殺那的、建築的──ヴェネチア・ビエンナーレ建築展レポート

木村浩之

最近はその名の通り、なんとか2年毎開催のペースが保てている今年のヴェネチア・ビエンナーレ建築展は、数週間前に終了した映画祭の余韻さめやらぬヴェネチアのオフシーズン、アルセナーレとジャルディーニの2メイン会場を中心に9月半ばから開催されている。出展者は国別と建築家別の2グループに分かれており、各々に金獅子賞が授与される。展示のタイプは大きく3つに分けられる。以下、その展示タイプ別にふりかえってみたい。

カタログ/ディダクティック/アート
最も多かった一つ目のタイプは〈カタログ〉、建築プロジェクト展示である。模型や図面、写真を用いたコンベンショナルな展示方法で、北欧館のスヴェレ・フェーン展などが含まれる。しかし、「なぜ今ここで」という疑問が生じるのは、展示の内容と質の問題だけではなく、ビエンナーレ全体を見ようとするとで果てしない量があり、「はたして何日費やせばお目当ての展示を全て発見出来るのだろうか」という、呆れにも似た諦めの気分に直ちにおそわれるビジターが多いと推測されることからも当然のことだろう。
並んで入った苦労の末に、すでにどこかの建築雑誌や書籍に掲載されている類のものを見せられるのは、わざわざ有休を使ってまでして遠くから来ている多くのビジターたちにとっては酷というものだ。
しかし上に挙げたフェーン展のみならず、ザハ・ハディドの《ホンコンピーク》時代からのオリジナルドローイングをまとめた展示や、同じくレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』に用いられたドローイングシリーズ(およびその動画!)などの20世紀古典の展示には圧倒的力強さがあった。それに時間をかけて見られない状況であることも不満の一因だった。
2つめのタイプは〈ディダクティック〉、啓蒙・説明的な展示である。
今年はエコなどのように、むしろ建築以外の文脈ですでに多くが語られている主題についてわざわざご丁寧に解説してくれているものが多く見受けられた。エコを取り上げることは時流にかなっており、批難するつもりはないが、しかしキョウト・プロトコルについての新たな見解とその可能性について、ヘッドフォンから流れる説明に集中しつつ、今ここでじっくり説教を受けたいとは思えない。気の毒だがそんな気分になれないのがヴェネチアという場所なのだ。

〈カタログ〉、ジャルディーニ、北欧館、スヴェレ・フェーン展(国・地域別出展) 〈ディダクティック〉、ジャルディーニ、デンマーク館、ECOTOPEDIA展(国・地域別展示)
左:〈カタログ〉、ジャルディーニ、北欧館、スヴェレ・フェーン展(国・地域別出展)
右:〈ディダクティック〉、ジャルディーニ、デンマーク館、ECOTOPEDIA展(国・地域別展示)


あまり多くはない3つめのタイプは〈アート〉、インスタレーション的な展示である。
リビドーの政治学が取り巻くこの巨大イベントにおいては、瞬時にして好きか嫌いか、つまり立ち止まって見学するか次へ行くかの判断ができ、かつそれ以上の積極的関与が期待されていない空間(=展示)が、ビジターにも好意的に受け入れられているように思われた。

本来ならば昨年行なわれるべきだったベルギー館建築100年祭を皮肉たっぷりに101年目に祝ったAFTER THE PARTY展は、まさに宴の後のようにカラフルな紙ふぶきを床一面に広げるだけの単純なものだった。しかしごくシンプルな操作によって空間に祝祭性を充満させつつ、カーニバルの華やかさをほうふつとさせるその広がりは、同時に名建築が並ぶビエンナーレ会場へのオマージュとなっていた。しかしながらベルギー館のように好感のもてるインスタレーションは、アート的展示のなかでも少数であったと言わざるを得ない。
おなじみザハ・ハディドの、家具でも模型でもない、あるいはその両方であるような空間的彫刻作品は、個人的には嫌いではないのだが、相変わらずその置かれている場所との折り合いが悪い。フランク・O・ゲーリーに至っては、彼が建築で成し遂げていることの半分も達成していないように思われた。そんなおなじみの面々の中にあってフレッシュなものを見せてくれたのは、ヘルツォーク&ド・ムーロン。しかし皮肉なことに、北京スタジアムでのコラボレーターだったアーチスト、アイ・ウェイウェイがほぼ全てを作成している。アイ・ウェイウェイの作品群をある程度知っていれば今回の作品自体に目新しさはないのだが、その脆弱さを内包する展示によって、いかに建築家たちがロゴセントリズムの世界から抜け出せずにいるかということをショッキングなまでに思い知らされるというのが新鮮だった。

〈アート〉、ジャルディーニ、イタリア館、アイ・ウエイウエイ/ヘルツォーク&ド・ムーロン展(建築家別出展) 〈アート〉、アルセナーレ、マッシミリアーノ・フクサス展(建築家別出展)
左:〈アート〉、ジャルディーニ、イタリア館、アイ・ウエイウエイ/ヘルツォーク&ド・ムーロン展(建築家別出展)
右:〈アート〉、アルセナーレ、マッシミリアーノ・フクサス展(建築家別出展)

〈アート〉、アルセナーレ、UN STUDIO展(建築家別出展) 〈アート〉、アルセナーレ、ザハ・ハディド展(建築家別出展)
左:〈アート〉、アルセナーレ、UN STUDIO展(建築家別出展)
右:〈アート〉、アルセナーレ、ザハ・ハディド展(建築家別出展)


建築家と展示
建築家による展示とは何なのだろう、建築家がアーチストの真似事をすることの意義は何なのだろうかと思っていると、前年(2007)に同じ場所でみた現代アートのビエンナーレの記憶がよみがえってきた。都市空間的とも解釈出来る圧倒的な量と同時性のインパクトを演出しながらも、すぐ隣りにいる友人が語りかけてくるような親密性を体験できるソフィー・カルの展示、改めてインスタレーションされる前の元の空間の日常性に思いを馳せてしまう仕組みをつくって見せたモニカ・ソスノヴスカの脱インスタレーション的展示などなど。
展示することの仕組みの中で活動している人たちの完成度の高いインスタレーションと較べると、こうやって集合体としての結果を見る限り、建築家は展示に関してはやはり素人なのだと思わざるを得ない。
映画祭やアート展と違って、建築展は本業の作品をそのまま見せる場所ではない。通常の表現メディウムとは異なるメディウムでの表現発表の場なのだ。
何の為に建築ビエンナーレがあるのか。何の為に建築ビエンナーレに出展するのか。展示によって建築家は何を示せるのか。その認識の差が展示形式の差を生じているように思えてならない。その結果、建築ビエンナーレは、〈認識の差〉の大博覧会となっていると言ってしまっても良いと思う。

その点、展示でありながら建築であるというメビウスの環の展開に挑みかけた今回の日本館の展示は、建築ビエンナーレという形式自体を問い正し、新たな可能性を示すことを意識的に行なっていた特異な存在であった。
石上(建築)、大場(植物学)、五十嵐(コミッショナー)のチームにより形を与えられた〈風景〉 (EXTREME NATURE: Landscape of Ambiguous Spaces)という展示は全て吉坂日本館に寄りそうように外部に設置されている。
非対称のサポートシステムにより支持される3つのガラスの構築体は温室であり、人のための空間ではない。人は入れないのだ。
温室間に形成される外部空間は、近くのフリーマーケットで見つけてきたというごく日常的な家具であたかもリビングにいるかのようにしつらえられている。しかしそこは外部であって内部ではない。外にあるリビングから建築内部の植物を眺めるという設定の、この反転した場がメインの展示空間となる。
そして椅子に腰かけたときの低く近接した目線においては、5メートルもの高さのあるガラス面の全貌を見ることはなくなり、複数のガラスの積層と内外の植物の効果によりどこが内部でどこが外部かが瞬時には判断つかなくなる。認識に遅延を生じさせることで特殊な奥行き感を与えている。
温室内外には、現地自生のごくありふれた植物から特殊な植物まで、さまざまな種が注意深く植えられているのだが、これから秋に向けて寒くなるにつれて、温室内では植物の季節変化に対する対応にも遅延が生まれてくるだろう。空間的奥行きだけでなく時間的な奥行きにも揺さぶりをかけるような仕組みになっている。
私は瞬時に「これは建築だ」と感じた。

ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館 ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館 ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館
ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館
ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館


EXTREME NATUREとしての建築
これを建築としているのは高さでもなければ、土台基礎でも、コンピュタ解析による風圧力までを考慮にいれた構造エンジニアリングでもない。植物との関係が、これを建築たらしめているのだ。
地面から生えている植物が構造体の1本に絡んでいる。この小さな事実が発展して、この構築体を建築へと促すのだ。
ロージェが示したCabane Primitive と同様に、植物と人間の操作が寄り添うことで姿を現わす建築起源神話のイメージの再投影であり、ビジターを建築の起源と定義の発見の場へといざなう。人間が内部に入ることを条件としていない点においてもCabane Primitive と同様に、建築とはシェルター(洞窟)の発見に伴うのではなく、あくまでも理性によることを強調している。
そうだ、建築とは理性のことだったのだ。

ロージェ《Cabane Primitive》
ロージェ《Cabane Primitive》


しかし石上の展示─建築はそこに留まらない。建築─展示を通して再度理性に働きかけるのだ。理性に揺さぶりをかけるのだ。理性の座屈強度を確かめるかのように。新たな空間性でもなく、新たな構築性でもなく、理性への挑戦を通して建築を臨界点まで拡張する。
それは他の多くのヴィジョナリー─建築家たちが試みる新たな空間性でもなく、新たな構築性でもない。それはごく身近な日常性と隣あわせの理性への挑戦を通して、建築を臨界点まで拡張することなのだ。

それがものの本質の極限値(EXTREME NATURE)を見定めるための方法論であり、それが建築にとって新しい可能性となりえること示した。それを不慣れなインスタレーションではなく、建築そのもので示すという建築展のジレンマを超克して見せている日本館は、金獅子賞を受賞する質と品格をありあまるほど持ち合わせているかに見えた。ただ、〈認識の差の大博覧会〉の審査員との差を埋めることは出来なかったようだ。

建築がクライアントの手を遠く離れて、メディアのための情報資産と化して久いが、それを助長するのがこのイベントの目的なのだろう。だから今さらゲーリーが金獅子賞(功労賞)を受賞したときいても誰も驚かない。おそらく主宰者にとってはこのイベントを映画祭のようにより多くのメディアの関心を集められるようなものにすることの方が重要なのだ。
建築の未来は建築自身では支えられない。民衆の関心を勝ち取ることが生存の近道なのだ。それが彼らのポピュリズム建築観であり、それが彼らの出した今年のお題〈ARCHITECTURE BEYOND BUIDLING〉が文字通り意味するとこなのだ。
最近建築に手を出し始めたというブラッド・ピットに主演建築家賞という新しい賞がが差し出され、建築ビエンナーレが映画祭と一体化する日もそう遠くないかもしれない。そう思って訪れるとより楽しめるかもしれない。

[きむら ひろゆき・建築家]
1971年、北海道生まれ 1997-98年スイス連邦工科大学留学、1999年東京大学大学院修了
1999年よりDiener & Diener Architekten(スイス・バーゼル)勤務


200810


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