建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽

八束はじめ
磯崎新×福田和也『空間の行間 』
磯崎新×福田和也『空間の行間 』
2004年1月発行
筑摩書房
定価:本体2,600円+税
ISBN:4480860665
358頁

今月は、幸いなことに、いつものスタイルで一冊の本の書評である。これもまた筆者から送っていただいたものだけれども、とりあげる対象としては不足がない。磯崎さんと福田和也氏(「さん」と「氏」との使い分けは、師匠と紙面だけの面識という、私の立場上のことなのでお許し願いたい)の対談というか対論というか、建築と文学を各々1作品ずつ並べて毎回(『論座』という雑誌の1年間の連載)おおいに論ずるという企画である。先手「建築の鉄人」が、こちらは《東大寺南大門》でいきましょうと言えば、後手「文学の鉄人」が、では当方は定家の『明月記』と応える、というような具合だ。論ずるというよりも蘊蓄を傾け合うというような塩梅である。傾きつくすとか傾け倒すといったほうが当たっているかもしれない。連句なのかどっちの料理ショーなのかは知らないが、繰り出されるお二人の博覧強記は、その広がりも古今東西に及び尽きるところを知らない。延々と続く饗宴のようなものだ。読んでいてほとほと感心する。いくら何でも、ぶっつけ本番でこんなに次から次へと話題がてんこ盛りで出てくるわけはない、きっとゲラの段階で随分補強しているのだろうとつい失礼な想像をしてしまうくらいだ。

先月取り上げた芥川賞の話、漱石や鴎外を読まなくたって(芥川を読まなくたって?)芥川賞受賞小説くらいは書けるという今時のお嬢さんの話とは対極にある世界だ。芥川賞ギャルズだって、あるいは今の流行りの若手建築家(や批評家)の誰だって、この対論のなかに入ったら見開き2ページ分だってもたないに違いない。というよりも、文学界は知らないが、建築の世界では磯崎さん以外にこんな芸当のできる人は絶対に見当たるまい。建築家でなく建築史家でもここまで幅の広い論陣を張れるとは思えない。文学の話題にまで互角に踏み込まなくてはならないし(ここはまこともってお見事。福田氏はさすがにそこまで建築の話には入り込めていない)、今のオタク(=たこ壷)化した連中にはそれは到底無理だ。かくいう私だって、近代をやるのにもっと前のことを知らないといけないというので──正直師匠をちょっぴりは見習おうということもあったが──近年多少は齧ったが、所詮は付け焼き刃というかつまみ喰いの域を出ず、とてもとても及ぶところではない。せめてこれでも読んで己の無知さ加減を知りなさい(知ろう)ということか? 先月、水玉やアメーバみたいな建築ってそれ何とか言ったわけだが、さて今後建築はこうした奥深い教養の世界にバックアップされた世界に進む(戻る?)ことができるものかどうか、一読して考えるには絶好の素材である。このウェブ・ページに掲示板があるなら、ぜひ読者諸氏の意見を聞いてみたいくらいだ。もっとも、私は自分の仕事に関わることでは某大掲示板は見ないけれど。

とはいえ、これが取り上げられた当の建築物なり文学作品なりに新しい知見を与えてくれるかといえば、さてどうだろうか? それはまた別の話だという気はする。いや、知った話ばかりだからなどというのではない。そんなことを言ってのけられる人もそうそうはいないだろう。けれども、作品をカウンターに載せた途端に、この二人の文化の達人(食道楽?そういえば磯崎さん、最近海原雄山みたいになってきたな、魯山人は知らないけど)たちは、当の作品そっち除けで次から次へと別の話題を出してきて盛り上がっていく、みたいなところがある。超高級な連想ゲームのようなものだね。このエネルギーはほんとに凄い。つねに知識の旺盛な補給を怠らないようにしないと絶対に無理な世界だから、若い福田氏はともかく、失礼ながら70歳を超えた磯崎さんが知的切磋琢磨を怠らないのはまったく脱帽ものだ。私は、これを前々から師の丹下健三の凋落振り(これについての議論も出てくる。世界の丹下の商業建築家としての日本への帰還というわけで)の轍を踏まないようにという自戒の現われなのではないかと推測しているのだが、下司の勘ぐりだろうか?

ただ、そんな具合だから、教養の乏しい読者はこの連想ゲームにたちまち置いてけぼりを食ってしまう。要はついていけない。実のところ、ご当人たちがはりきっていたためか、最初の数章にとくに飛ばす傾向が著しく、読んでいる当方もその置いてけぼり具合が甚だしいのだが、私などにはそのほうが妙に楽しめてしまう、あれよあれよといいながら。楽しむっていうのはやっぱりテレビのこっち側、つまり桟敷側にいたほうが肩が凝らないでしょ。安土城の復原の話からはじまって、その仕組み(構造というも空間というもどうも追い付かない代物)から施主である信長の破天荒振りを西欧の君主と比較したり、はてはイエズス会が世界中のスパイだった(そりゃ外にいって情報を集める人間は、地理学者も人類学者も皆そうだが)みたいな話で超盛り上がる。たけしの番組にでも推賞したいくらい。でも、というか、だから、勉強になるというのとは違うな、これは。ところどころで話題が具体的に長くなってこちらも多少ついていけるようだと、そこはどうでしょう、ちょっと違うんじゃないかなと思うところもなくはないが、そんな半畳を入れるのは(それは勉強には必須の姿勢ではあるが)、料理の鉄人に1時間でほんとに快心の料理なんかできるのかというようなもんで野暮の極み、巧みに取り繕うのも芸と教養のうち、と、そこは名人の奥の深い対論を楽しみながら読むのが本筋だろう(あとで不本意ながら脇筋については触れる)。

面白いのはこの芸の披瀝のし合い(試合)の中で時折ご両人の血の騒ぎみたいなものが透けて見えてくることだ。革命的ロマン主義といってもいい。納まりのよい規範的なものの類を見るとついつい破壊衝動が騒いでしまうらしい。ブルネレスキがどうギベルティを追い落としたかとか、一休(いわゆる一休さんだ)がいかにゲリラ的でアナーキーだったか、とか。一番これを象徴して面白いのは、清つまり異民族の支配下に入った中国から亡命してきた禅僧隠元を後水尾院(言うまでもないが桂離宮造営の当事者)が引見した理由を、福田氏が「僕は面白く考えたいので、やっぱり政治なんじゃないかと思うんです」というセリフ。面白いのが好き、危険分子が好き、というかそうであってほしいという願望。これは私には結構笑えた。見事な婆娑羅ぶりというところだろう。福田氏のナショナリスト振りはつとに知られているところだが、対する磯崎さんのほうもアナーキズムみたいなところでこれに応じてしまうところがあって、上記の隠元問題への福田氏の観測(?)に「赤軍派が、外国で根拠地をつくるようなものじゃないですか」と応える。この手のことは磯崎さんにはよくあって、これは楽屋話だけれども、以前中国から来た人々と磯崎邸でご馳走になった際に、磯崎さんが自分が若い頃に影響を受けたのは毛沢東とチェ・ゲバラだなんて話をして、今の中国では毛沢東のポジションは微妙なはずだから(迫害された人やその眷属も多々いるはずだし)内心ヒヤヒヤして聞いていたことがある。もっともその時に若い向こうのアーティストが、「おートロツキー!」(永久革命という文脈で)とか叫んで、こっちはもっとびっくりしたのだが。上にいった革命的ロマン主義というのはもとは右翼ラディカリズムのことだけれども、この辺の事情を知ったうえで見ていったほうが桟敷筋の楽しみも倍増する。いわばオンパレードな馳走の山への隠し味、というか実は劇辛かもしれない香辛料というところだ──後述のように楽しんでばかりもいられないところもあるのだけれど(最近このセリフはよく使うな)。

ところで先に「教養」と言ってしまったが、その傍で、ひょっとしてこれはもはや死語?とふと思ったりしなくもなかったのは、芥川賞ギャルズのショックがまだあとを引いているのかもしれない。いや別にあれはショックっていうほどのものじゃなかったのだが、あそこには教養もへったくれ(失礼!)もないもんね。このご両人の語り口を見ていて思い出すのは、例えば和辻哲郎の倫理学とか精神史研究とかである(あるいは、おそらく和辻に影響を与えたであろう19世紀後半のドイツのいわゆる「文化史(Kulturgeschichite)」である★1)。和辻を目の敵にした保田與重郎で本を書いている福田氏には不満があるかもしれないが。対論のテーマが当麻曼陀羅と来たから、それ和辻と保田だと思ったら(保田にはこの曼陀羅に思い入れがあって、和辻のモダンな解釈には度々難癖を付けている)、それはまったく素通りで拍子抜けした(二人とも別のところで出てくるけれども)。もちろん上に述べたお二人の根底にあるアナーキー好みは和辻の古典的な知識=教養人ぶりとは大いに違うのだが(そりゃ時代も違うし)、それでもここでの論じ方や話題の選び方は徹底的に「大文字」の文化の世界なのだ。政治と思想と芸術の世界。実のところ、福田氏の揚げ足をとるなどという大それたことはする積りはないが、保田が和辻に感じた不満は、彼が曼陀羅を徹底的に文化(美術作品)としか見なかったからだったが。

例えば、建築史もそうだが、戦後の一般史などではそうしたヒーロー(カルチュラル・ヒーローであろうと)のエピソードで文脈を組み立てるやり方はむしろ禁忌されてきた。民衆史とか村落史とか生産史とか制度史がそれに代わってきた(この傾向と保田の意識とは普通に見れば対極にいるが──政治的に右と左というのはいうまでもなく──実は反転して重なっているところがある。とはいえここで敷衍する余裕はない)。この間亡くなった網野善彦氏の仕事なども然りである。日本だけではない。人文地理学の影響を濃厚に受けたアナル派の歴史学などもそうだ。福田氏はともかく、磯崎さんは学生時代に民衆論の洗礼を受けて富士の山村にまで狩り出された経験をおもちだ(実は私がこの辺のインタビューをやらせていただいて聞き出したことがある)が、やっぱり地としては磯崎さんはどっぷり文化教養の人であって、民衆論の人ではない。最後のほうで自分の「大文字の建築」は建築に伴う構築性(フィジカルな意味でのそればかりでは、もちろん、ない)へのこだわりを通してモダニズムの普遍性(機能主義みたいな外在的な合理主義ということかしらん?)を打とうという構えなのだ、と論じている。私なんかはモダニズムよりも、目も鼻もない、従って大きかろうと小さかろうと「文字」(への意識)そのものがない「スーパーフラット」のほうにはそれは有効な批判かもしれないとは思うのだが、でも「政治・思想・芸術・文化」のオーセンティクな部分で展開される限りにおいて、それはやっぱり「大文字」の世界の話でしょうという気がする。洗練(和様?)を回避して異形な精神に傾斜しようとも(その系譜学が中国のルーツ探しにまで飛翔する様は、確かに壮観ではあるのだけれど)、それは「文化」的な営為としては古典や教養の範疇なのではないのかしらん?

断っておくけれども、民衆的ではないからいけないなどという時代錯誤の左翼主義を振り回したいのではない。私は福田氏のロマン主義的なナショナリズム(端的にいえば教養右翼)の体質とは遠いけれども、戦後左翼主義、とりわけそのご都合主義的な民衆史観は百害があった(一利もなかったとまでは言わないまでも)と思っているからそう考えるはずもない。ロマン主義はドイツのそれがそうであるように、本来民衆主義と手を携えたものではあったはずだが、想念の大きさ(過剰さ)がしばしばそのサイズで留まることをせずに暴走するきらいがある。ここで展開されている議論の多くは文化の平面なので、あまり政治そのものを引き合いに出して言うのはフェアでなく、また前述のように不粋な気も重々するのだが、磯崎さんが、三島由紀夫の「文化防衛論」を論じる文脈で、全共闘や「文化大革命」とそのラディカリズムへの共感のようなことをちょっと口にされると、ロマン主義者ではない私なんかはうーん違うなぁ、と思ってしまう。実のところ、私は学生時代に三島と全共闘の対論(?)の現場に居合わせたのだが、どうも議論が太平楽に聞こえて仕方がなかった。中国の「文革」は、その詳細が明確になった今では「造反有利」どころか愚劣なラディカリズム(マスヒステリー)としか言いようがない事件であると思っている。この部分自体は本書ではメジャーなところではないのであまり拡大して受け取って欲しくはないのだが(私はそれほど政治主義者ではないし)、ちょっと象徴的な箇所ではある。なぜなら「大文字」の問題はそこにあるからだ。歴史をモニュメント(血の問題)で括ってしまいがちなこと。そこでは往々にして小文字のドキュメントが見落とされる。いやドキュメントということば(この二つを対置したのはフーコーだけれども)が臆病な実証主義を連想させすぎるとしたら、その二つをつなぐ構造が、と言うべきかもしれない。その部分にはまだ語るべきことが残されているんじゃなかろうか。

★1──今ではすっかり一般名称のように用いられる「文化史」は、ブルクハルトなどによってあまりに個別的実証的になりすぎた専門の学に対して、類型を通して全体を見渡すものと位置づけられた。そのあとには「精神史」と呼ばれることのほうが多くなった。ただし、ブルクハルトや和辻は、それを個別性から全体性(共同性──従って『日本精神史研究』となる)を引き出すことを目指すが、それはこの対論に見当たるものではない(福田氏のほうは分からないが)。

[やつか はじめ・建築家]


200404

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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