「倫理∩戦略」としての遠慮──『乾久美子|そっと建築をおいてみると』書評

伊藤亜紗
乾久美子|そっと建築をおいてみると
現代建築家コンセプト・シリーズ3『乾久美子|そっと建築をおいてみると』
著者:乾久美子、西沢立衛、藤村龍至
定価:1,890円(税込)
2008年9月20日 INAX出版発行
ISBN:978-4-87275-151-2
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「幼児ら」の疎遠さ
同シリーズの過去の刊行分にくらべると圧倒的にテキストの多い構成である。うす水色、萌黄色、桜色といった軽やかな色どりは先へ先へと頁をめくっていくことを急かすが、その上に印刷されたテキストははっきりと読者を説得することを目指しており(つまりエッセイ的ではない)、さらさらと読み進めようとする目をきちっきちっと踏みとどまらせる。ふいに、ある言葉がとびこんできた。「幼児らがみてウキウキするようなもの」。ふつうこんな言い方はしない。「幼児たち」ではなく「幼児ら」と言うのは「おまえら」「やつら」といった表現を連想させて十把一絡げに突き放すようだし、そもそも「幼児」という年齢にもとづく機械的な分類の呼称自体、冷たく疎遠な印象を与える。これではまるで、子どもの歓声や、どろんこの靴下や、よだれや、えくぼ、といったものが嫌いな人のようではないか。この疎遠さと「ウキウキする」という暖かさが乾久美子の思考のうちでは組み合わされている。たとえば「子どもたちがみたらウキウキするようなもの」と言ったってよかったはずだ。むしろそのほうがずっと単純である。
本書は乾がこれまで手がけた建築や内装の仕事を図面とテキストで順に紹介する形式をとるが、なかでも「幼児ら」が「ウキウキする」ように工夫されたのは、独立して初めて手がけたという《片岡台幼稚園》の事務所の外観である。それは白いアルミ製のルーバーが縦線を、ガラスの壁をはさんで室内の壁に描かれたブルーやグリーンの極太ストライプが横線をなす「立体的なギンガムチェック」をもつ。このギンガムチェックは奥行き感を失わせる錯覚効果があり、事務所という大人の空間にあるものをすべて「アップリケ」のようにしてしまうという。「先生」も「書類や机やコピー機」も厚みを失い、まるでギンガムチェックのなかに「張り付いて」いるかのよう。大人の世界の忙しさを適度に見せつつ隠すことで、ユーモラスな外観ができあがったという。
このいかにも楽しげなしつらえの宛先、つまり設計の本当のクライアント=観客を、乾は「幼児ら」と呼ばねばならなかったのである。ところで、直後には但し書きがつけてある。「幼児らがみてウキウキするようなもの(だと、大人の私が想像しているもの)」。つまり乾はここで、子どもが実際に感じることと、自分が建築家として狙う効果が、必ずしも一致しないかもしれないという留保、というよりたぶん一致しないだろうという確信めいたものを表明しているのである。ここにあるのは、建築家としての倫理観であり、同時に戦略でもあるような思想だ。「意味を押し付けてはいけない」という倫理観と「意味を押し付ければかえってクライアント=観客はそれを記号として受容するだけだろう」という戦略。倫理観としては非常に控えめである態度が、戦略に変わったとたんにある鋭さを帯びる。観客の立場に同一化するではなく、むしろ少し離れたところから「遠慮」して全体の秩序を観察している。この遠慮、距離感が、「幼児ら」という表現を生んだのにちがいない。

「控えめ」の距離/「操作」の距離
この「遠慮」は、彼女がめざす公共性のあり方に通じている。いかに施主の○○さんの満足だけでなく、それを使用したり前を通ったりする不特定多数の観客を相手にするか。《新八代駅前のモニュメント》の頁で、乾は風景について書きながら公共性という概念を再定義しているように見える。ふつうモニュメントは風景に対する「異物」としてつくられる。モニュメントは異物であることによって、人を緊張させ、遠ざけ、そうすることで広場なり公園なりをプライベートではない「公共の場」にするのだ。しかしそれは施主側の満足でしかない、と乾は考える。スタディの末、できあがったのはあずまやの機能をもつ家型のモニュメントである。表面には大小さまざまな穴が開けられ、子どもや猫などが自由に出入りする。モニュメントでありながら中にはベンチが置かれ、座ってバスが待てるようになっている。意味や使用法の決められていない余白で、人が思い思いの楽しみ方をおのずと発見していくこと。これが乾の公共性の条件であり、記号的な受容を超えて、人と空間がパーソナルな関わりをもつきっかけを、彼女は建築をとおしてつくろうとする。困難は、パーソナルな関わりをつくるためには、つくってはならない、ということである。つまりそれが個々の観客による自発的なものでなければならない以上、建築家は関係自体を外部から押し付けることはできない。このジレンマに向き合うから、彼女の言葉にある種のねじれのようなものが生じるのである。
彼女のつくらなさ、押しつけのなさは、端的に、記号的な意味作用に関してはつとめて中立であろうとする、その「表面」のデザインにあらわれている。パーソナルな関わりを生み出すためにまず必要なのは、当の装置から、わかりやすい「ウキウキ」や「ぬくもり」の表現を排除することなのだ。表面の問題は単なる見た目の問題ではない。表面は建築と観客の関係を決める、本質的なファクターになりうるのだ。意味に頼らないかわりに、乾は表面のうえで、観客のある種の生理的感覚を操作する。この生理的感覚は、わくわくするかもしれないが同時に混乱や不快感でもありうるような感覚である。「解像度」の問題として繰り返し述べられるように、彼女は表面にメッシュやチェック模様の加工をほどこして見る者の目に錯覚を起こさせ、建築の構造やヴォリュームを見えづらくする。いわば「目をかすませる」わけである。立体感が捉えられないもの、そこにあるのかないのかわからないものに目はくらくらし、くらくらしたままそれに釘付けになってしまう。ミツバチが黄色に近づいていったり、カナブンが光に集まったりするのと同様、この「見てしまう」感覚に目は逆らえない。《新八代駅前のモニュメント》が「遠くから見ると家」で、近づくと「穴だらけの奇妙なもの」になり、気になってさらに近づくと「モニュメト」になって中に入ってしまっているように、重要なのは、この錯覚が人の体を物理的に動かす力をもっていること、とりわけ近くにおびき寄せる力をもっていることである。乾の戦略の持つ「鋭さ」には、彼女自身は少しもそんな素振りを見せないけれど、人の感覚を麻痺させる「毒」のようなものが入っている。毒は目立たないが、「控えめ」の倫理的な距離が、純粋知覚の次元では不気味な「操作」の距離に反転しているのだ。
意味がきめられていない世界は可能性に満ちていると同時に不気味だ。視覚の生理は、「先生」と「書類や机やコピー機」を同じ「アップリケ」にしてしまうのだから。乾が言うように、まさに「生物と無生物の垣根をとりはらおうとするまなざしの基点」である。倫理と純粋知覚、暖かさと鋭さといった、次元の違う二つの問題が結びつくさまが、この本の、あるいは彼女の建築の面白さなのではないかと思う。

[いとう あさ・パフォーマンス/文学研究]
1979年生まれ。雑誌『Review House』編集長
http://assaito.blogzine.jp/assaito/


200811


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