あまりにポストモダンな?

八束はじめ
塚本由晴『「小さな家」の気づき』
塚本由晴『「小さな家」の気づき』
2003年6月発行
王国社
定価:本体1,800円+税
ISBN4860730151
189頁

書評の対象とは全然別方面から入るようで恐縮だが、本書と同時に毛沢東の率いる中国共産党のいわゆる紅軍の長征のことを書いた本を読んでいた。後者は『10+1』本誌の連載にも関わりないことでもないが、紅軍が国民党軍に対峠しながら中国大陸の南西部を大きく迂回していったイヴェントの記述で、一大歴史イヴェントだから細部に富み、読むにも結構な時間がかかる。正確にいえば、同時に読んでいたというよりも、本書はその合間に読めてしまった。これは別に軽んじていっているわけではない。ただ、およそ全く関わりなさそうな二つの内容とそのヴォリュームの違いに何がしかの意味を感じたということをいいたいのだ。

長征はいうまでもなく日中戦争と戦後の革命の序曲として今日位置づけられている。輝かしいはじまり、といいたいところだが、中国の現状を見るにつけてそういって良いものかどうか? 70年を経ているわけだが、本筋とは別に印象的なことは、当時長征の道筋にあたった広大な地域には車の走るような道路が全くなかった(州全体に全然だそうだ)ということ、紅軍のメンバーは街の光(電灯)を見た事がなかった者が大部分であったというようなことである。つまり当時の中国に近代的なインフラなどは無縁だった。そこに近代化の極端なかたちのひとつである革命が重ねられようとしたというわけだ。翻ってみると本書の背景をなす21世紀初頭の東京は、近代的なインフラの整備が完備したといってよいかどうかは知らないが、少なくとも70年前の中国とは(そして、おそらくは今日の中国の大部分の後背地とも)大違いである。もちろん、日本では革命はなかったわけだが。

また同じ頃に、大学の研究室で誰か学生が白井晟一が亡くなった時の雑誌の追悼号を棚から出して置いていったのを見つけた。ふと見ると、自分でも忘れていたが、座談会に自分も顔を出して発言している。20年前の私は、白井が──その不可能性を知りながら──世界を背負おうとしたところに共感を覚えるというようなことをいっている。狭義の意味でならこの建築家はモダニストとは呼びにくい存在だったが、世界を背負おう──革命を信じるというのも同義である──とする意識とは間違いなく近代的なものだった(近代以前にそのようなものがなかったというのではないが、ここでは敷衍しない)。そこに共感した自分も、つまりそのような意識から自由でなかったところが、モダニストであったということだろう。若気の至りだねぇ、今ならそうはいわなかったろうとは思うが、雀百まで踊り忘れず。いまなおその尻尾は引きづりつづけているはずだ。それは重く、かつ殆ど無用なほどに不自由である。

本書の著者、塚本由晴のスタンスは、これに比べると遥かに軽く、自由だ。彼は現実をそのまま見る。その彼方にユートピアの幻影など見ない(「幻想のない住宅」などというタイトルのテクストも収められている)。それはどんな定義にも増してポストモダンである。彼は「再定義」ということばを愛用する。革命も再定義だが、もちろんそのような意味ではない。別の箇所で使っていることばでいえば「カスタマイズ」(いうまでもなくコンピュータなどのそれに由来する)と同じ意味である。レディ・メード=既存の秩序を(革命するのでなく)カスタマイズして快適な環境をつくりあげることをもって「再定義」と定義づけるこのポストモダニストは、かつて毛沢東が支配し、いまなお、それこそ「定義」上(だけ)は、その後を継いでいるはずの中国に行って、漫画本でキオスクをつくる(毛語録でもやりかねないが、それじゃ政治性が出過ぎるか?)。

塚本は社会について語る。「建築オタク」の多いこの世代の建築家にしては珍しいとか思ったら、その社会とは上に書いた「世界」のように観念のうちにでなければ胚胎しないものではなく、こうした再定義を通して立ち向うべき慣習やルールの集合としてのリアルな(モダニスト=革命主義者からすればリアルすぎる)実体である。上記のレディ・メードそのものだ。こういうスタンスからすれば、社会とは、別に価値を含むものではなく、ただのパラダイム=慣習の束である。塚本のことばでいえば、「何となくみんなが従っているルールとか帰属意識みたいなもの」ということだが、これについては後にまた触れよう。

この延長の上に、彼は日本の都市の敷地の形状について語る。私も実物を見せてもらった《ミニ・ハウス》などはほぼそれとの応答だけで出来上がっているといってもよいようなデザインである。何故、日本の都市建築は建築限界まで建てることで始末に負えない隙間を作ってしまうのか、とそこで塚本は問う。この問題をむしろ現代アート的な文脈で問うたのは鈴木了二だが、塚本のアプローチは全く違う。ずっとプラグマティックである。そこに(隙間よりは有意義な)空き地を作るために住宅を真ん中に寄せて、その密度を上げる(つまり地下室を含めた立体的な操作を加える)。アドルフ・ロースばりのラウムプラン──というほど大げさではないが──を用いて室内を三次元的な敷地とする(「<階>といった概念さえも......再定義されなければならないのではないか」)。しかしこの操作は普通の解法よりは高くつくだろうから、社会全体をカスタマイズ(=革命?)することは出来ないだろうことは「一敷地一建物の原則を変えることも、隣の建物に接して建てることもできなかったが......」というテクストによく示されているが、それでも「『アニ・ハウス』は、敷地と建物の関係である<建ち方>の習慣性から引きをとって相対化するだけのショックは、作り出すことができたように思う」とさりげない「マニフェスト」(およそそれらしくない)で締めくくることを忘れない。私は楽屋話の域を出ない世代論は好きではないが、私より上のいわゆる「野武士の世代」は鼻白むかもしれない類のさりげなさだ。

革命主義者だったら(コルビュジエあるいは、日本なら60年代の丹下健三やメタボリストたち)、敷地のこうしたあり方自体を変えてしまえというだろうが、そうしたヒロイズムは(残念ながら)いまどき流行らないこと夥しい。そこまでいわなくとも、つまり革命まで踏み込まなくとも、モダニズムはカスタマイズ=パーソナライズではなく標準化(=普遍化)しようと試みる。「計画」という行為である。塚本は、計画主義者である山本理顕の「家族論的な住宅」(論と付け加えるべきか?)に言及しながら、「家族というものはもうないと言われたって、うちの兄貴の家族なんて、みんなお互いに思い合っていて、非常にかわいい家族なんですよ」とこの点での自分のスタンスを明らかにしている。「うちの兄貴の家族」以外はどうなんだ。君の施主は皆が皆そうなのか、などと意地悪には問うまい。

家族論を含めて、塚本にとって計画論の基盤にあるカテゴリーの殆どはもはや有効ではないという。革命なんか信じられない、「建築を批評してくれるいちばんのパートナーは都市であると思って」いる、というわけだ。塚本の「東京に学ぶ」というフレーズはロバート・ヴェンチューリのもじりだろうが、このアメリカのポストモダニスト(本旨からは離れるが、『建築文化』に掲載されたレム・コールハースによるヴェンチューリ夫妻のインタビュー──とくにデニーズ・スコット・ブラウンのコメント──は素晴らしく面白い)は「既存の環境に学ぶことは革命的である」といった。塚本は、ヴェンチューリも革命なんて言うのかよ、年寄りはこれだから......とかいいそうだ。革命はともかく、ヴェンチューリらポップ主義者の戦略はエスタブリッシュされた文脈の転倒である。カスタマイズというようなカジュアルな仕掛けとは違う。

永遠の現在主義者(これはポストモダニストの特質である)である塚本の仕事に歴史的な意識が入り込む余地は殆どないように思えるが、ヴェンチューリどころか、過去の建築家の中から彼が援用する建築家は、村野藤吾である。村野は、ある点では先に触れた白井と共通点もあるが(ここは塚本と全く接点がない)、世界を背負おうなどという不遜な観念論とは無縁だった(尤も『資本論』を読み、構成主義者のリーダー、ギンスブルグの翻訳の労をとるなどという奥の深さもあったようだが)。村野も徹底的に現在主義者だった。だから塚本が村野を引き合いに出すことは象徴的である。プレモダンとポストモダンのメビウスの輪のようなつながり。

ただこのような塚本のスタンスには難しいところもある。例えば上に書いた社会性だが、塚本は作家性にこだわる建築家を「建築デザイン界の社会性の中に閉じ込もって」いるという。上のような位置づけであれば、これはなかなか効いた皮肉なのだが(そしてそれに私は文句なしに賛成したいのだが)、どうもそうばかりではないらしい。ここは普通なら非社会性の中にとでもいうところだろう。私も最初は反語ととった。しかし、塚本にとっての「いわゆる建築家的な社会性」の内容が「高級な材料」や「納まり」や「流行」といった建築界のみの関心事と並んで「社会的善」だとされると、別に正義派ぶるつもりはさらさらないのだが、それは同じかぁ、と問いたくなる。「そのときに超高層ビルを頂点にして小屋が一番下にあるような垂直方向の序列を思い浮かべ、上にある方が社会性があると考えるべきではない」と書かれると、それはそうだが、それが建築家にとっての「社会的善」の意識というのは違うだろうともいいたくなる。

序列感覚ではむしろ私とも似ているので、彼から見ると、ここのところはちょっと揚げ足を取っているのかもしれない。が、世代的な意識とも関わるのでいささか敷衍すると、私も上の世代の建築家にはそうした序列意識があるという感じはもっていて、それを士農工商意識だと書いたことがある。一番上が庁舎建築で、次いで美術館や図書館のような文化施設、そして(集合)住宅と来て、最下層には小屋ではないが商業建築が位置づけられる。士農工商といっても日本人だけではない。まだ実作らしきものがなかった時代のダニエル・リベスキンドが、日本で仕事をやるとしたらどういう建物をやりたいかと磯崎新さんに聞かれて美術館と答えた時(今まさに彼は博物/美術館建築家だ)、あれあれと思った記憶がある。まあ、彼に商業建築とか小屋とかいう答えを期待するというのでもないし、ヘルツォーク・アンド・ド・ムロンたちが坪600万という美術館よりよほど金をかけた商業建築をつくっている今ではそんな定規も反転しているわけだが。そういえば、あるジャーナリストから、ヘルツォークらと並んで論じられることの多いある建築家が、その反コマーシャリズム的な作風とは裏腹に、来日した途端にイッセイ・ミヤケだったかのブランド・ショップに走っていったのを見て多いに失望したというのを聞いた覚えがある。

もちろん、このエピソードは塚本とは関係ない。君たちも出世したらそうなるんじゃないのとかいう積りもない。そこまで人が悪くはない。しかし、こうした意味での反建築(かつての磯崎新のそれとは随分違うけれど)を貫き通す事は容易ではない。資本主義の現実は実にアンビバレントである。塚本がそれを十二分に意識するだけの知性の持ち主であることは承知している。けれども、彼が日本の都市の現実に「しなやかに」(ポストモダンの典型的な形容詞だ)向かい合い、対処しようとする時、私のような(元)計画主義者・(元)ユートピア的観念主義者は、かえって本当かなぁと思ってしまうことが時々ある。若者言葉でいえば、マジィ?という奴だ。建築界のパラダイムの外に脱出することは大賛成である。塚本のこのテクストの殆どがそうしたパラダイム(社会性?)の有力な一翼を担っているはずの建築雑誌に発表されたものであることを論う積りもないし、彼の活動の場がもっと一般のメディアにまで拡大されてきているようなことも慶賀に堪えないと思うが、それ自体が「流行」(彼が建築界の社会性のひとつとして批判した項目のひとつだ)にのってしまう時、危なっかしくはないのだろうかと思うのは、旧世代のただの取越し苦労だろうか? 例えば、『TOKYO STYLE』という本があって、若い人々には大層人気がある。私の記憶に間違いなければ、塚本も何処かで東京論をそのスタンスで語っていた。私も建築界的なジャーゴン(塚本いうところの社会性)に浸っているよりはよほど健康的な姿勢だということには同意する。けれどもすべてのものは「スタイル」化すると危険であるというのが、歴史の教訓である。それはもちろん文脈の違う教訓なのだが、ポストヒストリーでもあるポストモダンでは通用しないものだろうか?

東京スタイルのようなものの隆盛の前には、東京は断末魔であり革命しかそれを解決するすべはないと思われていた(コルビュジエのパリもまた然り)。それがいつの間にか歓迎するべき新秩序であるということになった。私はこのポストモダン状況(以前、それを「千年王国」現象として論じたことがある)に半分は納得しながらも、どうも腑に落ちない部分を抱えている。別に建築か革命かなどというコルビュジエ的な大言壮語を抱え続けているわけでもないが、かといってそれが徹頭徹尾等身大であって面白いのか(いいのか、とは敢えていわない)? それは時代遅れの革命主義者見習いの幻想なのかもしれない。そうであってくれればいいのだが。

[やつか はじめ・建築家]


200308

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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