7 ポンピドゥ・センター
 
 1977年1月31日、パリ市内のボーブール地区にある巨大な文化文化施設が産声を上げた。この文化施設の名は国立ジョルジュ・ポンピドゥ芸術文化センター、通称ポンピドゥ・センターである。文化センターの名に恥じず、この施設には国立近代美術館(MNAM)のみならず、産業創造センター(CCI)、公立図書館(BPI)、音響研究所(IRCAM)といった諸部門の機能が集約されている。実際、外壁らしい外壁のない、柱をはじめ通路やエスカレーターなどが露出したスケルトン型の建物の威容は、それだけでこの施設の多機能振りを物語っているし(所在地のボーブールは、もともとは隣接する商圏の駐車場として用いられていた地味なエリアだそうだから、この施設の登場で周囲の景観が一変してしまったことは言うまでもない)、また常に大きな話題を振り撒く最上階(6階)のグランド・ギャルリの展覧会は、一応は美術館がイニシアティヴを握っているものの、基本的に他の施設との共同事業という形で行なわれるという。ポンピドゥ・センターは、外観においても運営方針においても、従来の「ミュージアム」の定義には当てはまらない複合型文化施設なのである。
 しかし、なぜこのような複合型文化施設の建設が構想されたのだろうか? とりあえず明確な来歴は、ポンピドゥ・センターの建設が1969年、ときの大統領ジョルジュ・ポンピドゥの強い意向によって決定されたこと、その最初期の段階から、単なる美術館ではなく複合型文化施設として構想され、その立地もボーブールと決められていたこと、1971年に実施された国際コンペには総計44カ国681名の応募が殺到し、その中からレンゾ・ピアノ、ジャンフランコ・フランキー、リチャード・ロジャースの共同プロジェクトが選出されたことなどである。このうち、ボーブールが立地として選出されたのには、第3章で既に触れたようにパリのゾーニング事業という側面を強く持っているし、また従来の美術館と違った運営方針にも、MoMAに象徴されるアメリカ美術界への強い対抗意識を窺うことは容易であろう。だがここで何よりも注目に値するのは、ポンピドゥ・センターという一施設が日の目を見たその経緯に、美術館を巡る様々な文化的思索が蓄積されていることなのである。
 文化的思索の蓄積という言い方が大袈裟に過ぎるなら、単に伏線、あるいは蹉跌と言い換えてもよいであろうか。建設が決定されるより少し前の1963年ごろ、実はフランスでは「20世紀美術館構想」と称されるプロジェクトが準備されていたことがある。これは当時国立近代美術館館長の任にあったジャン・カスーがル・コルビュジエと共同で発案した、現代美術を過去50年の規模で回顧し、大きな足跡を残した作家を本格的に紹介する一方、現代作家にも実験的な発表の場を与えることを意図した美術館の構想であった。美術館は単に過去の伝統の収蔵・展示するだけではなく、現存作家の創造の場としても開かれていなければならない——これは、ルーヴルより少し後の1818年、リュクサンブール美術館が開館して以来、フランスの美術館行政の根幹をなしてきた伝統的理念の一つでもあるが、「20世紀美術館構想」はまさしく、この伝統的理念を体現しようとしたプロジェクトだったのである。この構想そのものは1965年、ル・コルビュジエの死去によりあえなく頓挫してしまうのだが、結果的にその12年後に、「20世紀美術館構想」の理念はポンピドゥ・センターの開館によってほぼ十全に実現されることになる。この未完に終わった「20世紀美術館構想」を何らかの形で実現したいという意向が、ポンピドゥ大統領の決断を大きく後押ししたものと推測しても、決して見当違いではないだろう。
 そして、この「20世紀美術館構想」が胚胎する原理はさらに遡っての検討を要請する。例えば、この構想を担った一方の当事者であるル・コルビュジエが、それよりも随分以前の1920年代末に、「ムンダネウム」の構想を練っていたことは広く知られている。これは、世界の諸文化交流のために、世界図書館、世界大学、5つの展示館などの諸施設を(この多機能ぶりそれ自体が、既にポンピドゥ・センターの先駆とも考えられる)、黄金分割に忠実に配置しようとしたユートピア的な都市計画であったが、その中心に位置していたのが他でもない世界博物館であった。ちなみに、この世界博物館にはピラミッドを平たくならしたような形態と螺旋形の導線が与えられており、来館者はいったんエレベーターで最上階まで昇った後、螺旋状のプロムナードを下って地上階へと降りてくるような構造になっていた。ル・コルビュジエは、この空間構成によって、従来のフラットな空間展示とは一線を画し、展示作品の文化的背景や地理的条件を立体的に示すことを意図していたわけである。結果的に「ムンダネウム」は実現されなかったのだが、このピラミッドと螺旋形を組み合わせた空間構造がよほど気に入ったらしく、ル・コルビュジエは以後「パリ現代芸術センター」(1931年)や「無限に成長する美術館」(1939年)の計画案にも、繰り返し同パターンのデザインを採用している。前者に関して、当のル・コルビュジエが「この美術館にはファサードがない。訪問者はファサードを見ることはない。ただ美術館の内部を見るだけだ」★1と述べているのが示唆的なのだが、螺旋状の導線が作り出すサーキュレーションは、まさに外部を持たない「無限に成長する」空間にはうってつけであった。「無限に成長する」がゆえに、様々な記憶が無尽蔵に蓄積されていく「ムンダネウム」は、まさに20世紀における「ムセイオン」の正嫡たらんとした計画であり★2、その見果てぬ夢は戦後の「20世紀美術館構想」にまで引き継がれることになったのである。
 また「20世紀美術館」に大きな影響を与えた原理ということであれば、ル・コルビュジエがなくなったときに文化相という要職にあり、その葬儀委員長をも勤めたアンドレ・マルローの「空想の美術館」も忘れることはできまい。戦後まもない1947年に提唱されたこの理念は、無数の写真の再構成によって膨大なアーカイヴを形成し、現実には収集不可能なコレクションを「空想の美術館」として広く公開しようというものであり、様々な文化的記憶が蓄積された美術館本来の機能の再考を促す画期的な発想として注目を集めてきた。記憶の問題が、写真というメディアの再現性と分かちがたく結びついているだけに、この理念はしばしばベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』と比較されてきたのだが、マルローの場合、その構想は20世紀のテクノロジーよりはむしろ19世紀の文化的記憶に多くを負っていただけに、「空想の美術館」はより古典的な理念としての性格を強く持っていたのだった。
 もちろん、「……だった」と過去形で表記しているのは、或る時期を境に、「空想の美術館」の在り方そのものが大きく変化してしまったのだと言わんとしてのことである。よく知られているように、極めて19世紀的な「空想の美術館」は、一方では長年にわたって密な親交を結んでいたピカソの決定的な影響によって触発された理念でもあった。「アフリカの形態の複数性が明らかになったとき、すべてが変わった。ある芸術の発見がひとつの様式の発見とはいえない——そういう事態が生じたのはこれが初めてだった。……ピカソだけがそれを実感していた」★3と述べるように、マルローはアフリカの原始美術に震撼し、それによって得た成果を西洋美術のコンテクストへと移植したピカソ独自の能産性のなかにこそ、異文化の記憶を西洋的に再構成する「空想の美術館」の可能性を見ていたのである。であればこそ、ピカソの死に際して、無二の親友に先立たれしまったマルローが、ある種の感傷を込めてその死と「空想の美術館」の死をなぞらえたとしても、そのこと自体はいたって自然な態度と言うほかはない。
 しかし問題はここからだ。「空想の美術館」の死を宣告したマルローは、すかさず「<オーディオ・ヴィジュアル>の世界が始まる」と次の言葉を継いでいる。当時は既にマクルーハンらの言説が浸透していたのだから、もちろんこの<オーディオ・ヴィジュアル>も、字義通りにイメージの優位を強調した言い回しと考えて差し支えないだろう。確かに、マルローが構想した19世紀的(あるいは、フローベール=プルースト的)な「空想の美術館」はピカソの死を以って終焉を迎えたのかもしれないが、それは同時に、ピカソという固有名から解放された「空想の美術館」が<オーディオ・ヴィジュアル>な位相へと移行する新たな局面の幕開けでもあった。すなわちその瞬間、それまでアナログな想像力のうちにとどまっていた「空想の美術館」は、あらゆる記憶やデータベースが画像や情報として格納され、自在に切り取ったり組み合わせたりすることができるハイパーテキスト的な概念へと変貌を遂げたのである。とすれば以後、写真、映像、メディアアートといった歴史の浅い形式が、芸術表現としての認知を受け、現実の美術館制度のなかに取り込まれていくことももはや時間の問題だったのである。
 話がやや脱線気味に展開してしまったが、しかし「ムンダネウム」にせよ「空想の美術館」にせよ、ポンピドゥ・センターの理念に極めて大きな影響を与えていることは疑いのない事実である。例えば、ポンピドゥ・センターの床面は約45mX165mの長方形によって構成されているが、驚くべきことに、この床面は全くの無柱である。建物の内部はただ、各階ごとに架設の壁面によって仕切られているだけであり、空間のパーティションは展覧会のたびごとに自在に変更することができる。ピーター・ライスが考案したゲルバー・システムという原理の導入によって可能となったというこの室内空間は、「ムンダネウム」とは全く別の構成原理によって「無限に発展する」空間を実現したとは言えないだろうか? また、映像部門の充実振りについても、既に多くの紹介が為されている。ポンピドゥ・センターは開館以来映像部門に力を注いでおり、NMAM内にも写真と映像の2部門が設置されているほか、ヴィデオ・アートや実験映像、コンピュータ・アートといったまだまだマイナーな諸分野も専門のキュレーターが業務を担当しているほか、CCIのメンバーも交えて「ヴァーチャル・レビュー」と呼ばれるユニークな活動も展開されている。複合型文化施設ならではのアーカイヴァルで横断的な活動、とでも言えるだろうか。
 さて、ポンピドゥ・センターが開館に至った経緯にことさらに注目してみせたのは、もちろん、開館以後に開催された諸々の展覧会がいかに独創的でダイナミックであり、多くの耳目を集めてきたかということの裏返しでもある。既に触れたとおり、このポンピドゥ・センターの精力的な運営には、1950年代にはもはや現代美術の中心地がパリからニューヨークへと移行してしまったという痛切な自覚の下、何としてもその覇権を奪還し、美術史の布置を自国中心のものに再編成しようとする国家的なリヴィジョニズムも深く関与している。とりわけその意図は、「パリ=ニューヨーク」(1977)「パリ=ベルリン」(1988)「パリ=モスクワ」(1979)「パリ=パリ」(1981)といった具合に、他の都市との総体比較によって「芸術の都」パリの威信を回復しようとする二都展のシリーズに顕著に表われていたし、また一方では、柿落としを飾った「マルセル・デュシャン」展を皮切りに、20世紀美術の重要作家に新たなスポットを当てようとする企画も途切れることなく展開された★4。また、グランド・ギャルリの展示に限らずとも、デザイン・映像・文学などの諸分野において、極めて興味深い展示が続々と開催されていった。
 以後20数年余、重要な展覧会がいくつも開催されたわけだが、とりわけここでは2つの展覧会に、メルクマールとしての意義を見出してみたい。一つは「前衛芸術の日本」展(1986)で、当時ポンピドゥ・センターに在勤し、この企画にコミッショナーとして関与した岡部あおみによると、同展は一部で実現が待望されていた「パリ=東京」展の発展形態として、また日本の伝統的な時空間を紹介することに主眼を置いた磯崎新企画の「間」展(1978:会場はパリ装飾美術館)に多大な刺激を受けたことによって発案され、以後4年の準備期間を経て開催にこぎつけたという★5。これは、グランド・ギャルリでは初の非西洋圏の美術をテーマとした展示であり、また「ジャポニズム」などの括りを取り払い、あくまでも「前衛」という観点から日本の20世紀美術を捉えようとする初の試みであった。
 前例がないこともあり、この試みは企画趣旨の設定はもとより、作家作品の選択、出品交渉、予算や会場面積の不足など様々な制約により難航を極め、実現にいたるまでに日仏両国の専門家による膨大な対話が積み重ねられることになった。結果的にそれは、1910〜1970年までの様々な作品を網羅することになるのだが、河原温の「浴室シリーズ」や村上三郎の紙破り、暗黒舞踏や「もの派」の諸作品、果ては丹下健三の「東京計画X」など多領域な展示が、「前衛」の一語を媒介に一堂に会している様はさぞ圧巻だったに違いない。同展の主旨では、「前衛」は日本の現代美術が担ってきた過酷なリアリティ、国境というローカルな枠組みを独創的な視点によって乗り越えようとしてきた潮流という意味を与えられている。その斬新な切り口は一部で酷評され、また残念ながら日本巡回も実現しなかったが、日本の近現代美術が担う創造力を未だ評価し得ずにいるわれわれにとって★6、「前衛芸術の日本」展の掛け金が極めて重要であり、また先駆的だったことは間違いない。
 もう一つは、それより少し後に開催されたジャン=ユベール・マルタン企画の「大地の魔術師たち」展(1989)である★7。日本からは勅使河原宏、河原温、河口龍夫、宮島達男の4人が参加したこの展覧会は、西洋圏と非西洋圏の美術を「魔術」というキーワードの下に併置する試みで、従来のプリミティヴィズムなどとは全く異なる視点に依拠したその展示は、国際的にも極めて大きな反響を呼んだ。
 同展が開催されてから10年以上経過した今、あらためてその意義を回顧してみるといかなる見取り図が描けるだろうか? 従来のプリミティヴィズムを更新し、現代美術を西洋圏の専有から解放した点では同展は紛れもなく先駆的であったし、逆に明らかに宗教的・呪術的なコンテクストによって制作された第三世界の作品を現代美術として扱おうとしたその企画趣旨に、ある種の植民地主義的な臭いを嗅ぎ取ることも可能である。同展に寄せられる賛否両論の視点は、どちらも相応に「正しい」ものであるし、また双方の視点を止揚することによって、以下のように言うことができるに違いない。すなわち、西洋と非西洋を併置するために用いられた「魔術」というキーワードは極めてポストモダンな概念なのであり、それは冷戦の終焉という「歴史の終わり」にも対応するものであったのだ、と。要するに。その後のマルチカルチャリズムにいち早く先鞭を付けた「大地の魔術師たち」展は、ポスト冷戦期の文化的イニシアティヴを確保して、アメリカが覇権を握る現代美術の地勢図に自分の存在感を強く印象付けようとした、いかにもフランス的な企画であったと言えるのである。
 その後もポンピドゥ・センターの精力的な運営は滞ることなく、1990年代にも様々な興味深い企画を開催、3年間の改修期間を終えた今では、またあらためて斬新な視点による展示が期待されている。改修後は未だポンピドゥを訪れる機会のない私も、近いうちにまた是非足を運びたいと思っているわけだが、そんな折、9月まで開催されていたハンガリー出身のメディアアーティスト、ゲオルグ・ルグランディの作品をWeb上で閲覧する機会があった。この作品は、まず来館者の所持品などをスキャンした情報をデータベースに格納した後、2Dの地図が投影されたタッチパネルを通じてその情報を引き出す一種のデジタル・アーカイヴとして構築されているものだった。遠く離れた東京のパソコンの端末から、絶えず情報を収集しデータを増大させて自己組織化し続けているこのアーカイヴに接した私は、この作品がポンピドゥ・センターという展覧会場の性質をそのまま物語っている、極めて自己言及的なものであるように強く実感されたのである。
 
★1——引用はビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築——アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』松畑強訳、鹿島出版会、1996年に拠る。
★2——もっとも、その理念は。ル・コルビュジエの存命中はついにヨーロッパでは実現されえず、アーメダバード、チャンディガール、そして東京といずれもアジアに位置する3都市において断片的に実現されるにとどまった。螺旋状の導線という点で言えば、皮肉なことにそれは。ル・コルビュジエのライバル的存在だったフランク・ロイド・ライトのグッゲンハイム美術館において実現されたのである。一方で、田中純は「ムンダネウム」が1925年にアメリカの雑誌で発表された「ソロモン王の神殿」に酷似しているという指摘を踏まえて、その形態を記憶術との関連で解釈する興味深い議論を試みている。詳細は「建築文化」2001年2月号を参照のこと。
★3——『黒耀石の頭——ピカソ・仮面・変貌』岩崎力訳、みすず書房、1990年
★4——デュシャンに関して言えば、展覧会より少し後の1980年に刊行された『Marcel Duchamp, Notes』は、「Inframince(極薄)」と題された46篇のメモが掲載されていたことで大きな反響を呼んだ。このメモが、その後のデュシャン研究にとって決定的に重要な発見であったことは言うまでもない。
★5——『ポンピドゥー・センター物語』、紀伊國屋書店、1997年を参照のこと。以下、同展の内容に関する記述は全面的に同書に拠る。
★6——この問題はその後、アレクサンドラ・モンローをゲスト・キュレーターに迎えて企画され、ニューヨーク、サンフランシスコ、横浜を巡回した「日本の前衛美術」展(1993)が開催されたときにも再度指摘されることとなった。
★7——なお同展は、正確にはポンピドゥ・センターとラ・ヴィレットの二会場で開催された。この決定には、一箇所だけに収まりきらなかった展覧会の規模に加え、マルタンが同所を会場とする別の展覧会企画に関与していたことも影響している。