都市に住むこと/都市を移動すること

森山大道+南泰裕

神戸、大阪、京都
南──今日は写真家の森山大道さんに、「都市に住むこと/都市を移動すると」というテーマでお話を伺いたいと思います。ご紹介するまでもなく、森山大道さんは日本を代表する写真家なわけですが、森山さんはちょうど僕がこの『10+1』誌に寄稿するようになった頃、同じ雑誌に写真を連載され始めていました。その連載写真は目をみはるものでしたが、写真もさることながらテキストも読み応えがあって、この写真家は一体どういう人なんだろうと、僕は強く関心を持っていました。その後『美術手帖』2003年4月号の「森山大道・中平卓馬」という特集で、森山さんについてインタビューに答える機会がありました。また、2004年には『都心に住む』という雑誌で、東京の湾岸を森山さんと二人で歩き回り、丸一日にわたってご一緒させていただく機会をいただきました。
そうしたかかわりの延長で、今日はまず、「都市に住むこと」というテーマからお話を始めたいと思います。森山さんは大阪で生まれ育ったとのことですが、最初に森山さんの幼少期を含めて、「都市の原風景」ということについて伺いたいと思います。初めにもっとも鮮明に記憶している都市の風景は、どのようなものだったんでしょうか?

会場風景
会場風景

森山──僕は大阪の池田という街に生まれ、その後父親の仕事の関係ですぐ島根の田舎に預けられます。その後さらに広島に移り住むのですが、ですから土地の記憶というのは広島からということになるんでしょうが、その後あちこち転々とします。明解に「住む」ということを記憶しているのは戦前ですが千葉ですね。その辺りから生活も含めて都市に住むということを意識し始めたかもしれない。

南──いろいろな都市を移り住むといった過程で、それぞれの街に対する愛着のようなものはありましたか。

森山──それは子供なりにありました。ただ、短期間に小学校を4回も変わっていますから、定住という感覚は希薄ですね。引っ越しするにしてもみかん箱にサッと荷物を詰めて次の場所へ移動して、その荷物が新しい家に馴染む頃には次にまた荷造りするということの繰り返しでしたから、引っ越しの記憶ばかり鮮明に残っているんですよ(笑)。だから固定的な友だちはできないし、学校というと転校の挨拶とまたお別れの挨拶ばかりでした。ただ、子供ながらまだ見ない次の街へ行く期待感というのはどこかにあったことも事実ですが、短い間でも住んだ町を離れることの淡い寂しさのようなものは常に感じていました。

南──そうした生活はいくつくらいまで続いたんですか?

森山──小学校5年のときに大阪の豊中に戻り、その頃から京都、大阪を含めた関西でした。

南──その頃の関西での生活で、写真家として自立するための模索をしていらしたと思うんですが、特に記憶に残っている街や出来事はありますか?

森山──同じ関西でも京都、大阪、神戸というのは街の雰囲気がまるで違うんですよね。中学生の時、僕は船乗りになりたくて神戸に入り浸っていました。ですからそのときの興味のありようで街との関係が密接になったりするわけですが、大阪が一番いやだったですね(笑)。

南──それは何故ですか?

森山──今は大好きなんですけれども、大阪のあのコテコテ感がどうも苦手でした。早く大阪を出たいと思っていました。

南──神戸にはその後もよく出かけられていたんですね。

森山──ええ、三宮と元町を結ぶガード下のDPE屋さんでバイトしていたんですね。神戸はハイカラというかロマンチックなイメージもありましたし、船も好きだったこともあって神戸にはいろいろ思い出がありますね。

南──僕もかつて神戸に住んでいましたが、小さい頃は、神戸の山の手はなんだか近づきがたい気配を持った街だなあ、という意識がありました。それに、神戸、大阪、京都は距離的にも非常に近いのですが、それぞれ、どこか違う世界だなあ、という感じがありましたね。神戸と大阪と京都の距離感は、東京で言えば都心と八王子くらいの距離しかないでしょう。でも関西のこの三つの都市は、近いがゆえのはっきりとした空間的な差異があって、心理的な距離はとても遠かったように思います。

森山大道氏 南泰裕氏
左:森山大道氏/右:南泰裕氏

かつての街の記憶
森山──神戸に限らず街はさまざまなエリアによって構成されていますでしょう。神戸は湊川神社、新開地と山の手はまるで雰囲気が違います。また、三宮、元町もそれぞれ違ったイメージを持っている。神戸のそのエリアによる街の違い方はとてもよかったなという感じがします。
先ほどもいいましたように、僕は小学校5年から20歳くらいまで大阪、神戸、京都あたりをうろついていたわけですが、それはそれぞれタイプの違う街を記憶していることになるわけですね。それが後の自分の写真を撮るときの潜在的な何かになっていることは間違いないですね。

南──その当時と今とでは、街に対する思いや印象はだいぶ違いますか?

森山──時代が昭和20年代後半から30年代半ばにかけてですから、当然ですが、街も人もが今とはだいぶたたずまいが違います。しかしかつての街の記憶を僕はいっぱいもっている。そのことはその後の自分にとってとてもよいことだったんだなという気はします。

南──その違ってしまった街に対して、かつての街と変わらずにあってほしかったということはないですか?

森山──僕はいい加減なタチなのであまりそういうことはないです。昔はよくて今はダメみたいな見方はできないんです。ただ、京都の今はちょっと退屈ですね。笑っちゃう。逆に昔嫌いだった大阪が今面白くてしょうがないんですよ。それは僕のその後の時間と経験との関係がそうさせているんですね。そして神戸はいまだにあこがれの街かな。しかしいずれにしても、ある特定の街への郷愁といったものは僕にはないです。

南──今森山さんがおっしゃったことは、森山さんの写真を見たり、テキストを読むと感じられることでもありますね。一般的には、新しいものが古くなって郷愁の対象になり、建物の場合には保存問題が出てきたりしますが、森山さんの場合には、それをあっさりと超越してしまっている印象を受けます。例えば森山さんは、「原風景」はないと書かれています。それは故郷を否定しているのではなく、むしろそれを何十年もかけて人為的かつ意志的に作り上げようとしているように感じられるんですね。

原風景
森山──僕は文章を書くときについつい「原風景」という言葉を使ってしまうのですが、それは結局ヴァーチュアルなもので、その「原風景」は確固たるものではなく、さまざまな都市風景が織り混ざった風景にすぎないのだと思います。それを「原風景」だと思いこもうとしている。それだけに面白いのかもしれない。同時に写真に対しても「原点」とか「原質」──「原」ということ──という言い方に対してはちょっと疑わしいぞと思っているんですよ。何故かと言えば少なくとも僕にとって「原点」というものは、実際には常に移動し続けてるものではないかと考えているんです。そういう感覚があるので、確固たるものは作れない。しかし、そうであるが故にそれを求めているというか、作ろうとしているのかもしれないですね。

南──森山さんの写真について、僕はこう思うんです。例えば文学の場合には、戦後の「焼け跡派」や、大陸から引き揚げてきてどこにも故郷を持たない、「デラシネ」の系譜に属する根無し草の文学みたいな流れがありますよね。彼らの文学は、確かに故郷をあらかじめ喪失してしまっているような気配がある。しかし、「焼け跡」にしろ「デラシネ」にしろ、それらは何か、帰るべき場所のようなものをどこかで想定しているという意味で、やっぱり「故郷」という伝統的な心情に依ったものには違いないと思うんです。それらには、人を安定した物語に回収させてしまう郷愁のようなものに、どこか依存しているところが見えてしまう。でも森山さんの写真は、僕が思うに、そうした文学者の作品とも明らかに違いますね。

森山──僕の写真は新しく撮っても、昭和20年代に撮った写真ではないかと見る人によく言われるんですね。結構時間が見取れなくなるらしい。例えば2、3年前に出した『新宿』は、ほとんど新たな撮り下ろしの写真ですが、ある小説家が、終戦後の新宿とあまり変わらないのではないかと言っています。それはチラッと嬉しいような複雑な気持ちなんですが、全体として言えることは、時間というのもそんなに短いスパンで捉えてもしょうがないのではないかということですね。写真の場合は「いま」しか撮れないのですが、しかし「いま」はどうにでも前後に行けるんだよという認識をもっているんです。

下田南豆製氷所

森山大道『犬の記憶』
(河出書房新社、2001)

INAXシンポジウム

森山大道『犬の記憶 終章』
(河出書房新社、2001)

東京の風景
南──森山さんの『犬の記憶』というエッセイ集は、現代文学においても重要な作品だと、僕は密かに思っています。それをうまく説明することは困難ですが、一言で言えば、今話しをしたような、故郷という伝統的な概念を、たんたんと小刻みに粉砕しているように感じるからです。
これに即して次に伺いたいんですが、関西で活動されていて、東京へ移動しようと思い立ったモチベーションはなんだったのでしょうか?

森山──それは二つあります。ひとつは当時大阪がとても厭だったこと。つまり、地方に住む若者の常で、東京に憧れていたわけですね。もうひとつは、上京する1年前に写真の世界に飛び込んだのですが、そこで知った東京の写真の世界に、東松照明さんやその後僕の師匠になる細江英公さん、奈良原一高さんたちがいて、この若いスター写真家たちは非常に新しい表現を試みていました。それを大阪で見ていて、やはり東京で写真をやりたいなと。自分もそうなりたいなと思ったんです。

南──そのときに、何かができる見込みのようなものはあったんですか。

森山──一応、当時の大阪の僕の先生だった岩宮武二に紹介状を書いてもらったんです。しかし実際東京に出てどうするという具体的なあてはなくて、なんとかなるくらいにしか思っていますせんでした。

南──上京したばかりの東京の風景で、印象に残っているものはありますか?

森山──その頃新幹線なんてないですから電車は東海道線です。横浜を過ぎて東京までの間の街が妙に印象に残っています。最終的に着いたところは新宿で、取りあえず泊まるところは上北沢にあったのですが、新宿駅を出たときには途方に暮れ、呆然としていましたね。だからその後の僕のすべてはそのとき新宿から始まったと言ってもいいくらいです。

南──大阪と東京というのはかなり違うと感じましたか?

森山──街も人も、体感が全然違うんです。

南──上京したのは1960年代初め、高度経済成長期の少し前ですね。

森山──大阪の活気とはまたスケールの違う、目の眩むような大都会に映りましたね。

南──今の東京にはその頃の面影は残っていますか?

森山──お茶の水の聖橋なんかは、周辺は変わっていると思いますが、東京に出てきたときの匂いとイメージが今でも重なりますね。歌舞伎町のコマ劇場あたりも、僕にとってはあまり変わらない東京ですね。

南──その後現在まで、東京を転々とされてますよね。上北沢から始まって、どういうところを移り住んでいったんでしょうか。

森山──上北沢は僕の知人のアトリエでそこに1年位住んだかな。アトリエを建て替えるというので、半年位大久保のドヤ街に移り住んで、その後細江英公さんの助手になったんですが、細江さんが仕事場を作られたので今度はそこに寝泊まりしてました。助手は3年ほどで独立し、九品仏に仕事場と称するアパートを借りて住み、それからは現在に至るまで東京中を転々とするわけです。

南──仕事する場所と住む場所が同じというか、ほとんど仕事場に住み込むという感じですか。

森山──そうです。仕事場と称して借りるとそこがねぐらになる。自宅のある逗子にはほとんど帰りませんでした。

南──仕事場に寝泊まりするということは「住む」という感覚、生活感覚と少し違いますよね。いずれはきちんとした住まいに、という意識はありましたか?

森山──僕の写真は基本的に街や路上をカメラを持ってブラブラして、撮ることのきりのない繰り返しなんです。それしかやってこなかったとも言えます。子供の頃からあまり友だちを作らないで、街中をひとりウロウロするのが好きだった。子供の頃はカメラを持っていませんでしたが、商店街のさまざまなものを飽かずに見て回る。そういう街の記憶が僕の中に堆積しています。東京へ出てきてフリーになってからもそれは変わりません。子供の頃との違いは、手にカメラを持っているというだけのことですね。そうして東京のさまざまな場所を転々として、その周囲を羊が草を食むように撮り歩く。犬とかネコがマーキングするのと同じですよ。ある日ふとそれに飽きてしまったときに次に引っ越すんです。延々と何十年もそれをやってきたし、今もそれをやっているわけですから、家を構えるとか立派な事務所をという発想はありません。

東京での「住み方」
南──その東京での「住み方」というのは、森山さんの写真の方法論と関係があるわけですね。

森山──方法論なんてものではないのですが、自分の性癖が街を選ぶという点で写真にもそんな性癖が関わっているんじゃないかな。

INAXシンポジウム
下田南豆製氷所

南泰裕《PARK HOUSE》(2002)

南──大都市を徘徊して写真を撮り続けるというのは、とても孤独な作業じゃないかなと思うんですが、60年代末の学生運動の時代に対して、森山さんはどんなスタンスを取られていたんでしょうか。

森山──60年代末から70年代の初めの時期、僕は『プロヴォーク』という同人雑誌に1年半ほど関わっていたことがあります。しかしその時も思ったのですが、僕自身はあまり人と一緒に何かをやるとか、繋がるというのはダメなんです。興味もない。例えばベ平連のフランスデモにいやいや参加しても100メートルも行くともう限界ですぐにコーヒー屋に入ってしまう。そのくらいノンポリで、政治的な動向に関心はありませんでした。もちろん当時青山通りに仕事場があったし、新宿にも入りびたっていたから、風景としては敏感にならざるをえないし、シヴィアな感応はびんびんありました。だからといってその中に入っていってどうこうしょうという気にはなりませんでした。
僕には、写真というのは基本的には一人で撮るもんだという認識がありますから、その時代でも、カメラを持って街をウロウロすることと、路地裏で酒を飲むことだけに無上の喜びを感じていました(笑)。
大通りから路地に入ってさらに路地裏を歩く。また、別に都市と言わなくても、さまざまなものが混在している街の中に入って写真を撮ることはとても魅力的、刺激的で、毎日撮っても飽きません。ただ、僕の意識の下にもしかしたらあるかもしれない政治性のようなものがそうした日常スナップのなかにふと露われるということはあるかもしれません。

南──都市を徘徊することの居心地のよさ、とおっしゃいましたが、居所が定まらない不安を感じることはありませんか?

森山──当然不安の要素は四六時中はあります。しかし、それは考えこんでみてもどうしようもないだろうなと思います。僕には1年単位で生きていこうという気分がいつもあります。今年1年何とかわがままにやれたんだから来年もきっとできるだろうという感じです。そういう風に何十年もやってきた。だから2年も3年も先のことは知らない(笑)。
図太いのかもしれないですが、不安を抱えたままなおブラブラ歩きたいわけです。そういう欲望だけがあって、僕にカメラワークとか方法論がもしあるとすればそれです。毎日写真を撮るということは、言い換えるとつらさの日記を書いているようなものです。しかし、日記がある意味密かに書かれるものでありながら自己顕示的な部分を持っているのと同様、写真もただ撮っているだけでは厭なんですね。欲望にもとづく自己顕示と、密かに写真を撮り歩く自分との二つを常に転がしながら、限りなく何とかしたいと思っているわけですね。

南──東京以外で住んだ都市で印象にの残っているところはありますか?あるいは楽しかった場所とか。

森山──短期にしても東京を離れることは何か理由があったわけですよね。なにものからのリアクションとして東京を離れる。80年代のパリに行ったこともそうでした。札幌に滞在したときも、自分の気持ちが写真との間で肉離れをしてしまっているわけです。しかしそういう時はただ自分に甘えているにすぎないので、結局何事も改善されることなんてないんです。過ぎてみれば当時がある意味懐かしかったりしますが、パリはあまりに寂しかったので、2年足らずで帰ってきてしまいました。つまりその時のわびしさの状態で、ある場所が後に鮮明な記憶として残ったりするんです。
ですから、楽しかったということはあまりないですね(笑)。まあ、ひとつ挙げるとすれば、椎名町の四畳半のアパートかな。現実的精神的な状態としては最悪だったのですが、東京都内中を辿ってきた場所の中では、その半年は不思議に楽しい記憶として残っています。いろいろな問題から逃げていたときですけれども、基本的にやる仕事もないから主に西武線沿線や東武線を毎日写真を撮ってました。

INAXシンポジウム

森山大道『Buenos Aires』
(講談社、2005)

新宿・ブエノスアイレス
南──東京をいろいろと移動する一方で、「新宿」には一貫してこだわりを持っておられますよね。森山さんが「新宿」という街にこだわる特別な想いというのはなんですか?

森山──最近ちょっと新宿から少し気持的に離れたほうがよいかなとふと思うことがあります。しばらく前は東京のいろいろな場所を撮っていたのですが、それらの場所を消去していくと、結局新宿に収斂されるんですね。ほぼ毎日今でも新宿を歩いていますが、歩くとやはり撮りたい。だからもう一度だけ新宿を撮って写真集を作ってみたい。夜の10時くらいから3時頃まで、新宿の人種や街の生態を見ているとやっぱりここだなという感覚が僕の中にまだ残っているんですね。それから東京全体を考えてもいいような気がしています。

南──昨年出版された『ブエノスアイレス』は、日本からみると地球の正反対の位置にあるような場所ですが、前からこの都市を撮りたいと考えていたんですか?

森山──ブエノスアイレスに関しては、写真を撮りたいということではなく、ずっと昔からロマンチックに憧れていたところです。あそこは、混血の街ですから、そういう人たちが作る都市にはもともと興味がありました。ブエノスアイレスは僕の体質体温とひびき合う街でしたので、単純に写真を撮るという目的だけでなくまた行きたいです。

南──森山さんがこれから行ってみたい都市は、例えばどんなところですか?

森山──ニューヨークやパリも好きなんですが、メキシコシティにはやはり惹かれます。ここもさまざまなものが混在する街ですね。ブエノスアイレスも含めて、そこから生じる猥雑さに僕は惹かれるんですよ。

南──メキシコシティは人口2000万人規模の、世界有数のメガロポリスですからね。巨大な人口規模が現出させる、都市の怪物的な力というものがあるんでしょうね。
今日、当初テーマにしたのは「住む」と「移動する」ことだったのですが、森山さんのお話を聞いて、それはナンセンスだと思えてきました。森山さんにとっては、「住むこと」と「移動すること」が分化されていないし、むしろその方が自然であって、森山さんの生き様と写真の方法論は、「住むこと」と「移動すること」が分節されていること自体の、現代的な批評になっているんですね。
僕は森山さんの写真をいろいろ拝見し、著作を拝読しながら、森山さんの写真というものについて改めて考えていて、マルセル・デュシャンが提出していた「アンフラマンス」という概念がふと浮かんだんです。「アンフラマンス」は「極薄」と訳されていますが、現実と虚構の間隙をかろうじてつなぎとめながら、現実を虚構化する力を持った薄い膜のようなものとして、森山さんのカメラがある、と。だから森山さんの写真は、その「アンフラマンス」を通して、現実の一部なのに現実からほんのわずかだけ、虚構のフィールドに踏み込んでいる気配が漂っている。それはきっと、ドメスティックな「故郷」や「居住」といった概念に対して、それを否定するというのではなしに、ほんのわずかだけ、写真の力によってずらし、「移動」や「徘徊」といった概念につなぐ経路を創り出しているのではないかと思うんです。
プロパーでない僕が、森山さんの写真について包括的に語る資格は、恐らくないし、それは膨大な知見が要請されると思うのですが、最後に一言だけ、個人的な視角から言わせていただくと、森山さんの写真には死のにおいが感じられないんです。これは、「プンクトゥム」という始点から写真を読み解いたロラン・バルトの写真論に、納まりきらない部分ではないかな、と秘かに思っています。そしてそこが、森山さんの写真のすごみであり、還元不可能な魅力でもあるのではないか、と思います。バルトの写真論には、死に則した何かがあるような気がするからです。
ともあれ、「住むこと」と「移動すること」というテーマ自体を、こうした形でさらりと脱力させる森山さんの力に、心地良い驚きを覚えています。
今日はどうもありがとうございました。

[森山大道]
1938年生。写真家。大阪府池田町に生まれる。「にっぽん劇場」などのシリーズによって日本写真批評家協会新人賞受賞。68年中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦らによってスタートした同人誌『プロヴォーク』に参加。その作風は「アレ、ブレ、ボケ」と称され、多大な影響を与えた。写真集=『にっぽん劇場写真帖』『光と影』『犬の記憶』『仲治への旅』『サン・ルウへの手紙』『Daido hysteric no.4』『森山・新宿・荒木』(荒木経惟との共著)『ブエノスアイレス』ほか。

[南泰裕]
1967年生・建築家。アトリエ・アンプレックス主宰。東京大学、明治大学、東京理科大学、東京外国語大学非常勤講師。作品=《PARK HOUSE》《三丁目カフェスペース》など。著書=『住居はいかに可能か』『ブリコラージュの伝言』など。

[2006年1月22日、青山ブックセンター本店]

200603


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