アンビルト・メディア・制度──「アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展1950-2005」評

南後由和

2004年12月21日から2005年3月13日まで六本木ヒルズの森美術館で開催中の「アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展1950-2005」が開催されている。この展覧会はフランス、オレルアン市のサントル地域現代美術振興基金(以下FRACサントル)が14年間にわたって収集したコレクションに、ポンピドゥー・センターの所蔵品と日本の建築家からの出品作を加えた、模型150点、資料350点の500余点の出品物から構成され、約90人の建築家・アーティストによる222件のプロジェクトが紹介されている。「アーキラボ」は1999年から開催されている「ユートピアと実験」をテーマとした現代建築の国際会議の名称でもある。本展では1950年から現在までの実験的プロジェクトの流れを一挙に体験することや、50年、60年代には実現を想定していなかったアイデアが現在の情報技術の進展や新素材の開発によって実現可能になったことが確認できる。
会場の入口には、ギー=エルネスト・ドゥボールとコンスタント・ニーウウェンハイスらシチュアシオニストの「作品」が、彼らの活動コンセプトの一つであった「漂流」というテーマのもとに展示されている。「漂流」とは心理的な起伏や偶然の出会いに身をまかせ、彷徨い歩きながら、スペクタクル化する都市を脱臼させる批判的な試みである。来訪者は文字どおり、圧倒的な数の実験的プロジェクトの中を「漂流」させられることになる。

ギー=エルネスト・ドゥボール《心理的なパリ・ガイド:愛の情熱についての論考。人は漂流しつつ心理地理的にどこを志向するか、それぞれの場所に特有の雰囲気について》
ギー=エルネスト・ドゥボール《心理的なパリ・ガイド:愛の情熱についての論考。人は漂流しつつ心理地理的にどこを志向するか、それぞれの場所に特有の雰囲気について》、1957
折り込み地図(『Potlatch』誌29号)

館内の案内板には、「緑印が展示キャプションに付いている作品は、実現化したプロジェクト」とある。アート作品は別として、出品物の大多数を占める印が付いていない作品は「アンビルト」の建築ということになる。「アンビルト」の建築は、重力、敷地、技術、クライアントといった、建築をめぐる制約を逆照射していることや、それを「ビルト」の関係性の中で捉え返すことが興味深くもある。しかし、本展に足を運んで考えさせられた点は、「アンビルト」(という建築の自己否定の身ぶり)によって、建築が自律的なシステムを構築、確証していく過程、さらにはその制度化にある。本展に関する概観的なレヴューは今村創平や南泰裕のそれ★1に譲らせていただくとして、本評では上記の点に焦点を絞ることにしたい。
周知のとおり、「アンビルト」には大別して、技術的、経済的条件やコンペティションでの落選によって実現に至らなかったものと、最初から実現することを想定していないものがある。しかしながら、両者とも視覚的表現として定着させようという欲望と結びついたものであることに変わりはない。たとえそれが紙上のみで展開する批評行為であったとしても、「それを建築と呼んで新たにアンビルトという形式をビルトすること」★2は、あくまで「建築」(というシステム)の再生産にほかならない。実験的かつラディカルな試みも時間の経過とともに慣習化し、やがては常套手段となっていく。それゆえに建築家は情報技術、広告、ファッションといった「外部」を取り込み、新たな形式を生み出すべく「実験」を継続していかなければならない。「アンビルト」の建築の形式とは一枚岩でもなければ静的なものでもない。社会学者のニクラス・ルーマンの言葉を借りれば、「今や芸術の芸術たる所以は、芸術がそのような形式を絶え間なく放棄することを、芸術の企てとして意志しているという点に存する」★3と言えるだろう。
またルーマンは、「芸術が制度化され、補助情報(展覧会など)を備え付けるためには、さらに加えて、芸術作品が相互に《ディスクルスDiskurse》を行うことも必要になる。すなわち芸術が芸術を引用し、引き写し、拒絶し、革新し、皮肉る──これらいずれにおいてもまた、個別作品を超える照会連関が再生産されていくことになる。今日ではこの事態は、《間テクスト性》などと呼ばれている。換言すればこれは、芸術システムは記憶を用いねばならないということである」★4と述べている。50年代のチームXの結成は近代建築の硬直化した機能主義を乗り越えようとした試みであり、60年代の「建築の解体」は近代建築を参照しながらも異なった文脈を自ら設定する試みであった。そして現在は60年代の「アンビルト」に鏤められた可動性、可塑性、インタラクティヴ・システムなどに関わるアイデアを繰り返し参照していることが本展からもわかる(直線的な時間軸を想定したものではない、むしろ、断絶をも「建築」として生きることが興味深い)。これらのいずれにも共通して言えることは、建築(というシステム)は、たとえ「アンビルト」であろうが「建築の解体」であろうが、絶えず過去との関係づけや、再帰的に自身を反省しながら論理を展開するという自己言及を演出しつづけることで駆動してきたということである★5。たとえば、本展にも収められたレム・コールハースの《囚われの地球の都市》(1972)に関して、菊地誠は「先行する、英雄的なプロジェクトを区分けし、仮面化し、並べるという操作を通して、計画するという行為を終わりのない過程として開く」★6ヴィジョンを保持していたことを指摘していた。このように「アンビルト」は、「建築」という自律性を確証=拡張させる駆動装置として作用してきたと言えるのではないだろうか。

レム・コールハース《囚われの地球人の都市》
レム・コールハース《囚われの地球人の都市》、1972
(『錯乱のニューヨーク』挿絵 テムズ&ハドソン、ロンドン、1978)

なお、来訪者の中には、本展に並べられた模型、図面、ドローイング、写真、映像、CGといった膨大な数のメディア表現に驚かされた人も多いだろう。「アンビルト」の建築が、「建築」として、あるいは建築家が共通して使用し参照する資材として永続することが可能であるという点で、メディアとの関係を看過することはできない。また本展は、田中純の言葉を借りれば、「建築」が個々の表現形態に自己充足できるものではなく、「メディア間の差異と翻訳」のうちにしか存立し得ないことを如実に表わしていたように思われる。そこでは「建造物という現実を最高位とした階層秩序」が失われている★7

「アーキラボ」カタログ
「アーキラボ」カタログ

そして、「アンビルト」の建築の制度化を考えるうえで、今回のFRACサントルのような機関、森美術館のような美術館、ギャラリー、出版物といった社会的基盤は不可欠であり、その制度化は建築家のみならず、キュレーター、批評家、編集者、オーディエンスといったアクターを巻き込むかたちで補完される。六本木ヒルズの展望台に上ることが主たる目的であり、付随的に本展を覗いた来訪者に、このような「アンビルト」の建築を「建築である」と提示し、(お世辞じゃなく)立派なカタログ★8を刊行することは、(理解の有無や肯定/否定とは関係なく)「アンビルト」の制度化に一役買ったと言えるだろう。一方で、展覧会に陳列される「アンビルト」の建築は選別されたものであり、そこでは新たな階層化が生じている。
いささか古めかしい言い方になってしまうが、「アンビルト」の建築や実験的プロジェクトの意義を認めたとしても、それが誰の得になるのか、どのような利害関係のもとにあるのかを問うことも許されていいだろう。ピエール・ブルデューが、「諸作品がその差異、その偏差(間テクスト性のような)において考察された場合の、諸作品の形作る空間と、生産者および、雑誌、出版社、等々の生産の制度・機関が形作る空間の間には、かなり厳密な対応関係、一種の相同関係が存在する」★9と指摘したように、それは今や実際的な活動に従事している建築家同士の差異化や競争関係というミクロレベルのみならず、経済的、文化的に限定されたグループ間の利害関係というマクロレベルの中に置かれたものとして捉え返す必要があるだろう。シチュアシオニストの「作品」が置かれた入口の時点で、来訪者がそのような批判的な眼差し=「漂流」をも要求されていたのではないかと解釈するのは、穿った見方であろうか。

★1──今村創平「アーキラボという実験」(10+1web site、2005/01/11、https://www.10plus1.jp/archives/2005/01/11155944.html)、同「アーキラボ&アーキグラム DREAM MACHINES──夢の実験場」(『美術手帖』2005、No.861,pp117-124)、南泰裕「ARCHILAB──20世紀後半の建築的無意識を、スパイラルに横断する試み」(『STUDIO VOICE』2005、Vol.351、pp.56-57)。
★2浜田邦裕『アンビルトの理論』(1995、INAX)p9。
★3──ニクラス・ルーマン『社会の芸術』(2004、馬場靖雄訳、法政大学出版局)p483。
★4──同、pp.405-406。
★5──磯崎新『建築の解体』(1975、美術出版社)、同『建築という形式I』(1991、新建築社)、同『UNBUILT/反建築史』(2001、TOTO出版)などを参照。
★6──菊地誠『トランスアーキテクチャー』(1996、INAX出版)p.105。
★7──田中純「建築の(不)可能性から潜在的建築へ」(坂村健・鈴木博之編『バーチャル・アーキテクチャー──建築における「可能と不可能の差」』1997、東京大学総合研究博物館)p.16。
★8──森美術館編『アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005』(2004、平凡社)。
★9──ピエール・ブルデュー『構造と実践』(1991、石崎晴己訳、藤原書店)p.231。

[なんご よしかず・東京大学大学院学際情報学府博士課程]


200502


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