは、閉じて隠すようになっていった歴史を取り戻すとおっしゃっていました。もともと団地の鉄の扉は開いていて会話が盛んに行なわれていた。あるいは、すべてを晒すことで違いを知ると同時に、違いなどはたいした問題ではないことを知るという銭湯のような場所もある。いわばそういった昭和的な、60年代的な公共空間やコミュニケーションのあり方を取り戻すことによって、新しい都市、新しい郊外のイメージをつくっていくことができるのではないかというお話でした。私も、60年代をよしとして、それにどう近づいていくのかという問題意識には共感します。ただそのときに私は80年代の活気を見直すことが、段階として必要ではないかと感じています。一気に戻ることは難しいかもしれないけれど、その中間期、移行期にあった様々な試行錯誤がどういうものだったかを確認することは、とても意味があるのではないかと思うんです。

三浦──80年代というのは6、70年代の混沌をどう秩序づけて商売に結びつけるのかを探っていた時代です。それをやった代表がセゾンだった。しかしその後セゾンは崩壊し、商売としての勝ちパターンだけが教科書的に増殖してしまったのが90年代以降でしょう。

藤村──私たちの世代では、80年代は神戸やセゾンが輝いていてあこがれの対象でした。

三浦──たしかに若い人にとっては、半世紀以上前の『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界よりも、まずは2,30年前の80年代がどうだったのかが気になるはずですものね。いまの学生たちが「80年代ってなんだったのか」という好奇心は大きいですよね。生まれる直前でよくわからない時代ですから。

藤村──いまから振り返ってみると、古いものと新しいものがせめぎあう、バッファの時代だったという感じがします。

三浦──70年代からいきなり90年代にはいけないもんね。

藤村──思想的にも技術的にもいろいろ転換はあると思うんですけど、その象徴にパルコやセゾンの存在がありました。今回三浦さんとお話して、自分のルーツのひとつとして、パルコやセゾンについてもっと知りたいという気持ちが強くなりました。(了)

[2010年8月10日]




対談:郊外の歴史と未来像──1
郊外から建築を考える


対談:郊外の歴史と未来像──2
パルコ、セゾン的なるものと現在のショッピングモールの違い


201011

特集 Struggling Cities


Struggling Cities──60年代日本の都市プロジェクトから(Struggling Cities展企画監修者による解説)
50年後の東京──Struggling Cities展が示すこと
〈郊外の変化を捉える 最終回〉対談:郊外の歴史と未来像[3]閉じる歴史から再び開く歴史へ
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