グローバリズム論の最も広い地平を

八束はじめ
山之内靖『再魔術化する世界 総力戦・〈帝国〉・グローバリゼーション 山之内靖対談集』
山之内靖
『再魔術化する世界 総力戦・〈帝国〉・グローバリゼーション 山之内靖対談集』
2004年3月発行
御茶の水書房
定価:2,520円(税込)
ISBN:4275003217
392頁

前にも書いたように、ここで取り上げる本は著者から頂いた本であることが多く(その割には無遠慮なことを書いたりする)、その場合知己であるからこそ送って下さるわけだが、今回は個人的には存じ上げないにも関わらず頂いた本である。それも本欄がきっかけとなった、つまり私が取り上げたネグリ/ハートの『〈帝国〉』の書評に今回の著者山之内さんがネットでたまたま行き当たり、そこにご本人のことも言及してあったために、それならということで近著を下さったというわけだ。しかも、私にしてみれば、前回の柄谷さんの本がいまの私の仕事の前半部分に関わっていたのに対して、山之内さんのお仕事はその後半部分に関わる。さらには『10+1』本誌に連載していた「グローバリズム」をいま最も積極的に取り上げている論者でもある。となれば──読者には個人的な事情ばかりで恐縮だけが──これを取り上げないという手はない。

本欄の読者には山之内さんは柄谷さんほどお馴染みではないかもしれないので、簡単に紹介をしておく。山之内さんは広い意味での社会学(歴史社会学──といっても近代だが)がご専門である。丸山真男と並んで戦後の論壇をリードした大塚久雄に師事された。つまり出発はマルクス主義にも近い市民社会派(大塚の、そしていまに至る山之内さんの研究対象のひとつの柱はウェーバーである)だったわけだが、徐々にその立場から離脱していった。ちなみに先頃亡くなった歴史家の網野善彦氏(ここでも言及されている)も戦後歴史学(への失望と自己批判)から離脱していった人で、いろいろな機会で語られたその述懐はやはり大変面白い、というか共感をそそられる。

山之内さんでも、戦中の記憶、つまり戦後知識人は皆それを暗い時代として語るが、(終戦時12歳とはいえ)個人的な記憶ではあの時代の人々はそれなりに明るい気持ちでいたし、主体的な時代との向き合いがあったのではないか、それをマイナスのレッテルのみで裁断していく戦後のやり方には違和感をもったという実感は、初出で読んだ際にも大変印象的だった。私の思考に影響を与えたのは鶴見俊輔や藤田省三らの『共同研究 転向』(平凡社、1959-62)だが、それと並行した吉本隆明の転向論(『吉本隆明全著作集 13』[勁草書房、1969])でも、軍国少年だった吉本が、後にファシズムに抵抗していたと称する知識人が輩出してきたのに仰天をした、自分の周りにはそんなものは気配もなかったと語ったのと似ている(ちなみにこれは、本書に登場する大澤真幸がある集会で感じたという、大学の研究者たちがいまのグローバリズムの周辺的な立場にある人々に対して、安全地帯からしている「理解」や「連帯」の理念の欺瞞性とも通じている)。これは別に戦争やファシズムの肯定論ではない。しかし安易な善玉悪玉論でそれを切る(戦後民主主義的な)スタンスを疑ってみる視線ではある。そうして行き着くのが、戦後と戦中は合理的な民主主義と非合理的なファシズムの断絶的な関係ではなく、むしろ底流においてつながっているのではないかという連続説である。戦中は山之内さんの用語では「総力戦」の時代だが、それは狭義の戦闘状態のみならず近代国家のマクロで統合的なポリティクスそのものの形容でもあり、それはさらに今日の「グローバリズム」とも関連しないではおかない。これが筆者の基本的な現在のスタンスである。

私も従来ファシズムとモダニズムを殊更対抗的に扱いがちな近代建築史の言説には深く懐疑的であり、両者は(時に弾圧などを生じたとしても)むしろ裏腹の関係だったと思っている──今回はそれを日本に関して考察した──ので、このスタンスは文句なしに首肯できる。山之内さんのお仕事との出会いもまずはこのフェーズを考察していくなかで、90年代の中心的な作業であった『総力戦と現代化』(柏書房、1995)とその姉妹編『ナショナリティの脱構築』(同、1996/こちらには山之内さんは名を連ねていないが、編者の一人である伊豫谷登士翁さんは、本書でも重要な役割を果たしている)を読んで以来だが、本書の冒頭にはこの共同研究への言及がある。両書とも必読の本である。それから『システム社会の現代的位相』(岩波書店、1996)や『総力戦体制からグローバリゼーションへ』(平凡社、2003)あるいは『グローバリゼーション』(作品社、2002)所収の討議(本書に再録)や山之内さんは直接登場はしていないが、問題を共有している『レヴィジオン2 超克と抵抗』(社会評論社 1999)などを読んだ。

総力戦の時代の代表的なイデオロギーは「近代の超克」だろう。もっともこれはネーミングのうまさとは裏腹に内実は結構いい加減な議論で、それだけならいま現在論じるほどの内容ではないが、しかし近代の限界が仮染めにも語られたことを、戦後の議論のように日本は真の近代化を体験していないのだからとあっさりと投げ捨てて良いはずはない(この時期にそれを問題にすべきだとしたのは竹内好の「近代の超克」である。私としてはレヴェルの低い「近代の超克」よりも京都学派の「世界史の哲学」のほうが問題にすべき内容があると思っているが)。山之内さんはこの問題機制自体を「トータルに不健全なものというふうには言えない」といいつつ、両大戦を経ることで階級社会からシステム社会(基本的にはパーソンズやルーマンなどから来ているが、それを修正して用いている。市民社会と公権力が分離不可能になっている状態という形容は多分にフーコーの匿名的な権力に近い。勿論、今日のシステムは国民国家の境界には閉じ込められていない)に移行しようとしているのに、18世紀的な市民社会像でそれを批判することは無理ではないかという。そこでは戦争と平和、民主化と国家統合は対立概念では必ずしもなくなる、その上でどのような批判理論を形成していくかが課題であるというのだ。総力戦の体制と福祉国家が必ずしも相反するものではなく通底しているという認識は、後者がすでに機能しなくなったポストモダンな状況、つまりグローバリゼーションのそれに対応している。ポストモダンを最初にいい出したのが(別に名誉になるようなことでもないが)建築の分野であるとして、少なくともモダニズムをいかに考えるか(超克するか)は我々にとって親しい課題であったはずだが、従来の議論は旧来の批判タイプの継続だった。私に言わせれば「文学界」の連中に比べれば遥かに見るべき「近代の超克」論を展開したはずの浜口隆一(建築版の「世界史の哲学」である「日本国民建築様式の問題」)の戦後の「民主主義の建築」のオプティミズム(への転向)はその典型である。あるいはそれを批判したより政治的な論者にしても、その政治的スタンスはどうあれ、基本的には社会主義リアリズム/プロレタリア文化理論から一歩もでていなかった。

山之内総力戦論の柱のひとつは『システム社会の現代的位相』などで取り上げられている戦中の大河内一男の社会政策論(大河内も確か鶴見/藤田の『転向』でとりあげられたと記憶している)である。余暇時間や労働条件の改善などが生産性を高める条件として有効だという大河内の社会政策論(山之内さんは「裏返しのケインズ理論」と形容している)が国民経済と消費生活を関連づける点で現在のレギュラシオン学派と類似するように、戦後福祉社会を先ぶれしているという議論である。これに近い問題は建築分野では布野修司が25年前に論じている。当時『建築文化』の連載で彼と一緒だった私には(当時の我々の在籍していた大学の入学時の総長が大河内その人で、私は彼の「太った豚になるよりも瘠せたソクラテスたれ」という名セリフの入った入学式の祝辞を聞いた)、布野の博識に圧倒されたことを含めて、ひどく衝撃的だった文章である。布野はそこで戦時には住宅営団にいた西山卯三の住宅政策の思想を大河内や風早八十二の生産力理論と関連づけたり、同じ大河内でも大河内一敏の科学主義工業などに言及しながら「計画」のイデオロギー(彼は建築計画が専門である)について語った(「運動としての建築」 初出=布野「国家・様式・テクノロジー」[『建築文化』1975年11月号、彰国社、1998 所収])。この部分は若い私には(彼の方がもっと若かったわけだが)目から鱗くらいのインパクトのある記述だったが、今度の仕事では、布野の(別の面での)見解の一部は批判したものの、この部分は(ようやくいまになって)展開することができた。

本書にはマンフレッド・タフーリの仕事への言及がある。言及されたのはタフーリの仕事のうちでもっとも社会的な文脈を色濃くした"Progetto e Utopie"(英語訳では"Architecture and Utopia"、邦題は『建築神話の崩壊』[彰国社、1981])である。原題にあるProgetto はもちろん英語のProjectだが、英語訳では単にArchitectureとされたようにニュアンスが違い、タフーリのProgettoには実存主義者のアンガージュマンに近いところがある。個々の計画というのみならず、空間や国家、社会への投企という感じだろうか? タフーリが良く使うほかの用語にはintervento(これも英語ではintervention)という、つまり直訳では「干渉」もある。どちらにせよ、建築や都市計画が経済計画などと同じく政治/社会/文化の下部構造に積極的に関わっていく〈Piano(Plan)〉のイデオロギーである。タフーリはマルクス主義者としてその臨界を究めようとした。それはウェーバー以来のドイツ社会学(とくにマンハイムやゾンバルド、ジンメルなど)の研究と20世紀のアヴァンギャルドたちの仕事、そして左右の全体主義国家の計画経済のみならずケインズ主義者による経済政策(戦後日本のレールを敷いたのも占領軍の一部であったケインズ主義者である)などを睨みながら行なわれた。それは、山之内さんが言及しているものでいえばウェーバー研究のデトレフ・ボイカートが「理性の夢」と呼んだものと同質のもので、従って文字通り「総力戦」の問題である。

前にも書いたことがあり、今回も触れたが、日本の戦後の国家シナリオである全国綜合計画にモデルを提供したのは、戦中の地域経済の手本として翻訳されたゴットフリード・フェダーの「新都市」だが、地域経済の専門家であったフェダーはナチの党綱領を書いた人物でもある。戦中にこれとは別の文脈でフェダーを(原書で)読んでいたのは西山卯三だが、戦後の彼が戦中の言動を如何に自己批判しようと(これは糾弾する意図ではない)、戦後左翼建築人の代表である西山がそれに関心をもったということ自体、「誤り」などという個人的な事柄より遥かに深い意味があると私は思うが、それは丸山や大塚の戦中の仕事に総力戦の論理に沿うものがあったという最近の指摘(山之内さんもされているが、ほかに中野敏男『大塚久雄と丸山真男──動員、主体、戦争責任』[青土社、2001]などがある)とも同じである。一部では山之内さんのこの連続論を歴史学では常識と化しているという幾分揶揄的な見解を見たことがあるが、確かにフェダーが戦後の教科書になったことは、私も授業で習ったくらいだから、個々の問題としては別に新しい発見ではないだろう。しかし、それを思想総体の事柄として問題にした論者はいなかったのではないか? その意味で山之内さん(およびそのグループ)の功績は大きいといわなければならない。

本書は基本的に書き下ろしの文章ではなく、対談ないし鼎談を集めたもので、第一部は山之内さんがその思想的展開を語るという構えになっている。だから内容的には初めての読者にもたいへん分かりやすく、私個人の読書歴や要約をこれ以上披瀝するよりも、実際に読まれることをお勧めする。しかも第二部はこのテリトリーに関する諸々の文献を取り上げて、山之内、伊豫谷の両氏と歴史家の成田龍一さんと対談形式でレビューするという内容で、関心を深めようとする読者には甚だ有り難いガイダンスとなっている(注が読みやすいレイアウトなのも助かる)。ちなみにタイトルにある「再魔術化」は、ウェーバーが近代合理性(官僚制を含む)の深化を「脱魔術化」と呼んだもの(それ自体が「総力戦」構造の根底にある)が深くマス消費(財の実質性から乖離したスペクタクル)に根ざしたグローバリズムの時代にあって「再魔術化」──別なことばではシミュラークル化──を起しているのではないかというジョージ・リッツァーの用語から借りている。

[やつか はじめ・建築家]


200408

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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