住宅論の風景

八束はじめ

前回につづいて住宅関係のレビューを、今度は建築寄りの視点から行なう。もちろんこれには厖大な蓄積があるから、ここでの作業がほんの一部のつまみ喰いになるのはいたしかたなく、ここんところ読んで関心を惹いた本ということで了解願いたい。

山本理顕『住宅論』 山本理顕『住宅論』(平凡社、2004)

まず山本理顕さんの『住居論』(平凡社、2004)が出た。これは基本的には、以前住まいの図書館出版局から出ていたものの新編であり、しかもなかの文章のいくつかは旧編のさらに10年以上も前のテクストだから、新刊というにははばかられるのだが、熊本の《保田窪団地》から最近の東雲や北京の大きな集合住宅に至るまでの実践と思想的にも連動しているし、実際いくつかはその作品発表時の文章でもある。ということは、これが古くかつ新しい課題につながっていることでもある。例えば、山本さんが原広司研究室に在籍していた頃に参加した海外の集落等でのフィールド・サーヴェイにおいてつくられた空間居住の図式が近作にも活かされているということなのだが、面白いのは、これが住宅というものは人間にとって最もベーシックな機能に対応した空間だから古今東西を問わないのだ、という議論とおよそ正反対の意図から描かれているということである。冒頭に置かれた「住宅擬態論」からして住宅の間取りなんてそんなに変わり映えするものじゃない、といいながら、でもその中身のほうはとっくにこの容器のほうを置いてけぼりにしてドラスティックに変わってしまったではないか、容器の旧態然としていることは誰の怠慢なのか、そこの隙間は何処から起因しているのだ、と彼は正面切って問いかける。この生真面目さが昔と(というのは結構お付き合いも古いからだが)変わらぬ山本理顕なのだ。現実の生活の変化にきちんと目配せしながらも、ある根本的なスタンスは頑固なばかりに変えていない。《保田窪》の「コモン」といわれた中庭は、ある意味びっくりするくらい古風なスキームでもある。坂本一成さんなどはこの閉じた共有空間には否定的で、彼は同じ熊本の団地で、住戸の足下迄いきなりほかの人々(同じ団地の住民ばかりでなく外部の通り抜けも含めて)が侵入してくるデザインとしている。でも、それがなかったら集住する意味があるのか、と「家族という共同体は〈共同体内共同体〉である」と定義する山本さんはいいたいのであろう。比喩的ないい方でしかないが、不変の構造へのまなざしは、それこそ構造主義人類学者のそれ(そういう意識があったとは思えないが)を思わせる。それがこの旧著にいささかも古さを感じさせない所以でもある。ただ、人類学者の対象である「冷たい社会」とは違って、近代のような「熱い社会」では上部の構造(構図)は常に動いてしまう。山本さんが苛立つのは、そのことではなく、また上記の普遍の構造でもなく、その間の関係性がスムーズにつながっていない(変形=変換されていない)、ということになのだ。これが立体的な認識であることを把握しないと、難解なことばや概念を使うわけではない、一見平明な彼の言説を理解することは容易でないだろう。できる向きには、そこから自分の構図に有効な函数を取り出すことができるに違いない。

上野千鶴子『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』 上野千鶴子
『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(平凡社、2002)
上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』 上野千鶴子
『ナショナリズムとジェンダー』
(青土社、1998)

そのような例の一人といっていいのか、山本さんの実践と理論に近づいていった一人が社会学の(という以上にラジカル・フェミニストとして知られているが)上野千鶴子さんで、彼女の本は前回に取り上げるのが筋であったろうが、同じ平凡社から出た『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(平凡社、2002)は相当の部分が山本理論と向き合い、また実際に二人で語りあった対談である。何でも以前奉職していた大学が同じで、山本さんが着任時に行なったレクチャーで《保田窪》を取りあげたのがきっかけということらしい。喧嘩の達人である(失礼)上野さんは、例によって《保田窪》について批判的な先制攻撃をかませたらしいが、そのあとには同団地の調査を一緒にするなどして交友が深まったとか。だからこの本は前記『住居論』とつづけて読むと面白い。建築家が設計する時に前提として計画「与件」を受け取らざるをえないのに対して、社会学者は当然それを検証するのが仕事である。しかし、調査や言説はそのままでは現実の実効性が少ない。だから前者のような状況に苛立っていた建築家と現場との回路を垣間みた社会学者が意気統合したとしても不思議はない。フェミニスト、あるいはコンストラクショニストとして振舞う時とは違って社会学のフィールドでは(あくまで図式的に分離したことへの異議はご勘弁)ずっとプラグマティックであり、この辺は山本さんと一脈通じるところがあるように思える。ただ、私のような観念論者には、「選択があっての自己決定ならいい」という上野さんの結論は、異議というわけではないが(やっぱりそうではあるだろうねぇ、といいつつ)、ちょっぴりその先に何かないものかとないものねだりをしたくなるのだが、これはまぁ、見捨ておき下さい。ちなみに同じ上野さんの『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998)の「国民国家とジェンダー」と題した第一章が、この事柄を別の側面から扱っているが、女性史のパラダイムチェンジを国民化のプロジェクトであると見る視点は前回取りあげた諸作と共通している。ただ、戦中と戦後の女性(イデオローグと大衆とともどもに)の連続非連続の問題は上記の諸作にはあまり見られないもので、私の転向論などとむしろ近いものがある。いわゆる歴史構成主義だが、この問題は敷衍すると長くなるので触れるに止めておこう。

歴史ものはやり出すと切りがないが、最近読み直してなるほどと膝を打った著作があった。日本語訳が出たのが1990年でひょっとしたら今ではかえって入手が難かしいかもしれないが、ロバート・フィッシュマン『ブルジョワ・ユートピア──郊外住宅地の盛衰』(小池和子訳、勁草書房、1990)である。前からもっていたのだから読んだはずだが、一向に記憶がない。全然理解できていなかったに違いない。まぁ、タイトルからして退屈そうに見えるし、デザイナー志望の学生だったら「勉強」用以外では見向きもしなさそうな本だが、それがじつは懐の深い本である。その埋め合わせという意味も含めて取りあげておきたい。

この本では、山本さんが(先日のシンポジウムなどで)明らかにしたかったらしい問題、つまり「住宅」というビルディングタイプ(我々が想定しているようなもの)が「近代建築」の誕生とともに発生したのではないか、という仮説に説得力のある解答が提示されている。このために、かなり前の本ではあっても読んでおくべき本なのだ。この本では前回取り上げたような家族史の近年の成果、つまり家庭像やその前提となる夫婦や親子の心性(メンタリティ)の変貌のようなものがちゃんと取り上げられており(前回挙げたアリエスやショーターと並ぶ重要文献であるローレンス・ストーンの『家族・性・結婚の社会史』(北本正章訳、勁草書房、1991)、それと住居のあり方の変容が関連づけられている点が画期的である。それによれば、この傾向は18世紀の後半期、前近代の終わりのイギリスに発生する。それまでは都心部の生活では仕事と家庭が分離せず(つまり公的生活と私的生活の別がなく)、貧富の階級も混在したかたちでの高密な居住形態であったが、産業化の過程で労働者階級とブルジョア階級のマス的な分離が成立していくとともに、後者がはじめて分離あるいは隔離された住環境としての郊外に移りはじめる(やや遅れてそれより内側に工業ゾーンが成立していく)。それはひとつには当時の英国教会の福音主義的なイデオロギー(一種の原理主義だが)の普及により、女性を仕事から分離すると同時に都会の「悪」からも隔離するという傾向が成立したためだというのだ。女性は、ここではじめて子供を育み夫に従い家庭を守る、という母/妻としての役割を割り振られる。母も妻も生物学上、あるいは制度上は古くからのものだが、ここでいう役割はその局限化された姿なのだ(住居一般と近代的な住宅の違いとも同じ)。守られ、愛情を注ぎ注がれる(そして囲い込まれるべき)対象としての女性像(母像でもあり妻像でもある)の誕生である。それはまた、私的な生活(プライバシー)とその器としての近代住宅の誕生の瞬間でもある。前者は後者の(当然であり昔からある普遍的な)前提などではなく、相互規定的に成立したものなのだ。当初、週末の別荘でしかなかったこの郊外住宅が、やがて夫たちだけが週明けに都心部に戻る(通勤)形態になり、近代的な核家族像に極めて近い一戸建て住宅となる。

この住宅はかつての貴族や郷紳たちの広壮なマンションあるいはメイナーハウスの縮小された模倣でもあるわけだが、それは一世紀後、つまり19世紀の前半以来、さらに縮小されたかたちで労働者階級の住宅(基本的には集合住宅)にも波及しはじめるというわけだ。じつはこの隔離の思想は明確に将来の(近代)都市計画の骨子であるゾーニングの理念を先駆けている。プライバシー(住居の独立性)とゾーニングというモダニズムの居住空間理念のスケール上の両極がここに成立する。何とも鮮やかな分析の手際であるというほかはない。ついでながら、この本ではイギリスやアメリカなどのような郊外化とは別の流れを辿ったフランスやオーストリアの事情もフォローされているのだが、ここではブルジョアたちは都心部の広いアパートに居を定める。これまた貴族達の都心住居の縮小モデルだが、当然ながら都心部では狭隘なためにすぐに飽和がはじまる。この圧力を緩和するために実施されたのが、19世紀の後半のオースマンのブールヴァールやウィーンのリングシュトラッセを核とする都心部の大改造である。後者の姿がアドルフ・ロースがブルジョアたちが貴族の生活をまねる「ポチョムキン」都市と批判したものである(この言及は本書にはないが)が、それはイギリス郊外住宅と同じシミュラークルなのだ。この本の分析が傑出しているのは、上記の様な郊外化の傾向の原因を経済的要因や(マスの)アクセスの確保(あるいは整備)などという通例求められがちな事柄に委ねているのではない、という点だ。むしろ、この郊外化はアクセスの不備によってこそ推進されていたりする(最も典型的な例はロサンジェルスの郊外化である)。分離が移住の条件なのだ。彼はそれをブルジョア階級の心性(あけすけにいえば下層階級は臭い、という──これ自体もおそらく近代の「発見」である)が機能(利便性)に優越すると主張する。

Monique Eleb, Architectures de la vie privxe. Maisons et mentalites, XVIIx-XIXx sixcles Monique Eleb, Architectures de la vie privée. Maisons et mentalites, XVIIé-XIXé siécles(Hazan、1999)

「心性」はいうまでもなくアナル派など近年の歴史学の中心的なテーマのひとつで、前回とりあげたアリエスの仕事もそこに位置づけられるが、もっと居住寄りの仕事が期待される。これは読んでいないので、とりあげるにははばかられるのだが、フランスのモニク・エレーブ(歴史家ジャン・ルイ・コーエンの夫人で、私も一度、随分前だが住宅公団の招きで来日した時の彼女に会っている)の著作でこのあたりを押さえた『Architectures de la vie privée. Maisons et mentalites, XVIIé-XIXé siécles』(Hazan、1999)とか『L'invention de l'habitation moderne, Paris, 1880-1914(近代住居の発明 パリ 1880-1914)』(Hazan、1997)がそれで、彼女は社会学と建築と心理学の間で仕事をしている人なので、どうも読んでおく必要がありそうだ。これは書評というよりこれからの自分の宿題。

植田実『集合住宅物語』 植田実
『集合住宅物語』(みすず書房、2004)

住宅に関する最近の著作では、これらとはまったく違うタイプのものだが、植田実さんの『集合住宅物語』(みすず書房、2004)もある。いわずと知れたかつての『都市住宅』の名編集長の筆である。『東京人』に連載された文章を集めたアンソロジーだが、いかにもアンソロジーとしての良さが出た好著である。植田さんはここで、戦前戦後の日本の主要な集合住宅を改めて訪ねて、住民のインタビューなども織りまぜながら、それらがいかに「住まわれて」きたかを辿っているのだが、この作業がさらには「生きられた東京」とも呼ぶべきひとつの都市の相貌を浮かび上がらせているのだ。かつての『都市住宅』誌(ちなみに最近の学生たちに見せると随分新鮮に見えるらしい)のテーマであった「集住」が今も変わらず語られているわけだが、その口調は何とも共感に満ちたものである。住み手がいわば住む名人であるとするなら、筆者はそれを観察し語る名人である。その語りを見るわけだから、読み物としてじつに楽しめる(それにしても植田さんの文章は練達のもので、ほとほと感じいらざるをえない)。山本さんがここ数十年で住宅の器が変わっていないのに生活そのものはドラスティックに変貌したとするのに対して、植田さんは、でも都市の住み上手は皆同じいい顔をしていますよ、とさりげなく反論しているようにも見える(ちなみに、上に言及した集落調査の成果を山本さんが発表する場を用意したのはこの植田さんであることは指摘しておくべきだろうが)。もちろん、ここで取り上げられている集合住宅は、一番新しいものでも代官山ヒルサイドテラスだから論じられる対象の時期にはずれがあるが、おそらくその問題だけではあるまい。どちらの立場が正しいか、と裁断する(あるいはできる)ような事柄でもないと思われる。そうした詮索よりもとにかく虚心に読むことを薦めたい。

内田青蔵『同潤会に学べ──住まいの思想とそのデザイン』 内田青蔵
『同潤会に学べ──住まいの思想とそのデザイン』(王国社、2004)

この植田さんの本の前半のかなりの部分を占めるのは同潤会のアパートで、その多くが最近取り壊されたことが、せめてその前に、という植田さんの企画のもとになったであろうことは想像に難くないが、それをきっかけにして出た本は少なくない。記録保存ということもあろうし、同潤会関係の資料は(値段さえ問わなければ)補償するように潤沢になった。そのうちで手際のいい全体像を提供しているものとして、今年の新刊でもある内田青蔵さんの『同潤会に学べ──住まいの思想とそのデザイン』(王国社、2004)を挙げておこう。内田さんはご本人の言によれば「近代日本の都市型住宅の歴史。しかも、どちらかといえば、上流層の有名どころの建築家の邸宅ではなく、これまであまり顧みられることのなかった中小規模の住宅を対象としており、今風にいえばBランクの住宅や建築家を相手にしている」研究者で、これまでも『日本の近代住宅』(鹿島出版会、1992)とか『図説・近代日本住宅史』(鹿島出版会、2001)、『あめりか屋商品住宅』(住まいの図書館出版局、1987)などこの関係の著書は多く、私もいくつかお世話になっている。そのうちで同潤会はBランクとはいい難い大テーマで、内田さんとしても、やはり取り壊しというタイミングを見ながら(こちらは直接的なアピールがある)満を持して公刊したというところなのだろう。基本的には既出(植田さんと同様『東京人』も多い)の文章がベースとなっているが、その間に欠けたテーマを拾いながら書き下ろしの文章が織り挟まれて、うまい具合に総論をなしている。同潤会というと連想される鉄筋のアパートのみならず、木造一戸建てから同潤会以前の公共ハウジングなど、周辺の話題もベテランらしく抜かりなく網羅して、コンサイスながら全貌を窺うに重宝な本である。ただ、それがじつに良くできた本であることを承知しながら、そして批判などでなく無責任な感想をいうことが許されるなら、この行間を通して、同潤会の住宅がいかに生きられてきたのか、物質的には到底今日の水準ではないにも関わらずかくも多くのノスタルジーをかき立てるのはなぜか、端的にいえば「同潤会に学ぶ」べきは何なのか、という問題は今ひとつ伝わってこない。おそらく内田さんには不本意ないい方だろう。こんなにはっきり書いているじゃないかといわれるかもしれない。けれど、この問題はまだ語りきれていないのではないかという思いがどうしても残される。例えば、もともと大震災の対策のために生み出されたこの組織がなぜ大塚女子アパートのような先進的というほかはないプログラムに取り組んだのか、とか、設備や動線処理の刷新にも関わらず、そのプランが結局は戦後の51C型と違い機能分化をもたぬものであり、また簡易とはいえ床の間を備えることが多かったのはどうしてだったのか、というような事柄である。つまりそこで前提とされた、あるいはそこに実際に棲みついた家族あるいは住民像とはどのようなものであったのか、という点は、この労作を以てしてもまだ私には得心がいかない。例えば前回紹介した家族史の諸作とつき合わせるにはまだ隙間が空いて見えるのだ。これは内田さんの仕事に抜かりがあったというのではない。おそらく個々の研究者の力量の問題を超えて建築史の方法に何処か不備があるということのような気がする。史家には自明としてかえって見逃されているような部分に光が当てられることがなおも必要な気がする。もちろん、この「感想」は本書の書評としてはないものねだりに過ぎないのだが。

『近代日本の郊外住宅地』 『近代日本の郊外住宅地』(片木篤+藤谷陽悦+角野幸博編、鹿島出版会、2003)

フィッシュマンの本が扱った郊外住宅は、内田さんの専門でもありその面での著書もあるが、そのうちで『近代日本の郊外住宅地』(片木篤+藤谷陽悦+角野幸博編、鹿島出版会、2003)を最後に取りあげておこう。同社にはすでに山口廣編『郊外住宅地の系譜──東京の田園ユートピア』(鹿島出版会、1987)と題したアンソロジーがあるが、こちらは範囲を全国(というか戦前は台湾、朝鮮、満州を含む)に広げて議論を展開している。事例の解説が主だからフィッシュマンの本のようにポレミックな議論が繰り広げられているわけではないが、幅と広がりが重要な本としての意義は多としなくてはなるまい。最初についている片木さんの総論は正面切った力作である(かつてラブホテルなどを論じていたと同じ筆者とは思えないと茶化したくなるくらいだが)。

[やつか はじめ・建築家]


200406

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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