個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!

八束はじめ
 五十殿利治+水沢勉著『モダニズム/ナショナリズム----1930年代日本の芸術』
五十殿利治+水沢勉『モダニズム/ナショナリズム----1930年代日本の芸術』
2003年1月発行
せりか書房
定価:本体2,400円+税
ISBN:4796702466
A5判並製 268頁

サブタイトルにあるように、1930年代の日本の諸芸術についての論考のアンソロジーである。学際的な仕事といえるが、二人の編者を中心にしたシンポジウム、更にその後の研究会がもとになっているという。1930年代とは、日本では満州事変から太平洋戦争開戦の前までの時期にあたるが、芸術諸分野では、日本に限らず、20年代のモダニズムの華やかな立ち上がりが、この政治──社会状況を反映して変容していく時期でもある。書名にあるモダニズム/ナショナリズムという二項(のとりわけ後者)がそれを体現している──と、ここまでは表紙だけ見ても予想がつく。逆に各論文については分野も違い、対象の絞りこみ方も、また書き方、アプローチも違う。そのすべてに専門的な知識をもって評価を下す能力をもった人がいようとはそうそう思われない。少なくとも評者にはその資格はないから、この点では、読者各々の関心に従って読めばよろしいとしかいいようがない。資格がないなりにいえば、各々に充分に面白いし、有益な情報を提供して、こちらの知見を増やしてくれるというに憚りはない。私が今している仕事にとっても、梅宮弘光の川喜田煉七郎論における「生活(ないし生産)構成」の概念や、構成をフォトジャーナリズムにおいて見た金子隆一の論考などは大いに有益な情報を提供してくれた。

しかし、それを前提にしていえば、このアンソロジー全体を通してのパースペクティブが見えてこない。つまりなぜ、そしてどこが1930年代かが見えてこない。本の成立以前の経緯に言及したのはそのためで、研究会を数年にわたってもったというならば、このテーマに対して意識なり方法が共有されていて良いはずだと思うが、当然クロスする部分はあるとしても(例えば批評及び芸術の社会サークル化の問題──といっていいかどうか──、業界の成立・変質の問題からその機関化に至る問題/後藤論文と五十殿論文、商業性の問題/梅宮論文の後半と川畑論文、都市景観の問題/金子論文と水沢論文など)、部分的にとどまり全体としてはそれが見えてこない。30年代論を組み立てるための材料は提供した、組み立てるのは読者の問題だといわんばかりなのである。もちろん筆者たちがそう考えたわけではないだろうが、そう思えてしまう。例えば、扱っている時代こそ違うとはいうものの、『美術のゆくえ、美術史の現在──日本・近代・美術』とか『語る現在 語られる過去──日本の美術史学100年』とかは、同じようにシンポジウムに依拠した本なのにそのようなことはない。これらは当時の記録であるのに対して、本書はその後の研究会がつづいたというのにそれがないのは、1930年代論が1890年代論よりも方法論的整備に欠けているということなのか?もしそうなら、それはいささか困る。

雑誌の特集なら、あるいは後続のある叢書のようなものならこれでいいかもしれない。個々の論考の出来映えだけの問題になるからだ。しかし、単発のアンソロジーとしては、筆者各々が自分の関心だけで書いており、相互の意見交換なり合意の達成があったように見えない──対立があったようにも見えないが──のは問題ではないか?調整がなくても木だけではなく森が見えるには、木と森が同形(照応関係)であらねばならないが、ここでの木の各々はそうは見えず、独立して立っている。それが多様性だというわけでもあるまい。上に挙げた共通点は、各々拾い上げて発展させていけば、もっと全体的なパースペクティブを提供したろうに、そこに留まっているように見える。だから30年代という森が見えてこない。

早い話が、タイトルの一項であり、20年代と差異づける概念であるはずの「ナショナリズム」を扱ったテクストが極く少ないのはどうしたわけか(植民地──当時のことばでは「外地」──が全く言及されていないのも問題だが)?五十殿論文や川畑論文では時局化との関わりが論じられるが、これは「ナショナリズム」と完全に一致する話でもない。川畑論文や水沢論文に僅かに取り上げられる──しかしメインの主題では到底ない──「日本画」という実践との関係がそれにあたるというわけにもいかないだろう。この点に関していえば、例えば芳賀徹編の「絵のなかの東京」では──ここでは主に明治期の作品に関する記述だが、本人は昭和まで活動した──、日本画家としては市民風俗や風景を描いた例外的な存在であった鏑木清方についての論での、江戸期には風景が結構描かれているのに、明治以降は日本画家がそれにタッチしなくなるという指摘があって、決して無関係な問題とは思えないのだが。

タイトルにあるこの二項に関しては、編者の一人五十殿利治による改題があるが、どうもすっきりしない。何故この二項であり、それがどう展開されたのか? 結局全員に共通したものといえば、「モダニズム」の方だけなのではないか? しかもそれに対しても一致したヴィジョンが形成されたわけではなく、「/」つきの二項になって「一気に決定された」と書かれているのも、その「/」の解釈がさっぱり分からない以上不思議な話である。しかも、五十殿がアヴァンギャルドとモダニズムとを区別する限りにおいて(あるいは、それ以前に整理記述はほぼ不可能なばかりか有効性も疑わしいとしているわけだが)、それは既にかなりな拡散性(曖昧ということだが)を付与されている。

適切な例ではないかもしれないが、林淑美論文の対象である小林秀雄は、横光利一や中河輿一らいわゆる新感覚派との距離に見られるようにアヴァンギャルドはもちろん、モダニストということすらかなりの留保を要する批評家である(文学畑ではすんなり「近代的」ではあっても)。取り上げるべき対象でなかったというのではないし、論が不出来だというのでもない。むしろ多くの議論の種子を含む好論文である。ただこのアンソロジーに取り上げるなら──林以外の論者でも良いが──文学におけるモダニズムの特殊性(他のとりわけ造形芸術におけるそれと比べて)についての言及(位置付け)くらいはほしい。この点では、中川成美の仕事が既にあるが、五十殿のようにあっさりとやり過ごされてしまっては読者には見取図が描けない。それに「ナショナリズム」との問題でいえば、小林の実生活との距離のとり方が日本主義へと連なるという林の命題が、後論を用意するといって終わってしまっては、単独の小林論としてはともかく、「モダニズム/ナショナリズム」所収のそれとしては、その二項のどちらに関しても欲求不満が残る。つまり、私にとっていえば、その切断はむしろ「故郷を失った文学」にだって赴かせたのではなかったか(保田与重郎はそれに「土地を失った文学」を被せたわけだが)とか、それは吉本隆明の今や古典的となった転向論とどう切り結ぶのだろう、というような半可知な疑問だけを残してしまう。要するにそこまで書くなら、もうちょっとやってよ、という歯がゆさが残されるのだ。

全般的にモダニズムを定義せず(それはそれでいい)、しかしそれを論として補完すべきナショナリズムがさして登場しないということになれば、読者が的をしぼれなくなるのも当然の理というべきだろう。「あとがき」で編者のもう一人水沢勉は、30年代を暗いファシズムの谷間の不毛の時代として括る従来の図式を反駁しようと思ったと書いている。それもいい。だが、それはこの暗い時代にもモダニズムの多様な成果が生み出されていたのだということなのか?というよりそれで終わるのか?それにしても、この多様性とは上記の拡散性とはどう違うのか?ことばの綾ではない。私が拡散性といった時(形容はどうでもいいが)、それは五十殿がアヴァンギャルドとモダニズムの区別のようなものを示唆している以上(自壊性のようなものを前者の指標とするのは、後述の理由もあって──それだけではない──私には同意できないが)、状況との関わりの上で生じた変質(拡散)のようなものを含んだ議論を予想している。それが20年代と区別される30年代論(のあり得るひとつの形)ではないか?しかし、業界の制度化(大衆化でもある)の議論──とくに後藤子の論考──や広告美術の国策化に関する川畑直道の論考を除けば、そうではないらしい。

梅宮の川喜田論は大変行き届いた論考だが、川喜田の商業主義への傾斜を初期からの「生活構成」──つまり上記小林の論を借りれば「実生活」から物事を組み立てるということ──の概念の延長であるという。つまり転向とか堕落とかは見ない。それ自体は首肯できる(私的には転向だと思うが)。しかしそれは、例えば川畑がフォローしている、ポスターを中心とした商業美術家たちの自立(純粋美術家の蔑視に抗して)の動きが、結局国策宣伝にすっぽりとはまっていったこととどうクロスするのか、しないのか?もしするとすれば、モダニズムはナショナリズム(それを国策として捉える限りにおいて)の反対物ではない(金子のグラフ・モンタージュ論──それ自体商業美術の手法の一である──の主役の一人、板垣鷹穂が30年代を通して「国策論」に傾斜していったことなどを絡めたら議論は重層的になったろうに。因に、この批評家には小林多喜二──モダニズム建築にも関心があったらしい──との接触などという、こうしたインターディシプリナリーな研究にとってはおいしいエピソードもある)。もちろん「/」にはそうした意味があってもいいが、そういう議論はここには見られない。それは個々の著者の責任ではないかもしれないが、本全体としては問題とせざるを得ない事柄でもある。そうなると、結局モダニズムの可能性は、状況の不自由にも関わらず30年代にも繁茂したという(だけの)ことに見えてしまうからだ。慶賀の至りである。しかし、それならあえて二項めをたてる必要はないのではないか?サブタイトルになっている「1930年代日本の芸術」(芸術がモダニズムでもいいが)で不都合はあるまい。

この点を解題するのは序文(総論)の役割である。それを担った五十殿の仕事にはかなり自分と関心の対象が重なることもあって常々敬意を払っているのだが、今回の序文は正直いささか居心地が良くない。出だしから同時代建築研究会編「悲喜劇 1930年代の建築と文化」の、とりわけ宮内康の論考に焦点を当てつつ「修正されるべき点があるにせよ、色褪せてはない」とか書かれてしまうと、単純に革新/反動という二項(ここでもだ!)を設定してモダニズムに前者を割り振った(当然「ナショナリズム」は後者となる)だけの宮内の仕事は、その後の井上章一の批判で(あれはあれで感じの良くない、また不十分な本ではあるが)今や完全に意味を喪失したタイプの言説だと思っている私などには、モダニズムにせよアヴァンギャルドにせよ、要はあの地点の認識をそのままキープしているのかとのっけからいささか萎えてしまう(前記の林の小林論はその図式にどうはまるのか?)。

五十殿はこの20年ほどの20年代、30年代をめぐる内外の企画(主として展覧会)について言及していて、これはこれで親切なオリエンテーションではあるが(正直、皆フォローしているわけでもないから有難いし)、しかし、例えば阿部良雄が随分前にこうした動向から宮川惇と論じていた、モダニズム史観のリヴィジョンの必要性などは、ここにどうつながっているのだろうか?五十殿の挙げた例には、確かにそこにつながる回路を用意した企画の一つである東京国立近代美術館 『「絵画」の成熟 1930年代の日本画と洋画』展(1994)が含まれている(この後に三重県立美術館『1930年代の日本美術』展 (1999)がつづいた)が、何処にも引き取られていない。岡崎乾二郎が、これも五十殿が(上記展覧会に関して)言及している清光会のメンバーに見られるある特質を「国民絵画」(ナショナル・ペインティング)の条件としているが、これなども30年代ナショナリズムを議論するには絶好の舞台であるはずなのだが(次いでにいえば、上記の阿部は、中野重治──林淑美の主著のひとつが「中野重治──連続する転向」である──が、美術に典型的なこうした傾向──阿部のことばでは「ブルジョア的正統」──に文学では位置づけられる小林を「文学における新官僚主義」として論難したことを指摘している)。しかし、少なくともこのアンソロジーに発表された限り、論者たちが企てているのはこうした意味でのリヴィジョン(総論)=諸空間の──リゾーム状になるに違いない──関連づけではなく、モダニズムのもち得た裾野の広さの分化された拡充(各論=補遺)でしかないように見えてしまう。リゾーム(森の形)ではなく、木の並列を拡げているだけと。そこで見えるモダニズムの姿には、何処やら感傷(ノスタルジー)の響きすらしないではない(失礼)。私はいくつかの可能性を示唆したにすぎないが、この論者達にも無数の他のリンクが張れたはずなのに、これは残念というしかない。

この時期に避けることのできない政治的な問題(本論では、あまり論じられていない)に関して、五十殿はグロイスの「全体芸術様式スターリン」をとりあげている。この本は私も正直いささかもてあましている、やはり「感じの良くない本」だが、例えばアレクサンドル・ジノヴィエフのテクスト(スラヴォイ・ジジェクとはいわないが)などを見ても、もはや20年代=善玉、30年代(ここではスターリン)=悪玉ではもはや通らない時代である。フリードリッヒ・ハイエクが広い意味で「構成主義」(ここでは主に経済計画のこと)といったものの意味については、悪玉である状況について論じるだけでは核心に触れられない。アヴァンギャルドの「自壊性」(五十殿)というようなものが有効な視座を提供するとしたら、それはこういう場面においてであって、既存のコードの破壊者という認識だけであったら半世紀前と少しも変わらない。ソ連から危険人物として追放処分になったジノヴィエフのような人物が「共産主義」の意味を西側の知識人はさっぱり分かっていないといっている批判の重みのようなものを、芸術なら芸術の分野でどう受け止めるかというような問題意識こそは今の30年代論に求められるものではないか?

折角すぐれた論者と蓄積された情報とその組織があるのだから、後続の議論の展開を望みたいものだ。

○参考文献(ただし、本書に出ているものではなく、私がこの書評で参照したもの)
★1──北澤憲昭+木下長宏+イザベル・シャリエ+山梨俊夫 編『美術のゆくえ、美術史の現在──日本・近代・美術』(平凡社、1999)
★2──東京国立文化財研究所 編『語る現在 語られる過去──日本の美術史学100年』(平凡社、1999)
★3──芳賀徹 編「絵のなかの東京」(『ビジュアルブック 江戸東京 3』、岩波書店、1993)
★4──中川成美「モダニズムはざわめく──モダニティと〈日本〉〈近代〉〈文学〉」(『日本近代文学』57、1997年10月)
★5──宮川淳「美術史とその言説をめぐる阿部良雄との往復書簡」(『宮川淳著作集 III』、美術出版社、1981)所収
★6──阿部良雄「残虐と勲章──レヴィジォニスムに対応する十九世紀美術史再構築のための断章」(『Frame』第1号、1990)
★7──阿部良雄『モデルニテの軌跡──近代美術史再構築のために』(岩波書店、1993)所収
★8──岡崎乾二郎+松浦寿夫 対談「〈国民絵画〉としての日本画」(『武蔵野美術』No.99、1996)
★9──林淑美『中野重治──連続する転向』(八木書店、1993)
★10──アレクサンドル・ジノヴィエフ『カタストロイカ──現代の寓話』(晶文社、1992)
★11──アレクサンドル・ジノヴィエフ『余計者の告白』(河出書房新社、1992)

[やつか はじめ・建築家]


200305

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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