歴史の迷路・迷路の歴史

八束はじめ
 磯崎新著『建築における「日本的なもの」』歴史の迷路・迷路の歴史
磯崎新『建築における「日本的なもの」』
2003年4月発行
新潮社
定価:本体2,300円+税
ISBN:410458701X
B6判 332頁

さて今月は何を書こうかと思案していたら、磯崎さんの新刊はどうですか、と編集者氏がおっしゃる。実は、前日著者献本で頂いたのを読みはじめていたところだ。これかなぁと思っていたらずばりと指名されてしまった。しかし、それには、尻込みとはいわなくとも、気楽には飛びつけない理由もある。ひとつには師匠の本であること、第二に、磯崎さんの預かり知らぬこっちの事情だが、自分がこの4、5年書き続けており、そろそろまとめようかと思っている本と結構内容が被ることだ。とくに最初のテクスト(表題作)のはじめの数章において。だからこの部分はとくに気合いを入れて読まなくてはならないわけだが、一読して(今回初読)自分のとネタが随分共通している。結構いいのを仕入れたと思ったものまでちゃんと登場している。さすがの慧眼に脱帽というところではあるが、当然のことながら違うところも多々ある。それを整理しなければ自分の方だって明確にはならない。いつもの書評とは違って、磯崎さんの方から正面から向き合わないといかんよといわれたようなものだ。そうなれば、繰り言をいっても仕方ない。逃げずにはじめざるを得ない。

本書は書き下ろしではなく、既出のテクストのアンソロジーである。私も後ろ2つの文章は読んだことがある。上記の表題作が序論の役を果たして、あとは桂と伊勢、それに重源についてのテクスト。とはいえ、ただ歴史的対象を論じているのではない。桂と伊勢ではその読まれ方を論じている。タウトや堀口捨己、丹下健三などの先人がこれらの対象をどう読んだか、つまりモダニズムにおける「日本的なもの」の問題機制を改めて問題にする、というポストモダンな布置である。モダニストたちにとって「日本的なもの」がモダニズムの核心を抽出するためのいわばプレテクストになっていたという構図を描き出し、そこに自分の立場をスーパーインポーズする。いきおい、テクストはプレではなくメタ化せざるを得ない。それがポストモダンの特性である(といえば、それをまた論じるこの書評はどうなるのか、という問いを呼び寄せてしまうが)。

実のところ、前に桂について書いてみないかと誘いを受けたことがある。2度の石元泰博の本(丹下及び今回収録の磯崎の文章がついた)のように写真集に付帯するような文章を。丹下は時のリーディングアーキテクトが桂(と伊勢)を書くという伝統をつくり、それを磯崎が反復したわけだから、そのまたあとなんてとてもとても任ではない、と断る以前に話は消滅したが、書くことなんて残っていなかったはずだ。磯崎自身、丹下の後で同じやり方をするわけにはいかないということで、その丹下(や更に先人たる堀口やタウト)がどう書いたかを書くという道を選んだはずだし。本歌どりのそのまた本歌どりでは洒落にもならない。

しかし(私のことはもういいとして)、磯崎の戦略は確かにポストモダンだが、伝統との距離を計測しながら現在の自分のスタンスを測るという構図はまだモダンなものでもある。つまりその計測行為を避けて通るわけにはいかないと思う限りにおいて。「日本の of Japan」ではなく「日本から from Japan」の建築家と呼ばれることを好んだ磯崎にしてもそうである。私のみならず、もっと下の世代の建築家には、もはやナショナル・アイデンティティは反逆する(本書でも言及される坂口安吾のように)対象ですらなくなっている。相手(外国)が「日本」をそこに見ようとするのは勝手だが(例えば基本的に非日本的な壁の建築家である安藤忠雄の建築に対してのように)、そうしたフェーズとは我々にとってとうに過ぎ去っている。その意味では「近代」は終わっている。だから私が自分の今の仕事(上述の本)でやはり「日本的なもの」を探求のターゲットの主要なひとつにしているとしても、それはもはや今の自分に関わってくるものというより、過ぎ去った対象に関する興味に依拠している。プレテクストにはましてやなり得ない。この違いに由来する問題はとくに表題作に表われているように思われるが、とりあえず、各論の方から話を進めよう。

著者自ら明言しているように、3つの各論の対象の中で最も思い入れが強いのは重源であり、それは学生時代から引きずった関心である。当時は伝統論争の渦中であり、弥生や縄文というタイポロジー(いい出したのは岡本太郎)が建築界を賑わしていた。丹下--石元の「伊勢」や「桂」もその風土が生み出したものである。磯崎自身はそれとは別の第三項を探すべく東大寺南大門に惹かれていたという構図が、そのまま本書の構成をなしている。連載中は見ていなかったこのテクストを私が読んだのも、当時の磯崎のアンビルト・プロジェクトについて書く必要に迫られてのことだった。「あの空中都市は本当に大仏様なんですか(菊竹の京都国際会議場案と同じく組もの風であることは確かだが、大仏様そのものの形では当然ない。あれだけ重畳するのは伝統的な和様にはないにせよ)」という私の問いに、ご本人の答えは「いやまぁ」、みたいな曖昧なものだったが、生真面目にその通りだともいいにくいだろうからその詮索はどうでもいい。磯崎の関心が、丹下の(あるいは本書全般----とくに「伊勢」論----でターゲットにされている「和様」の)洗練を極めた「日本的なもの」の美学に対するオルタナティヴを見いだすことにあったことだけが重要である。川添登の王朝美学批判を介して当時は丹下自身は「民衆的なもの」の表現たる「縄文」の方にも進出していたから(丹下の「桂」はそのシフトを意味付けるためにも書かれている)、磯崎としてはもっと別の第三項を見いだす必要があった。それが王朝的美学(洗練)を超えた、また「民衆的なもの」の素朴さのようなものとも違った、ひとりの人物の観念が強引に発露した異形なもの、ウンハイムリッヒ(無気味)なものとしての大仏様(唐様の別名も----典拠があるとはいえ----妙だが、太田博太郎のこの命名もウンハイムリッヒだ)を探し当てたというわけだ。

当時磯崎はこの形式について伊藤ていじ(今の若い人は知らないだろうが、当時この2人は都市計画の川上秀光を加えた3人で八田利也----はったりや----なるペンネームで書きまくっていた)と語りあっていたらしい。磯崎に本を書けとアジられた伊藤はそれをずっと後になってから果たした。それも小説という形式をとってである(『重源』、新潮社、1994)。理由は推測するしかないが、学問的な論文として書くには材料が乏しすぎたということだろうか? 率直にいって、この本は日本の生んだ最も鋭利な建築史家であった伊藤にして(ちょうど最大の歴史家である太田博太郎がほぼ同年代の丹下に対応しているのに対して、磯崎/伊藤はいわば「王(親)殺し」の世代を代表する)、上出来とはいい難い----伊藤は達意の文章家だが小説のテクストはまた別であるということも含めて。本当にそうかどうかは知らないが、磯崎のこのテクストはそれなら自分がと思って書いた、そんな文章である。そうした積年の想いも重なってか、この部分は極めて読み甲斐がある。重源に関しては何も知識のない当方としてはそこで評する資格もないわけだが、他の章でもそうであるにせよ、歴史家の資料を駆使しながらも自らの建築家としての感性や知見を重ねながら「構築」される「建築への意志」像には目を見張らせる力がある。それは対象と著者が同形である、というより正確にいえば、そのような二重の像が浮上するように書かれているからだ。50年代後半の思想風土が目指していた、建築生産の下部構造から民衆的な建築創造の姿を析出するという目標(それは本書でも一箇所で引用されている伊藤の『中世住居史』という----私にいわせれば殆ど突然変異的な----金字塔を生んだ。東京大学出版、1958)、つまり戦後モダニズムの建築像からしてみれば、個人の構想力に焦点をあてるやり方は外れている。いうならば異端で、それは60年代を経て70年代の磯崎の手法(=マニエラ)への関心につながり、さらに四半世紀後のこのテクストにつながる地下水脈をなす。

私が『中世住居史』を当時どう思っていたかと問うたとき、磯崎は難しくて良く分からなかったといいつつ(何しろ納税形態から話を起こす----民家の建築行為の作業単位の確定のため----という意表をついた代物である。今日でも経済史の専門家が引き合いに出す殆ど唯一の建築史のテクストだそうだが)、同時期に出た「狂い咲きの桂離宮」(『建築文化』1956年11月号)は面白かったと答えてくれた。これは近世の入り口において、建築生産が、書院造を中心とする作事方のビューロクラシーと桂のような数寄屋造への傾向を孕んだもっと私的な造営の仕方へと分岐していく様を書いたテクストである(といっても社会全体からすれば後者は殆どオルタナティヴとして問題になるようなものではなかったわけだが)。当然ながら、磯崎の桂論は後者の経路の先を辿る。丹下は皇族による皇族のためのこの建物にも、そうした文脈を超えた(民衆の)美意識の結晶=典型を見いだそうとするが、磯崎はむしろ迷路を見いだす。それは、作事方の雛形志向と比べても、方法においてはもっと曖昧な、標準化されがたい(またされる必要もない)いき方であった。

磯崎が、ここで日本の建築生産が西欧近代的な意味での「建築」や「様式」や「設計」という概念とは違っているとしながら(私の作業でも論じていたのでここはとても面白かった)、遠州の位置を論じているところはとりわけスリリングである。遠州が桂の「作者」ではないことはもはや歴史的に証明済みだが、磯崎は上に書いたような「建築家」としての位置づけから解放された遠州像、つまり実際に手を下したのかどうかとは別の「好み」の束として読解する。「〈好み〉とは自動機械なのだ。自己組織化するシステムと呼びかえてもいい。......〈好み〉は〈手法〉に限りなく近い」。この迷路は微妙である。磯崎はこの自動化がキッチュにとつながっていく可能性(不可避性?)を示しているが、これは上記のもうひとつの道、ビューロクラシーによる雛形化とも同じだからである。つまり日本における「建築」への意志の基盤の弱さにつながる(逆に生産の安定化と評することも不可能ではないが)。詠み人の署名の如何とは別に、桂は(南大門も)、その過程における奇跡ともいうべき例外を示すものだが、それでも「建築家」として読まれるような署名がないことには変わりがない。南大門でも重源は磯崎流にいえば「問題機制」としてそう呼ばれたにすぎず、陳和卿と彼のどちらがそう呼ばれるに相応しかったのか、あるいはどちらもそうではなかったのかは断言を許さない。「機制」だけが作動する、社会化されたシステムとしては偏差としかいいようのない要素を抱えながら。磯崎の「桂」への「好み」がより純粋モダニズム的な読解に従いやすい古書院よりも、もっと不透明な(ウンハイムリッヒな)部分を抱えた新御殿にあることはよく了解できる(桂の朱塗りの橋に関する発言を含めて堀口が「不協和音」の必要性を感じていること----それは八勝館御幸の間における有名な大襖などにも示されている----への鋭敏な反応はさすがである)。書院でも数寄屋でもない過渡的なものの迷路性。「好み」はそれを生じさせる、殆ど機微といった方が良さそうな「機制」である。その主体は結局宙吊りにされているのだが。

南大門は平安時代に洗練されつくした和様に対抗して移入された外部様式であり、桂の新御殿も和様に通じるモダニズム的読解には抵抗する。つまり、ここで最も興味深い論述対象は「日本的なもの」のうちにはない。そこに磯崎のスタンスがあるわけだが、このことは「伊勢」の読解が伊勢神宮それ自体の特質を分析するというより、殆どもっぱらそれを「日本的なもの」の原点に据え付けた、つまり「自然」を虚構した「作為」についての記述に費やされていることにも窺われる。主として福山敏男の研究によりながら、復元不可能性のうちにあるこの原像を虚構であるといいきる解釈学は、もちろん仮説であるとしても魅力的である。造替という反復が差異を隠蔽し、参照すべきオーソリティとしての(虚の)始源を現出する。天皇制の万世一系の神話と結びつく政治的な行為であるそれは、外的なものに抗しながら常に日本の歴史に再帰する。本書にはおさめられていない「島国の美学」(『イセ----始源のもどき』岩波書店、1995、所収)において、磯崎はこの構図を丸山真男の日本批判(「建築への意志」の欠如に対する)に重ねる。外部的なものを融通無碍に取り込む「日本的なもの」という無名の、上でいったのは別の意味で「ウンハイムリッヒ」な、機構の作用への批判。

このような解釈学は、しかし、常に現在の過去への投影である。このテクスト群が現在の事象に絶えず立ち返っているのもそのためである。実はそれは「日本的なもの」という解釈学とも同じ構造をしている。投影の原点が半世紀強違っているだけなのだ。その2つの解釈学の異同、ないしずれが現われるのが総論たる第1章である。前述のようにここは自分としても慎重に見ないといけない箇所なのだが、細部で色々と気になるところもある。所詮は小姑根性ということでお許し願っていくつか指摘させて頂こう。重箱の隅をつつくわけではない。細部ながら全体の議論に効いてくるところだと思って読んでいただきたい。

例えば伊東忠太が神社建築をプリミティヴなものとしか評価していなかったというのは、伊東の初期の評価だろう。伊東は後になると自分でも多く神社の設計を手掛けているし、論述も少なくない(ただし伊勢自体に関しては「畏れ多い」として逃げている節は確かにある)。もっと肝心な事柄として、「建築」が渡来様式にはじまるという伊東の当初の考えには、「日本」と「東洋」の問題が関わっている。時期的には下るが、磯崎も度々言及している「帝冠様式」に関しても、形容は「日本」もしくは「東洋」趣味とされることが多い(そもそもコンペの顛末で議論にネタを提供した帝室博物館は基本的に「東洋古美術博物館」である)。

磯崎がこの東洋については「いずれ東洋の諸国への侵略が開始されることが予定されている背景」がそれを「特記させている」として済ませているのはどうだろうか? 帝室博物館コンペは満州事変の年だが、「東洋」は明治以来のテーマで、その主役だった岡倉天心や伊東はむしろ東洋主義者であり、侵略の伏線として(つまり政治的なレトリックとしてだけ)そうだったわけではない。最近の小熊英二等による極東の同語同祖論等の研究などもここにつながる。小熊によれば、皇国史観にも拘わらず戦前は「日本」を純化する傾向はむしろ例外的だった。建築の分野に限っていえば、皇国史観的な「日本的なもの」の議論は殆ど見られない。伊東の神社論はむしろその例外なのだが、その扱いは特異なもので、伊東は帝冠様式にはかえって批判的だった(伊東は帝室博物館をその中に数えてはいない)。それ以外には、「帝冠様式」的な言説というものは殆どない。それはむしろ言説抜きの実践であった。従って議論の核心などあろうはずもない。議論はそれに反するものだけにほぼ集中している。つまり、「日本的なもの」に標準を絞るのは、伊東より堀口などに見えるそれ自体モダニスト的な位置づけである。

磯崎は「日本趣味」の問題機制が浮上するのは1930年代になってからだとしているが、上記のようにそれは正確でなく、伊東が中心になった明治末の国民様式論争でも問題にされている。30年代の議論はかなり特殊なその組み替えである。この議論では「日本的なもの」が転倒的な原理とされる(帰納的な証明でなく演繹的な命題となる)のだが、この時期を起点とし、それ以前を(触れていないわけではない)前史とすることで磯崎には当時の布置(モダニズムの)を踏襲してしまっているところがある。帝冠様式に関して、磯崎はそれが当時唯一の官許様式であったと書いているが、前記伊東の留保はさておくとしても、これも正確ではない。井上章一も指摘するように、これを「官許様式」と考えるのは、そう考えたがったモダニストの位置づけである。「日本趣味」を標榜したのはコンペに付されたものであって、当時建てられた(官庁営繕の設計による)他の庁舎は特にその傾向を示してはいない。コンペになったのは、国際港である横浜や城のある名古屋や静岡など特殊事情のあったところで、民間の知恵を拝借というようなものである。排外的なファシズムの表現というより観光誘致のディスカバー・ジャパンの表現に近いのだ(事実その手の観光ホテルも多く建てられた)。

また、タウトの桂評価が西欧的な「建築」としての評価であったというのもどうだろうか? それもモダニストたちがそう考えたかった(つまり自分達の読みと同じだと)というにすぎないのではないか? タウトがバウハウス式の機能主義者ではなかったことはさておいても、彼の日記には日本の建物が「建築」と呼ばれるようなものとは違っているという(ただし肯定的な)指摘がされている。タウトには茶室それ自体には関心を示した形跡がないし、桂に建築としての美学(構成)を見たというより、農家のようなものとの連続性を見たにすぎないと私は考える(もちろんこの等値は天皇と民衆の一視同仁の思想にもつながるが)。『国際建築』誌が日本建築特集を組んだ際にタウトが表明した違和感はそこにつながっている。タウトを招聘し、桂離宮へ案内した日本インターナショナル建築会の意図も必ずしもモダニズムにおける「日本的なもの」への誘ないというようなものではなかった(これは今和次郎の助手であった竹内芳太郎の陳述がある)。

一方、これは私も採用していた見方なので同感であったのは、建築家たちの実践(具体的には丹下のコンペ案を指す)を、近代的なものと日本的なものを統合する視点に欠けていた「近代の超克」の議論とは一線を画したという評価である。そこにおいて浜口隆一がドイツの美術史学を応用して理論化を図ったことへの注目は重要である(更に敷衍しておくと、ヴェルフリンやリーグルへの関心は、最も初期的にこれを論じた和辻哲郎を契機として西田哲郎やその弟子の「世界史の哲学」を標榜した京都学派の哲学者たちにも見られる)。そうした事実からも浮かび上がるのは、これがある意味では丹下や浜口こそ真正ファシズムを体現しようとしていた、ということを(単に否定的にではなく)論じる可能性である。私はもはやこのことは避けて通れないと考える(最近の山内靖らの総力戦の議論などを見よ)。ここでもその示唆はうかがわれるが、明言はされてはいない。曖昧な部分を残している。

それは磯崎自身がこの問題の圏域の中で自らのあり場所を探しているからでもあろう。しかしそれは容易に見つからない。かつて保田輿重郎の再評価をした竹内好にはあったような場所が。それは竹内の時代がまだモダンであったからだ。竹内も保田もその圏域にいた。翻って磯崎の位置と時代はもっと微妙である。伊勢論で日本的な「自然」主義(循環する「和様」)への批判を明確にした磯崎だが、ここではそれほど割り切れてはいない。例えば、堀口から丹下・浜口に至る昭和のモダニストたちの「建築(構築)への意志」を同じく自然主義としての日本趣味への批判として見、それに共感してしまうことにおいて。----ここに第三項的なものが導入されなかったのは何故だろうか? 堀口らの議論は「日本的なもの」への批判ではなく、その正統性の奪還の議論である。それは自然主義とは別のものであったろうか? 鋭敏な磯崎は、構成論を中心に「日本的なもの」の議論を組み立てた堀口に西行的な自然主義との通底を見いだし、丹下の構築への意志に「環境的なもの」の位置づけがフィットしきらないことに気付いているが、そこを整理しきれていないように見えるのは、このテクストがファシズム期という剣呑な時代への歴史的な俯瞰を志向しており(モダンなポジショニング)、重源(論)のような個人的な構想力に賭けてみるという構え(ポストモダンなポジショニング)ではない故と思われる。そこにおいて磯崎の二重性が透けて見える。磯崎自身もまた迷路の住人である。

翻って、私は最初からそれをしようという立場にはない。これは後発世代の特権かもしれないし、逆に弱みなのかもしれない。しかし、この卓越した議論にも拘わらず、迷路の記述には更に隘路に踏み入る可能性が残されている。私はそれに1000枚を超える大部の分量を費やし、おまけに内容的にあちこちと無闇に広がるはめとなってしまったので、ここにそれを要約することは出来ない。師匠の本をダシに自らのコマーシャルを行なう厚顔をお許し願えれば、次の機会をお待ち願いたい。

[やつか はじめ・建築家]


200306

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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