6 MoMAの誕生——データベースと情報発信
 
 さて、前回は20世紀の美術館のデータベース的性格を示すべく、その先鞭をつけた代表的な理論としてベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を取り上げ、その射程にも考察を加えてみたわけだが、ではそうしたデータベース的な性格を最も如実に体現した美術館といえば、一体どこなのだろうか? そのヒントは、たとえば冒頭に引用した磯崎新の一文のなかに潜んでいる。
 このなかで磯崎は第二世代美術館、彼の定義を借りるなら「第一世代のそれが自動的に創出してしまったアカデミーの権威にたいする意図的な反抗として生まれた美術運動とかかわって」生まれた美術館のことについて言及しているのだが、今までにも検討を重ねてきたように、より具体的に言えば無限定・無性格な空間を特徴とした美術館のことである。すなわち、美術品とはうやうやしく室内に展示されて鑑賞されるものであるが、それが必ずしも額縁絵画とは限らないし、展示作品の大きさや形状も様々である。もちろん、これらの作品は世界中どこを巡回したとしても、基本的には同一の条件で干渉されなくてはならない……。およそこのような前提の下、大きさや形状が多岐にわたる様々な美術品の展示に対応すべく、可動式の壁面と、可能な限り空間的特徴の消去された無機的な空間が造形されていくことになった。これこそが、いわゆる磯崎のいう第二世代美術館、一般には近代美術館と呼ばれる施設の誕生した所以である。その無機的な空間をたとえていう「ホワイト・キューブ」が、またいかにもデータベースにもふさわしい均質でアーカイヴァルな性格をも併せ持っていることは、この由来からも容易く実感できることだろう。
 そして、今や世界各国に所在する近代美術館の中でも、地名を特定せずにただMoMA(Museum of Modern Art)とだけ言った場合、ほとんどの人が真っ先に思い浮かべるのがニューヨーク近代美術館のことである★1。リリー・ブリス、メリー・サリヴァン、アヴィ・ロックフェラーという3人の女性のプライヴェート・コレクションを基盤に、1929年の夏に設立され、同年11月8日に5番街のヘクシャー・ビル内に開館したMoMAは、その当初からアートシーンの熱い関心を集めつづける一方、数回に及ぶ増改築を経てコンテンツを充実させていった。今や所蔵作品数は10万点を超え、文字通りデータベースと呼ぶにふさわしい膨大な情報が、Web上でも公開されている。
 それにしても、MoMAが開館当初からアートシーンからの熱い注目を集めつづけた、その理由はどこにあるのだろうか? 最も人口に膾炙したその説明は、この美術館がまさしく「中心の変化」の主舞台となったからだというものだ。すなわち、ポロックやニューマンらが傑出した絵画的達成を実現し、またグリーンバーグらによる理論的擁護の後押しを受けた1950年代の抽象表現主義運動は、まさしくMoMAを主要な発信拠点とするものだった。質的にも理論的にも、同時代のヨーロッパ芸術を確実に凌駕していたこの運動は、まさしく「アメリカ美術の勝利」(アーヴィング・サンドラー)を象徴するものであって、MoMAはその前線基地にして総司令部であったのだ、と。だが、ことはそれほど単純なのだろうか? もちろんここに、この美術史上の「定説」を覆すような議論を展開しようなどという大それた野心はないが★2、ミュゼオロジーにおいても画期的とみなされるMoMAの位置を明らかにするにあたっては、他にも何本かの補助線を導入できるように思われる。
 そう、MoMAには他にもいくつかの画期的な性格が挙げられる。たとえば立地条件などもその一つで、1932年以降、MoMAの拠点となっている53番街は、ニューヨーク市街の中でも活気のあるミッドタウンに属する地域である。美術館の建設が都市のゾーニング事業としての性格を強く持つことは、既にルーヴルの章でも検討した通りであるが、MoMAの場合も明らかに、ギリシャ美術やルネサンス美術をコレクションの中心とし、アップタウンに所在していたメトロポリタン美術館との「棲み分け」が強く意識されていた。区画が厳格に整理され、厳しい建築法規によって規制されているなど、諸々の条件的制約を負っていたMoMAの立地は、別の必然性に基づいた上で意図的に選択されたのである。
 だが、MoMAの独自性が最も強く窺われる側面としては、やはり開館以来今に至るまで一貫しているその独自の運営方針が挙げられるだろう。これは初代館長として招かれたアルフレッド・バー・Jrの慧眼に端を発するものである。就任早々、バーは絵画、彫刻、デッサンといった従来のオーソドキシーにのっとった分類をやめる方針を打ち出し、当時はまだ芸術とみなされていなかった写真、映像、デザインといった新しいメディアの可能性にも目を向けていく。「機械美術」展(1934)や「写真百年」展(1937)といった、当時としては画期的な企画主旨をもった展覧会はこのような背景のもとに実現されたのだし、その一方でその柔軟な姿勢は、従来の美術の再構成にあたっても、キュビスムやシュルレアリスムをいち早く高く評価することなどに発揮されたのだった。先に触れた戦後の抽象表現主義の興隆も、もちろんMoMAのこうした方針に多くを負っていたことは疑いないし、それはその後のコンセプチュアル・アートやパフォーマンスの「発見」にもつながっていく。バーその人の柔軟かつ野心的な考え方は、彼が自ら企画を担当した「キュビスムと抽象芸術」展(1936)のカタログに掲載されている独自の系統図が最も雄弁に物語っている。この図の中で、四角で囲まれた5つの要素(JAPANESE PRINTS/NEAR-EASTERN ART/NEGRO SCULPTURE/MACHINE ESTHETIC/MODERN ARCHITECTURE)は、いずれも従来は芸術とみなされてこなかった表現領域であり、これらの表現を新たな文脈に編入しようとするその意図は、やはり現代美術の中心地がニューヨークへと移行した現実とも密接にかかわるものなのだ。
「キュビズムと抽象芸術」展カタログに掲載された、アルフレッド・バー・Jrの系統図
「キュビスムと抽象芸術」展カタログに掲載された、アルフレッド・バー・Jrの系統図

 以下は私見だが、なかでもMoMAの先駆性は最後のMODERN ARCHITECTUREの部門において最も力強く発揮されていたように思う。MoMAに建築・デザイン部門が設置されたのは開館間もない1932年のことで、美術館史上でも初の試みであった。以後MoMAは、斬新な企画に基づく展覧会を次々と打ち出して建築・デザイン概念の発信拠点としての地位をゆるぎないものとしていくのだが、そのとりわけ重要な例として、ここでは「インターナショナル・スタイル」に手短な考察を加え、さらには少し後の「オーガニック・デザイン」にも一瞥を与えておこう。
 「インターナショナル・スタイル」は、MoMAに建築・デザイン部門が設立されてからいち早く提唱されたデザイン概念である。バーの命を受けて画期的な近代建築の展覧会を組織する必要に迫られたフィリップ・ジョンソンとヘンリ=ラッセル・ヒッチコックの二人は、1920年代のヨーロッパで広く流行していた機能主義建築に注目し、そのエッセンスを「ヴォリュームとしての建築」「規則性」「装飾付加の忌避」の三点に見出して★3、それをまったく新たなモダニズムのデザイン概念として再構成しようとしたのであった。総計15カ国40名の建築家が一堂に会したこの展覧会は、正式には「モダン・アーキテクチャー——国際展」という名称が冠されていたが、今ではその主要コンセプトであり、また同時に出版されたテキストの書名でもあった「インターナショナル・スタイル」の方が遥かに通りがよいであろう。
 「インターナショナル・スタイル」の提唱が見事な成功を収めたことは、以後の建築・デザイン史にこの概念が深く浸透していった様子からも容易に察することができるわけだが、そもそも気がかりなのは、なぜ二人がヨーロッパの機能主義建築を紹介するにあたって、既存のものとは別の文脈を用意し、それに「インターナショナル・スタイル」という名称を与える必要に迫られたのか、ということである。その答えは、機能主義建築のデザイン原理から極力社会的・政治的側面を排除して、純粋に形式的・美学的な分析として提唱された「インターナショナル・スタイル」の由来に潜んでいるだろう。だからこそ、「インターナショナル・スタイル」はル・コルビュジエを中心とした編成の中に、一見対照的なフランク・ロイド・ライトを組み込んだりして、モダニズムと地域性の関係を希釈して、従来の機能主義とは一線を画そうと試みている。「インターナショナル・スタイル」が志向した幾何学的秩序は、アメリカ発のデザイン原理として、その後も長らくモダニズム芸術観を支配しつづけるのである★4
 一方で、少し遅れて1940年に提唱された「オーガニック・デザイン」は、その由来にさらに人為的・戦略的な側面があった。というのも、そもそも「全体を構成する各パートが、構造・素材・目的のすべての調和を為している」という「オーガニック・デザイン」の定義に相当する作品は★5、実はこの概念が案出された時点では実在していなかったからだ。実際の作品は、商品化を前提としたコンペの結果初めて生まれたのだから、事後的な作品の出現が想定されていたこのデザイン概念は、或る意味ではプログラミング言語のようなものだともいえるだろう。そして、この夏に東京で大規模な個展が開催されたばかりなので見た人も多いと思うが、フレキシブルに成形されたチャールズ・イームズやエーロ・サーリネンの椅子は、まさしくこの「オーガニック・デザイン」のデザイン原理に対応するアーティストの側からの最良の解答であり、以後のデザイン・ムーブメントにも大きな影響を与えることになった。ブルーミングデールズという一私企業の主導で進められたこの企画を、商業主義と批判するのは容易なことなのだが、それとは別に、この「オーガニック・デザイン」はいかにも19世紀的・ヨーロッパ的なアート・アンド・クラフトを20世紀的・アメリカ的なデザイン言語へと再構成した概念としての側面も持っているだろう。
 ところで、「インターナショナル・スタイル」にせよ「オーガニック・デザイン」にせよ、MoMAが提唱した一連のデザイン概念には、ある種の一貫した底流が窺われないだろうか? 既に検討した通り、これらの概念そのものには極めてフォーマルで美学的なパラダイムが与えられているのだが——それゆえにMoMAの展示空間は無機的な「ホワイト・キューブ」の代名詞なのだし——その一方で、このような概念系を提唱するMoMAの意図にはきわめて強い政治性が感じられるのだ。その分類・カテゴライズがいくら画期的であったとはいえ、「ホワイト・キューブ」の連鎖によって構成されている以上、MoMAもまた一直線の順路によってクロノロジカルな展示空間を構成する美術館である点では他の美術館と何ら変わらない——だからこそ、ベンヤミン的な「礼拝価値」から「展示価値」への質的転換を象徴する最良の例とみなされるのである。とすれば、その展示が自国中心の美術史を強要する恣意性によって行なわれており、今で言うマルチカルチュラルな視点において、必ずしも均等な条件の下で作品展示が為されていなかったとしても不思議ではないだろう。前述の「アメリカ美術の勝利」という観点もまさにここに由来するのだが、同種の意図は建築・デザインの部門には一層強く窺われる。自国の建築・デザインを同時代の歴史の中心に据えようとするMoMAの意図は、「シカゴにおける初期の近代建築」展(1932—1933)、「H.H.リチャードソンとその時代の建築」展(1936)、「バウハウス1919—1928」展(1938)、「アルヴァ・アアルト」展(1938)、「フランク・ロイド・ライト」展(1940)といった「モダン・アーキテクチャー」以降の展覧会ラインナップによって一目瞭然であろう。芸術の一領域として認知されてからの歴史が浅いにもかかわらず(あるいは浅いからゆえに)、そのパイオニアであるMoMAは、以後の世界的趨勢をリードするイニシアティヴをいち早く確保したのである。
 このように、MoMAの全体像を検討する上で、建築・デザイン部門の担ってきた役割は極めて大きなものなのだが、建築の重要性ということであれば、それはMoMAの施設そのものに対しても言えることである。MoMAのホームページへとアクセスして、トップページからMuseum Historyの項へとジャンプすると、開館当初のMoMAのスナップが目にとまる。決して大きくはなく、これといった特徴もない、クラシカルな様式の5階建ての石造建築。その後MoMAは、現在の巨大な威容を誇るまでに、主だったものだけで3度の増改築を経験してきたのだった★6。実際、収集や展示の具体的な対象であるソフトをいかに構築するのかという方針の変化は、その受け皿・ハードでもある展示空間の変質とはきっても切れない関係にあるのである。
 そして言うまでもないことだが、現在のMoMAの性格は、新館建設を柱とした3度目の増築によってその多くが規定されている。そもそもこの事業は1979年の開館50周年を迎えて実行に移されたもので、企画展スペースが地階と一階、絵画・彫刻が二、三階、写真・ドゥローイングが二階、建築・デザインが四階に振り分けられたこの空間は、展示面積にして従来の二倍に達する巨大なものであった。もちろん、フロアが各セクションごとに振り分けられているからといって、総数10万点にも及ぶその膨大なコレクションが相互にディスコミュニケーションなまま死蔵されているわけではない。この新館には、設計者であるシーザー・ペリが導入したガラスのエスカレーター空間によって明るい採光が確保されており、館内の展示物を見て回るためにこのガラスの空間を上下動する体験は、まさしく20世紀美術における「過去」と「現在」の往還にたとえられる。極めて透明度が高く、しかも網羅的でオンラインによる検索が可能なそのディスプレイは、やはりデータベースと呼ぶのにふさわしいことが実感される。これは、MoMAが「展示価値」を最も典型的に体現した空間であるという、当たり前の事実が再認識される瞬間とも言えるだろう。
 そして周知のように、MoMAは現在4度目の大規模な増改築に着手しようとしている。MoMAの次回の大改築計画である「エクスパンション・プログラム」のコンペに谷口吉生案が一等当選したことは、1997年の暮れに日本でも大々的に報道され、また同時期に東京でも最終候補案の展覧会が開催されたこともあっていまも記憶に新しいのだが、MoMAのホームページ上の告知によれば、来夏にも谷口案が実施に移されようとしているらしく、完成の暁には53番街に63万立方フィート(?)もの巨大な空間が出現するという。そもそもこの「エクスパンション・プログラム」の選考では、常に20世紀美術をリードしつづけ、またグッドウィン&ストーンやシーザー・ペリらの建築を揺り篭としてきたMoMAの歴史に対していかなる敬意を示すのかが重要な評価の要素とされ、良質のメタボリズム的なデザインによって、空間のサーキュレーションを重視した谷口の案が、その現実性もあわせて評価された上で一等を獲得したのだった。西側に企画展スペースが、東側には資料室などのデータベース部分が配されるというこの空間を拠点に、森ビルとの提携事業によって東京進出を発表するなど、21世紀の新展開を見据えているMoMAが今度はどのような戦略を打ち出そうとしているのか、興味は尽きることはない。
 なおあまりにも不謹慎な余談だが、世界を震撼させた9月11日の自爆テロ事件によってWTCの威容があえなく崩れていくさまをTVで見た私は、思わず同じミッドタウンに所在するMoMAが崩壊してしまう様子を夢想してしまったのであった。仮にそんな悪夢が現実のものとなってしまったなら、それは21世紀における「ムセイオン」の焼失にたとえられ、後々まで長く語り継がれることになるのだろう。


★1——その証拠に、同美術館のURLはhttp://www.moma.org/といたってシンプルなものである。
★2——フランス人の美術史家が「いかにして50年代に革命が起こり、美術の中心地がパリからニューヨークへと移行したのだろうか? ポロック、クライン、デ・クーニング、マザウェル、ロスコ、ニューマンらの抽象表現主義が前衛を、創造的な自由と個人の連帯を実現するようになったのだろうか?」と語るくらいなのだから、この定説はよほど強固なものなのだろう。詳細はSerge Guilbaut, Comment New York VolaL'Idee d'Art Moderne, Jacqueline Chanbon, 1983を参照のこと。
★3——なおこのうち「装飾付加の忌避」は、1966年に「構造の文節」へと修正されている。詳細は『インターナショナル・スタイル』、武沢秀一訳、SD選書、1978を参照のこと。
★4——その意味では、「インターナショナル・スタイル」のデザイン原理は、その直後に隆盛を迎えたファシズム建築と紙一重の関係にあるとも言えるだろう。実際、或るフィリップ・ジョンソンの詳細な研究書では、この敏腕キュレーターが一時期アメリカのファシズム活動に荷担していたショッキングな事実まで暴露されているのだ。詳細はFranz Schulze, Philip Johnson-Life and Works, Knopf, 1994を参照のこと。
★5——Eliot F. Noyes, Organic Design in Home Furnishing, MoMA, 1941
★6——まず1939年には、フィリップ・L・グッドウィンとエドワード・ダレル・ストーンによって大理石の外壁や展示室の採光のための大ガラス窓などを特徴とした典型的なモダニズム建築が建てられ、1951年と1964年の2度にわたって、フィリップ・ジョンソンによって鉄骨とガラスを利したリース風の増築が施されたほか、彫刻の庭が整備される。そして1983年には、シーザー・ペリの設計による新館が増築されたのであった。