〈郊外の変化を捉える 続編〉
対談:郊外の歴史と未来像[2]
パルコ、セゾン的なるものと
現在のショッピングモールの違い

三浦展(消費社会研究家、評論家)×藤村龍至(建築家)
三浦展氏、藤村龍至氏

都市設計に
いかにして歴史性、
宗教性をもちこむのか

藤村龍至──今回三浦さんから新所沢パルコに関する資料を送っていただき拝読しました。一番驚いたのは、オープンしたときのお客さんの反応です。みなさんが「ここは街だから1日すごせる」と言ってるんです(「新所沢パルコオープン報告」『アクロス』1983年8月号、PARCO出版)。

三浦展──いまの越谷レイクタウンといっしょですね(笑)。

藤村──そうなんです。いまだったらレイクタウンで多くの人が言っていることを、当時、あのパルコについて言っていたんです。

三浦──今回藤村さんと対談するにあたって、ひさしぶりに新所沢パルコに足を運んでみましたが、これほど冴えない駅ビルみたいになっているとは驚きでした。どう見てもイオンのほうがいいよ(笑)。

藤村──いまとなってはだいぶさびれてしまったと思うんです。私が高校生の時ですら翳りがすでに見えていました。たしかに言われてみれば、ガレリアがあって銀座からたくさんのお店が出店して、かつシネコンがあってレストラン街がある。1日すごせる感覚ではあったと思うんです。私が実際に行くようになったのは高校生になってからなのですが、できた直後、小中学生の頃の友だちたちは、パルコの映画館によく行っていました。
いまは1日すごすのであればやはりレイクタウンだと思うんです。いろいろな流れはあるとは思うんですが、建築的に言うと巨大化しているわけです。面積は新所沢パルコの10倍です。10倍の空間がなぜ必要になったのか? 

三浦──それはおもしろい視点ですね。新所沢パルコの6千坪、2万平米というのは、郊外の小売業としては当時最大規模でした。町田の東急百貨店なども2万平米くらいだったはずで、専門店ビルでこの大きさというのは相当巨大なものという印象がありました。それが30年近くの年月を経て郊外ショッピングモールと言えば20万平米まであるわけですから、いかなる欲望が肥大化してそれが必要になったのか。

藤村──多様性が広がって選択肢が多ければ多いほどよいという流れが加速していけば、あっという間に10倍くらいの面積が必要になってしまうということなんでしょうね。

三浦──当時の所沢の商圏は30代の若いファミリーが多くて、それまでほしいものを買おうとすると新宿か池袋まで出なければならなかったのが、所沢ですむようになった。ですが2万平米では1日すごせるわけはないと思うんです。つまり1日すごせるというのは、都心に行って1日つぶさなくてよくなったとか、物販以外にも映画館などいろいろな機能があるから、パルコだけですむといった意味でしょうね。

藤村──ちょうどいまの私と同じ年齢くらいのお父さん、お母さんたちが、この『アクロス』のオープニングのヒアリングではすごく喜んでいますよね。若い夫婦ですから、いろいろな情報を得たいという想いを満たしながら、同時に家族的な場所でもあった。私と同世代の家族がいま車でレイクタウンに集まっていることを考えると、当時そういったカルチャーの中心としてあの新所沢パルコの建物があった。
『アクロス』1983年7月号では当時のパルコ専務だった増田通二さんが、新所沢パルコに入るテナントの店長さんたち向けに行なった、所信表明的なスピーチが「本格的サバーバン」という記事になっていました。ここでは新しい「サバーバン・イメージ」をつくるのだと盛んにおしゃっている。なかでも目を惹いたのは「私はディズニーランドは見に行かないが、お寺の演出は研究したい」という部分です。尼寺のような空間をつくりたいとおっしゃっているんです。

三浦──さすが天才だね! 

藤村──その当時の郊外であれば、おばちゃんがサンダルはいて買い物をするという感じだったはずですが、ここでは「チェホフの小説に出てくるような、日傘を差し、犬を連れた貴婦人が買い物に来るようなショッピングセンター」とおっしゃられています。

三浦──増田さんは誇大妄想狂の気がありましたからね(笑)。渋谷パルコのイメージだって、増田さんのなかでは、サグラダファミリアなんですよ。たしかにサグラダファミリアも渋谷パルコも丘の上にあるのですが、とはいえ飛躍がある。彼は、自分が好きなものを投影してイメージをふくらませる天才なんですね。

藤村──どちらも宗教性をもちこもうとしている点が共通しているのですね。

三浦──増田さんは宗教学科出身ですからね。

藤村──尼寺のイメージについてさらに「街の中よりも清潔で、おおむねイメージとして尼さんというのは皆、白いキレを被って清楚だ。郊外というのは、やはり清楚な感じがなければならない」とおっしゃっています。それを裏付けるように新所沢パルコの外観は真っ白ですね。

三浦──新所沢パルコのガレリアのイメージはミラノのドゥオモ広場のガレリアです。私も84年に会社の金でミラノもバルセロナも行かせてもらいました。しかし、ミラノになぜチェーホフの貴婦人が出てくるのかというと、自分の好きなもののイメージを頭のなかで混ぜ合わせているんでしょうね。パルコというのは、増田さんのイメージが湧かないと何も動かない会社だったんで。

藤村──さらになぜ尼寺なのかということについては「お寺は黙っていてお金をとってしまうという、より巧妙な演出装置を考えているからだ。お寺の本堂の空間、前の庭、広場、パティオ、そういう演出がお寺の中には皆入っている。私は、ショッピングセンターというのは何もアメリカに行って勉強しなくとも、お寺のレイアウトを研究すれば充分ヒントが得られる」とおっしゃっていますね。

三浦──消費の神殿として、ほっといてもチャリンチャリンと賽銭を払ってしまう仕組みが寺院にはあるということですね。

藤村──私が育った椿峰ニュータウンは所沢市にあるわけですが[郊外から建築を考える参照]、付近には中氷川神社や北野天神などの寺社があり、さらに狭山湖のダムの建設過程では湖底に消えた村などもありました。ニュータウンに住みながらも、歴史や近過去的なものに接続する窓口が身近にあるという感覚だったんです。東浩紀さんも『地域社会圏モデル』(山本理顕編、INAX出版、2010)のなかでお寺や土木的なものの不動性を指摘してくださいましたが、実際に都市設計の過程で歴史性をもちこむにはどうすればいいのか、あるいは宗教性をもった都市をどのようにすれば設計できるのだろうかと考えていたんです。そうしたら増田さんが尼寺を参考にするというコンセプトをおっしゃっていたので、すごく興味をもちましたし、高校の時によく利用していた新所沢パルコとつながった感じがしたんです。他の西武百貨店にはない設えが、たしかに新所沢パルコにはあったと思うんです。増田さんは建築にものすごい時間をかけたということもおっしゃっていますね。

三浦──すごくかけましたよ。イオンなどはどの地域にもプレファブ的に基本フォーマットのまま建てていくわけですが、当時のパルコの場合はトイレをどうつくるのかだけで3か月くらい会議をしたと思いますね。パルコの場合は、各店ごとに大きさもデザインも違う。雰囲気は統一されているけれども。
増田さんが亡くなる前に出された本『開幕ベルは鳴った──シアター・マスダへようこそ』(東京新聞出版局、2005)に、当時名古屋パルコの建設に関わった清水建設の方が思い出語りに、エレベータをどうするかひとつをとってもいかにじっくりと考えたかというエピソードを紹介されています。一つひとつの店舗をすごく考えながらつくっているんですね。

藤村──新所沢パルコではPARCO館(本館)とLet's館(別館)の間の私道をわざわざ廃道にしてガレリアをつくり、人々が憩う場所にしたんですね。私は高校の時にはガレリアの地下にある駐輪場を利用していたのですが、パルコの利用客だけでなく所沢市民も使えるものでした。実際『アクロス』1983年8月号の「新所沢パルコオープン報告」のなかで女子高生たちが、これからは雨に濡れずに自転車を駐められると喜んでいます。
あのガレリアはすごくよくできています。ベンチがあり、とくに用がなくても座ってぼーっとできるような余白がしっかり設えられている。


新所沢パルコ 写真提供=(株)パルコ ACROSS編集部


三浦──ただ座ってぼーっとすることが許されるという部分では宗教施設的ですよね。そういう意味でなら日がな1日すごすことができる。一般的なショッピング・モールでは、とにかく買い物をしなければならない。買わないと来た意味がない。下北沢、原宿、吉祥寺といった街と比べると、越谷レイクタウンなどはあの広さなのに座る場所が少ない。座ろうとすると飲食店になる。歩いて買って食べて帰ってくださいという空間です。これはパルコというよりディズニーランドに近い。実際、わたしの調査でも、イオンが好きな人は84%がディズニーランド好き、55%がディズニーアニメ好き、対してパルコが好きな人ではディズニーランド好きは64%、ディズニーアニメ好きは34%という結果が出ている(三浦展『自由な時代の不安な自分』[晶文社、2006]参照)。イオン好きは虚構の空間が好きなんでしょう。もしかすると、インターネットやゲームをする時間が長い人ほどイオン好きなんじゃないかという仮説を最近思いつきましたが。

大量消費ではない
次の豊かさの空間をめざして

三浦──増田さんの話が出たのでお話ししますが、70年代から80年代にかけての消費社会の変化を語るなかで、必ずパルコ、セゾン、西武が例に出るけれども、このときのことを同時代的に知っている人間が、私ですら一番若いくらいになってきていますから、もっと若い世代の人たちは、80年代ががどういうものだったのかわかっていないと思うんですよ。
簡単に言うと大量生産−大量消費と、そうではない消費という違いがあります。1970年代前半までの大量消費ではない方向に向かいたいというのが、70年代後半以降のセゾンのメッセージなんです。そんなこと言っても西友やファミリーマートもやってたじゃんという矛盾はあって、たしかにそれらは日銭を稼ぐためにあるのですが、最終的にはそれが目的ではない。
いかに次の豊かさ、次の消費を提案するかを考えたのが堤清二であり、増田通二です。当時私はパルコに勤務していたわけですが、ダイエーで買い物をしてはいけないと言われた。旧本社の入っていた雑居ビルには別の階にフォルクスがあったのですが、ダイエーのやっているステーキ屋さんですから、そこで食べてはいけなかった(笑)。安売りが信条ではなく、次の豊かさ、ほんとうの価値を提案することを俺たちはやっているんだという自負があった。堤さんも増田さんももともと文化人ですからね。増田さんは流通業という言葉も嫌いでした。
ショッピング・モールは、中国でつくった安いものをいっぱい輸入してきて、安いから買いなさいという、まさに大量消費の場です。一見すると、新所沢パルコといまのショッピング・モールは同じ構成要素でできているんだけれども、考え方はぜんぜんちがうように思う。30年前には大量消費ではない豊かさというものを提案しようとした空間が、そういう空間をつくればものが売れるのだということがわかったとたんに、再び大量消費のための装置として再編されてしまったということかもしれません。先ほど話した[郊外から建築を考える参照]、ニュータウンやマンションの歴史と同じですよ。これで売れるという売れ筋が見えると、すべてを同じやり方で大量生産してしまう。90年代以降、洋服や靴を大量生産するのと同じように、住宅や商業施設といった空間でも同じフォーマットでプレファブ的に大量生産される時代になってしまった。バブルの頃はお金があったのでまだいろいろなことができたわけですが、お金がなくなりコスト管理の時代になった今は、どうしてもそういう側面がさらに強まってしまう。

藤村──80年代のパルコというのは、売れるか売れないのかわからないようなところにものすごく時間をかけてきたということでした。その成果のひとつとして、新所沢パルコでは、所沢市とコラボレーションして駐輪場とガレリアを設けられたそうですが、そのように時間をかけることがなぜ可能だったのか。当時、セゾングループやパルコに可能だったことが今、イオンに不可能だとするとどういう理由があるのでしょうか。

三浦──ひとつは2000年に廃止された大店法(大規模小売店舗法)の存在が大きいでしょうね。新所沢パルコは出店するまでに10年以上かかっていますよ。それくらい大店法の規制は強かった。開店当初はお酒を売れなかったし、営業時間もおそらく短かったでしょう。かつパルコはいまでも駅前の中心市街地に出てますから、地元にステークホルダーが多いので、必然的に調整のなかで共存共栄を図らざるをえない。実際、熊本、松本、名古屋などを見ると、パルコができてから、その周辺に若者向けの新しい小さな店が集積するという効果がありますね。
ところがイオンのように「ファスト風土」に出店する場合は、いまはもう大店法もないですから出店の申請は以前とは比べものにならないくらい簡便化されている。つまり誰とも話し合わずに店をつくることができるわけです。大店法がなくなったので行政とも地元とも話し合う必要がなくなった。
そもそも話し合う必要がない楽なビジネスだからやっているとも言える。10年間議論をしなければならないとすると資本の論理で考えたらそもそもビジネスにはならないわけですから、彼らは出店しませんよ。ものすごく景気のいい時代なら話し合いも可能かもしれませんが、いまは厳しい。モールの周辺に木を植えるといった社会貢献活動的なことはしても、地元と一体となってなにかをつくることほとんどないでしょう。郵便局や銀行、歯医者だって入れますよ。それは便利であるという以上にそこでお金を落として買ってくれるからやるわけです。

藤村──先ほど80年代の神戸が自分のなかで理想としてあったというお話をしましたが[郊外から建築を考える参照]、同様に80年代の西武セゾングループの盛り上がりは身近な記憶として強く残っています。例えば、西武所沢店は都市が貫入しているというコンセプトでつくられたそうで、2階の真ん中に幅7メートルの通路があるんです。デパートは売り場面積をできるかぎり確保するのが王道なのですが、隣接する車両工場が将来的には開発されるので、あらかじめそこに向かう動線をたっぷりと確保しておくという発想をおもちだったようです。さらに、所沢は自転車の街だというコンセプトで館内には自転車のオブジェが飾られたりもしていましたね。通常ならば避けられるパチンコ屋がテナントとして入っていたりと、デパートを「都市」として捉えるという、堤さんのコンセプトが貫徹していた。

三浦──堤さんが1985年に「つかしん」(兵庫県尼崎市)を手がけたときは「狂気の経営」と言われたわけですね。立石泰則の『漂流する経営』(文藝春秋、1990)に詳しいのですが、堤さんが赤とんぼの飛ぶような街をと言うので社員があわてふためいたというエピソードが紹介されています。いまにしてみればふつうというか、むしろショッピングセンターには街をつくることが求められているのですが、当時としては大騒ぎになったんですね。

藤村──そうですね。できたものを見ていると、やはりそこにはコンセプトをつくるための議論がなされていたという印象を受けます。

三浦──当時セゾングループの不動産開発を行なっていた西洋環境開発には理論派がそろっていたようですしね。『アクロス』に、筑波でなぜ自殺が多いかといったことを分析した論文を書いてくれた人もいましたし。

藤村──「つかしん」をはじめセゾングループがクリエイティヴなことをしてきた時代が、阪神・淡路大震災のあった1995年前後を境にして行き詰まっていく。例えば、よく覚えているのは、神戸駅の隣にあった貨物列車の駅を再開発してつくられた「神戸ハーバーランド」(1992年オープン)です。西武、阪急、ダイエーなどが出店したのですが、西武は2年あまりで撤退してしまうんです。神戸ハーバーランドじたいも震災の被害を受けて売り上げを落としている。私のなかで80年代のクリエイティヴなコンセプトの象徴だった、「株式会社神戸市」やセゾングループのクリエイティヴィティが、この時期にどんどん喪失されていってしまった。

三浦──昔の西武百貨店は、渋谷も池袋も店舗のつくりがほんとに街だった。売り上げだけを意識した坪効率至上主義では絶対につくれない。店内を歩いていると突然詩の店が現われたり、意外な場所に意外なものがあった。それがおもしろかった。いまはとてもそんなことはできないですね。

藤村──高校生くらいになっていろいろな美術館に足を運ぶようになるわけですが、われわれの世代では、なにかおもしろい展示を見に行くというと、デパートの美術館でした。いまでいうと森ビルの上や東京ミッドタウンに行く感覚ですが、今の学生たちにデパートの上に美術館があっていちばん熱かったんだという話をしても誰も知らないですね。

お客さんをどう迎えるかを考える

三浦──増田さんは、エドワード・ホールの『かくれた次元』(日高敏隆+佐藤信行訳、みすず書房、1970)の愛読者だったんですよ。人間の心理、行動と空間にすごく関心をもっていた。
パルコは改装も多いですが、若い社員が改装工事の工事現場の安全管理に立ち会うきまりがあり、実際に僕も池袋の改装や新所沢パルコの新築時に現場に行っています。先ほども言ったように、どうつくるのか、どう改装するのかという議論はものすごく時間をかけて行なっている。
新所沢パルコのときもエスカレータをどう配置するのか、かなり議論していた記憶があります。どうすると歩きやすいのか、買い物がしやすいのか、楽しく歩けるのかを延々と議論していた。それで、新所沢店でパルコとしては初めて上りと下りを互い違いに隣り合わせにしたエスカレータをフロアの中央に設置したんです。ああいうエスカレータは当時他の店でもまだ珍しかったんじゃないでしょうか。

藤村──そうでしたか。だいぶ後のことになるのですが、池袋のパルコが2000年代に改装したときに、たしかそれまでは丸物百貨店から引き継いだまま同じクロス型の配置だったエスカレータを、新所沢パルコと同じように上りと下りを平行に並べたかたちに変えましたが、あれは新所沢パルコ以来の伝統なんですね。
新所沢パルコのつくりのことで言うと、駅から降りてエントランスが斜め45度の角度で切られていて、自然に導かれる感じがして、高校生の頃から絶妙だなといつも感心していたんです。

三浦──ませた高校生ですね(笑)。たしかに僕もこのあいだひさしぶりに訪れたわけですが、それは感じましたね。動線に対してどーんと相対して迎えるのではなくて、ちょっと斜めなんですよね。品がいいよね。

藤村──お客さんをどう迎えるかを考えてつくられているデパートの建物はなかなかないので、おもしろいと思っていましたね。

三浦──増田さんは、人がどう建物に入るのか、そしてどう動くのかを想像するのが好きな人でしたからね。そのことは清水建設の人のエピソードにも出てます。で、そこから妄想が拡がって、ガウディだ、チェーホフだと発展していく(笑)。そういった文化的な比喩を出すことで、現場のスタッフにただものを売るだけの店ではないと伝えていたんでしょう。なんかすごいことをやっているらしいということを伝えなければ、社員は楽なほうに流れますからね。効率よくやってコストを下げて売り上げを伸ばすことばかり考えますよ。


1983年の渋谷パルコ前のようす 写真提供=(株)パルコ ACROSS編集部


三浦──建築に関してどれくらいのコスト管理をしたのかはわからないのですが、出版に関してはよい本をつくるのであれば当時はコストはまったく考えなくてよかった。つくればつくるほど赤字の本もありましたし。
先ほどのエスカレータの話に戻ると、効率や利便性を追求してあのスタイルになったのではないんですよ。お客さんに「ああいいな、ここは」と思ってもらえるような魅力的な空間にしたいからなんです。結果としてものを買ってもらえるのが理想だと。だからパルコのなかで「利便」「便利」という言葉は聞いたことがないですよ。増田さんが多用した言葉は「魅力」「チャーム」です。
堤さんもマリオンにからくり時計をつくったことはひじょうに意味があると考えているようでしたね。

藤村──人が集まる場所をつくったということでしょうか。

三浦──そうです。

ディヴェロッパーとして消費者を育てる

藤村──増田さんの時代にパルコがいろいろと工夫していた空気のようなものが、イオンのなかでは生まれないとすれば、それはなぜなのでしょうか。

三浦──それは経営をアメリカMBA的合理主義でやっているからでしょう。

藤村──やはり時代背景の違いが大きいのでしょうかね。

三浦──堤清二さんと対談したときに(『無印ニッポン──20世紀消費社会の終焉』中公新書、2009)、堤さんと同世代の経済人で、1950年代にアメリカに行ってアメリカに打ちのめされていない人は珍しい、なのに堤さんはなぜ打ちのめされなかったんですかと訊ねたんです。俺はアメリカが嫌いなんだと言われるかと期待していたのですが、「なぜでしょうね」というあいまいな返事ではぐらかされてしまった。
ジャスコの岡田卓也さんも、ソニーの盛田昭夫さんも、東急の五島昇さん、松下幸之助さんもアメリカ詣でをしてショックを受けたわけですよね。だから日本をアメリカみたいにしようと考えたわけでしょう。堤さんにも増田さんにもそれはなかった。どちらかというと二人ともヨーロッパ志向ですよね。大量生産文化に対して引いて見るところがあったと思うんです。

藤村──批判的なまなざしというものがあったのでしょうか。

三浦──そう思いますね。とくにパルコの場合は本当の意味での大衆的な消費を考えなくてよかったですからね。

藤村──今では森ビルの社長の森稔さんも文化事業に力を入れていらっしゃいますので、往年のセゾン、堤さんに近いイメージがあります。

三浦──僕は森さんにお会いしたことがないのでわかりませんが、やはりモダニストであるという印象をもっています。

藤村──ル・コルビュジエを参照されていますね。

三浦──堤さんは一貫して近代を批判しています。増田さんも同じでしょうね。増田さんの場合は、ある社員が光が丘団地に引っ越したと聞いたら、あいつはバカだなあ、あんな団地に住むなんて信じられないと言っていました(笑)。諧謔的な人ではありましたね。

藤村──いろいろと調べていくうちになるほどと思ったんですが、イオンをはじめとした最近の商業施設というのは、いわゆる小売業ではなく不動産業にシフトしている。
小売業であれば、百貨店の中で人を動かすためにどういう売り場をつくるのかという商業のコンセプトが、三越にも高島屋にも西武にもあると思います。イオンはもはや完全なテナント業、床を貸す不動産業になっており、それがひとつの流動化を招いている状況です。トレンドをいち早くキャッチできているということでもあります。
パルコも、池袋店をオープンするために西武百貨店の隣の丸物百貨店を買収し、従来の百貨店とは異なり不動産業としてビルを経営していった。そしてビルそのものにイメージをつくっていくという転換を図ったわけですね。
そういう意味ではパルコはいまのイオンと不動産業であるという意味においては似ているところがある。

三浦──いなかのとぼけた人なら、セゾンとパルコがイオンとジャスコに名前が変わったんじゃないかと思うかもしれませんね(笑)。
それは冗談として、パルコはディヴェロッパーだと思うんですよ。同じ不動産業でも開発なのか販売なのかという違いがある。イオンモールは販売業だと思います。土地を開発するわけでも、ショッピングモールの周りにすばらしい街をつくろうというのでもないわけですから、すなわちディヴェロップしてないですよね。越谷レイクタウンの場合は公団が絡んでいるからほかとは違うものになっていますが、単独ではあんな開発はしないでしょう。売れるテナントを並べるだけの仲介業でしかない。
いまはほんとうにどの分野でも仲介業が増えている。商店街もそうです。吉祥寺だって、駅前のアーケードは、もともとあった商店はみんな商売を辞めて、大家業に転換し、ビルを建てて、テナントを入れて、家賃収入で暮らしている。自分で商売をする、開発をする気がなくなっているんですね。
出版社もそうなってますよね。ディヴェロッパーから仲介業になってしまっている。新しい著者を開発しようと思わない。いま売れてる著者に書かせようとか、売れる企画だけ並べようとか、できた原稿をもってこいという編集者ばかりですよ。企画を一緒につくろうという出版社がない。

藤村──そういえば電子書籍を扱うサイトを「モール」って言いますが、たしかに並べるだけという感じのニュアンスを受け取ってしまうのは、象徴的な気がします。

三浦──考えるのはめんどくさいから、できたものをもってきてよという感じです。そこで売れると判断したら出すし、だめなら出さないという話ばかりです。だから新しいアイディアは編集者から出ない。企画や著者を育てるという視点がまったくない。
いまは知らないですけど、当時のパルコには育てるという雰囲気がありましたよ。社員だけではなくて、消費者を育てるという姿勢です。一方で、育った消費者はそのぶん手強い消費者になるわけですから、売るほうも負けてられない。切磋琢磨がある。結果、お互いがお互いを育てるわけですね。それが企業行動の原理となっていましたね。
対してイオンはブロイラー工場のようなものです。車の流れのある場所にモールを作って、その中に売れる店を並べて、そこを客に歩かせて買わせる。ブロイラーは自分が動かないで、流れてくるエサを食べますが、モールではブロイラー人間のほうが自分で歩いてくれる(笑)。これを私は「逆ブロイラー化」と呼びますが、多くの外食産業も同じです。
最近地下鉄の駅と地下道で結ばれたオフィスビルやマンションが増えている。豊洲などはモールとマンションが地下でつながっている。駅とつながったマンションに住んで、駅とつながったオフィスビルに勤める人にはまさに街は存在していない。これはけっこう革命的現象ですね。で、その地下道のそこかしこにカフェとかパン屋とかがあって、歩いてきた客がそこで金を落とす。これも逆ブロイラー化です。「自己家畜化」の最高の形態ですな。極めてアメリカ的で、いかにお客が簡単にやってきて簡単にお金を落とすかだけを追求している。そこでは、できるだけ消費者は育ってくれないほうがいいわけです。これは安いけど、いいものだ、うまいのだと、疑問をもたずに買ったり食べたりしてくれればいい。そこには人間として育ってほしいという価値観はないと思います。食べてぶくぶく太ってもアトピーになってもあなたの体質の問題でしょ、ということ。それは冷酷なものですよ。

「グルーエン・モデル」は現代にいかに可能か

三浦──ショッピングモールの父と呼ばれるウィーン生まれのユダヤ人のヴィクター・グルーエン(Victor Gruen, 1903-1980)という人がいます。彼はユダヤ系で、本当はグリューネンバウムという名ですが、弁護士の家庭に生まれ、ウィーンのど真ん中に住んでいた。そこで、フロイト、クリムト、マーラー、シェーンベルクらが活躍するのを見ながら育つわけです。建築ではオットー・ワーグナー、アドルフ・ロースらが活躍していた。グルーエンも、1917年にペーター・ベーレンスが教えていたウィーン美術アカデミーで建築を学びます。
それが1938年のドイツによるオーストリア併合を機にアメリカへ渡り、店舗ディスプレイ会社に勤めて、フィフス・アヴェニューなどで店舗デザインをするんです。この仕事がすばらしく、アメリカの小売業をまったく新しい方向に方向付けたと、注目を集めるようになる。1939年のニューヨーク万博でも展示の仕事をしていますが、どうも、かの有名なゼネラルモーターズのフューチュラマの下請けもしたようで、グルーエンもフューチュラマに対して相当なインパクトを受けたらしい。
当時のアメリカのロードサイドというと看板だらけで乱雑なわけです。それを見て彼は嘆く。それに比べてふるさとのウィーンはすばらしい。だからアメリカにウィーンのような都市をつくりたいという想いでショッピングモールをつくった。すべてのアメリカ人にミニヨーロッパ旅行気分を味わってもらうためにショッピングセンターをつくろうとしたらしい。アメリカの都市の大通りには、歩道におかれたテーブルに座ってくつろぐ人たちがいない。こんなのは都市じゃないといって。だからショッピングセンターといっても彼がつくったものは、倉庫みたない売り場しかない、いまのウォルマートとはぜんぜん違います。
ただしグルーエンはショッピングモールの父とは呼ばれたくないと言っています。これはどうも、グルーエンが活躍する第二次大戦後にアメリカで急拡大した郊外化に対する批判を彼がもっていたかららしい。彼がつくりたかったのは楽しく歩ける街であって、ハイウェイ横の「ファスト風土」ではないのです。
だからグルーエンは街の再開発も行なっていますね。有名なのはカリフォルニア州フレズノにあるフルトン・ストリートを歩行者専用道路に改造したものですが、この仕事はジェーン・ジェコブスにほめられている。「ショッピングモールの父」と聞いたときの印象からすると、グルーエンとジェコブスは両極にあったのではないかと思ってしまうのだけれど、実はジェコブスに再開発の仕事が賞賛されているわけです。
もし、こういうグルーエンの仕事を念頭に置いて、今後のショッピングモールがライフスタイル・センターになってゆくのだとすると、それは先祖返りだと言えるかもしれない。ニューアーバニズムはネオトラディショナリズムとも呼ばれているわけで、昔のアメリカにあったようなスモール・タウンのよさを採り入れようということですから、これは明らかに先祖返りです。アメリカのショッピングモールにはすでに7、80年の歴史がある。時代を振り返っていけば、必ず今見ても評価できるモールがあるでしょう。だから昔のモールを詳細に調べてみるのもおもしろいでしょうね。

藤村──それこそ日本では、すでにパルコが振り返るべき対象になっていて、当時のクリエイティヴィティを検証することがいま重要かもしれませんね。
80年代のショッピングモールは、いわゆる郊外型のパワーセンターのたぐいで、床はPタイルで照明は蛍光灯の直接照明で、通路はまっすぐ、まるで倉庫という感じでした。それに比べると最近のイオンモールなどでは、床はカーペットで照明はやわらかな間接照明で、通路はカーブして見通しが利きすぎないよう注意深く設計されていますし、アメニティが即物的な水準で高められている。
西宮球場の跡地につくられた「阪急西宮ガーデンズ」などは、その水準でものすごく快適に最適化された空間なんですね。とても洗練されていてこんなショッピングモールがあるのかと驚くほどでした。
西宮ガーデンズはあちこちに座れるところがあり、余白がいっぱいあって、すごく考えてつくったという印象があります。尼寺的と言えるかどうかわからないんですけれど、増田さんの言葉をお借りしてたとえるならば、それこそ新しいサバーバン・イメージがある。サンダル履きで訪れる感じではない。もちろんコミュニティを育てるような要素はまだ本格的にはみられないので、商業的な意味合いでということになるのですが、往年のパルコのような気合いのようなものを感じることはできます。建築的には近年のひとつの成功例として挙げられると思います。

三浦──やっぱり阪急だからだろうね。郊外というのは本来スーパーマーケットの市場なんです。多くの人が住みんでいる場所に、大量生産品を安価で提供する。しかしスーパーだけでは味気ないし都心に出るには距離がある。そこで1980年代になると、たまプラーザに東急SCができたり、新所沢にパルコができたり、八王子、立川、大宮などに郊外SCブームと呼べるものが起こったわけです。
しかしこれらは駅前型、駅ビル型でしたので、近年ロードサイドに巨大なモールなどができると、衰退してしまう。次の段階を目指して変容する時期にきている。

藤村──都心と郊外の関係でいえば、いま関西圏で起こっているのは、都市と都市の中間に巨大施設ができて、都市にある両端の百貨店がやせていくような現象です。東京だと都市が連続していますが、関西は東京よりも都市と都市がはっきりと分かれているので、阪神間であれば神戸市と大阪市の中間に位置する西宮市にある阪急西宮ガーデンズ、京阪間であれば枚方市のくずはモールが注目を集めています。

三浦──都心は都心で、なかなか以前のようには集客を望めなくなっているわけですから、郊外により近いけれどもより都市的なもの、ある意味「神戸的」なものを提供できる空間をつくる必要がある。西宮ガーデンズのようなものがうまくいって儲かるよということになると、古くなった郊外を同じように順番にグレードアップしていくのではないですかね。さらに都心の店もそういうふうに改築しようということになるかもしれませんね。

藤村──お話を聞いていると、1980年代のパルコには古さと新しさがせめぎ合っており、今よりも均質性に抗うための緊張感のようなものがあったように感じます。

三浦──堤、増田両氏に共通しているのはやっぱり非常に強い反骨精神、反主流派意識ですよ。主流派大嫌い。パルコに入って驚いたのは、自民党が選挙に勝つと社員がみんな悲しむんですよ。ここは労組かっていうくらいでした(笑)。そこにあるのはやっぱり反主流派意識ですよ。

藤村──それはよくわかりますが、他方で主流/反主流と単純化できない社会の状況もありますよね。ウイーンからアメリカにやってきたグルーエンが設計したショッピングモールがジェコブスにほめられたわけですが、その「グルーエン・モデル」と呼べるようなものが現代にいかに可能かという問いを立てたい。1960年代の都市計画をジェコブスは批判したわけですが、ただ主流のものを批判したわけではなくて、グルーエンのような商業デザイナーの仕事も支持するところがあったというところがおもしろいと思います。商業主義と設計者が対立するものとして睨み合うのではなく、ましてや一方が他方を飲み込むのでもなく、両者が歩み寄って高みをめざすような共有モデルをつくりたい。それは三浦さんのいう「都会」を「都市」に戻していく作業につながると思っているんです。そういう意味でも、80年代のパルコや神戸のクリエーションは「ファスト風土」が全面化した今こそ参照して、再評価してみたほうがいいのではないかと思っています。(つづく)

[2010年8月10日]




次回最終回
対談:郊外の歴史と未来像──3
「閉じる歴史から再び開く歴史へ」のキーワード


- 都市と都会の違い、高円寺らしさとは
- 三浦展+SML『高円寺 東京新女子街』(洋泉社、2010)
- ビクター・グルーエン『都市の生と死──商業機能の復活』(神谷隆夫訳、商業界、1970)
- 由井常彦編『セゾンの歴史──変革のダイナミズム』(リブロポート、1991)
- ショッピングモールの都市化の可能性
- 都市に従属するものから都市を支えるものへ
- 三浦展+神奈川大学曽我部昌史研究室『商店街再生計画──大学とのコラボでよみがえれ!』(洋泉社、2008)
- 藤村龍至編『1995年以後──次世代建築家の語る建築』(エクスナレッジ、2009)
- 閉じる歴史から再び開く歴史へ
- 中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか──日本人の羞恥心』(新潮選書、2010)
- 原武史+重松清『団地の時代』(新潮選書、2010)
- 原武史『滝山コミューン1974』(講談社、2007)
- 歩く、語る人間を創造する
- リアルに引き出す雑魚寝のアーキテクチャ
- 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』(太田出版、2010)
- 60年代のよさを採り入れる過程として80年代の活気を見直す


対談:郊外の歴史と未来像──1
郊外から建築を考える


201010

特集 上海万博と建築


上海万博を歩く
上海万博
〈郊外の変化を捉える 続編〉対談:郊外の歴史と未来像[2]パルコ、セゾン的なるものと 現在のショッピングモールの違い
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