5 データベースとしての美術館——ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の射程
 
 前回は「『ミュージアム』の本質は複製とデータベースという問題を通じて顕著となる」という主旨のことを述べて締めくくった。根拠を明示しない断定はやや拙速だった気もするが、しかしこの断定に対してまず異論が生じないことも確かなように思われる。美術作品のコレクションをはじめとして、膨大な情報が格納された「ミュージアム」は、確かに極めてアーカイヴァルな施設である。施設が巨大化し、作品の点数が増大すればするほど、年代やジャンルなどの精密な基準に応じた分類が不可欠になるわけだから、その内実をデータベースという比喩で語ることには何の違和感もないであろう。その意味では、「ミュージアム」とはまさしく、コンピュータの普及に先立って確立された概念に先行したデータベースなのである。
 しかし、いまや疑う余地のない「ミュージアム」とデータベースのアナロジーが自明のものとなったのは、果たしていつのことなのだろう? 少なくとも、「ミュージアム」がまだ「キャビネ・デ・キュリオジテ」と呼ばれていた当時、「ミュージアム」は勝者の富の象徴として君臨する一方で、未だ好奇の視線にさらされる存在に甘んじていたはずである。その「見世物性」はデータベースのニュートラルな性格とは明らかに異質なものであり、「キャビネ」から「ミュージアム」へという空間の変化、ひいてはそれと連動した観者の視線の変化こそが、この空間のデータベース化の必須要件であった。
 そう、データベースとしての「ミュージアム」はまさしく近代の所産であった。それは例えば、ミシェル・フーコーの『幻想の図書館』のような書物を一読すれば強く実感されることである。20世紀後半を代表するこの哲学者の鋭い眼差しが、とりわけ近代という時代の「制度」をも射抜くものであることは以前にも参照した「ラス・メニーナス」の分析からも容易に察せられるのであるが、この小著にあってフーコーはそれと同様の視線をエドワール・マネの「草上の食事」と「オランピア」へと向けて、この二つの絵画が最初の「美術館絵画」であったと言ってのけるのである。この「美術館絵画」というメタファーは、マネの絵画のなかに——ジョルジョーネやラファエロやベラスケスらの——先行絵画の意図的な引用が含まれており、またその引用が対象と被対象の間に即物的な関係を成立させていることが含意されているのであるが、絵画の引用=美術館というこの図式そのものが、美術館をデータベースに見立てる想像力なしに成立しないことは確かだし、加えて、フーコーがマネと美術館の関係を、博引傍証な作風で知られた『ブヴァールとペキシュ』の著者・フローベールと図書館の関係と同一のものとみなしていた事実が、さらにこの印象を後押しする。これは、データベースとしての「ミュージアム」は、まさしく19世紀という時代に生まれた近代的制度だったことを示す一つのエピソードなのである。
 それにしても、マネの絵画を史上初の「美術館絵画」足らしめたのは、それ以前の絵画と一線を画したものとしたのは、一体何だったのだろうか? その理由は、むしろ逆の立場から明らかにされるものなのかもしれない。例えば、美術館のデータベース的な機能に対して一貫して批判的な立場を取ってきた現代の批評家ダグラス・クリンプは「われわれが芸術と呼ぶ製作物のすべて、あるいは少なくとも写真複製のプロセスに従うものすべてが、偉大な超=作品としての地位を得ること。それらが歴史的偶然の中にいる人間によってではなく、真に存在する『人類』そのものによって創造された『芸術』に属するということ」★1と述べて、まさしくマネの時代に市民権を獲得しつつあった写真複製が、美術館の本質と深く共振していることを力説している。写真という複製技術——言うまでもなく、それは多くの点で画期的なことだった。その出現は、絵画をはじめとする芸術作品の唯一無二なオリジナリティを揺さぶり、またその精巧な再現表象能力によってアーティストのメチエのあり方を厳しく問う一方で、夥しい複製を流通させ、引用によって成立する世界観を形成し、人々の知覚や記憶の在り方をも大いに変容させてしまったのである(ベンヤミンその人の言によれば、それは芸術の最重要な責務が手から眼に移行したのだという)。多くの先行絵画からの引用によって成り立っていたマネの絵画が、美術館とのアナロジーで語られる理由はまさにここに、先人の記憶が蓄積されたその作品の在り方によるのだろう。
 もっとも、複製技術が台頭したのは19世紀後半のことであったが、それをめぐる思索が洗練されるのにはもうしばらくの時間が必要だったようである。写真に続いて、19世紀末には映画が発明され、20世紀はまさしく複製技術の世紀として幕を開けるのだが、複製技術をめぐる本質的な思索が試みられるのも、実は20世紀以降の話なのである。思索の成熟に時間を要したのはもちろん、写真や映画の本領である複製可能性、物質的現前性を単なる利点としてではなく、作品そのものの本領として利した作品が登場するのがこの時期からでもあるだろう。
この複製可能性をここでのテーマでもある「ミュージアム」の問題と関連付けた場合、その論点はおのずと絞られてくるし、検証すべき具体例も限られてくる。そしてその代表格が、アンドレ・マルローの『想像の美術館』とワルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」であることには多言を要すまい。この両者のうち、前者に関しては次回以降にまた別の角度からの検討を予定しているので、ここではもっぱら後者の複製をめぐる議論へとスポットを当ててみたい。
「複製技術時代の芸術作品」は、あらためてこの場で紹介する必要もないほどに著名な論考である。1936年に発表されたこの論考は、オリジナルとコピーの関係の優れた考察、写真や映像というメディアの本質に肉迫した論考として何ヶ国語にも翻訳されて多くの読者を獲得し、伝統的な美術史から最新のメディア論やカルチュラル・スタディーズに至るまで、様々な立場からの注釈が為されてきた。分量からすれば決して大部とは言えないこの論考は、「アウラ」という真正性と表裏一体の概念を広く喧伝した功績も大きく預かって、ベンヤミンその人の文献の中でも最も著名なものの一つとなっている。
 「複製技術時代の芸術作品」は、一読する限りでは明快な図式に立脚しているように
感じられる。複製技術の急速な浸透とそれと連動した芸術の大衆化は、芸術作品から「アウラ」という唯一性の輝きを失わせてしまったし、今日の美術館を支配する価値観は、唯一無二の作品を崇める「礼拝価値」から、多くのコピーが網羅的に分類整理された「展示価値」へと移行してしまったのだ、と。多くの場合、とりあえずこのような図式的整理が為されたあとは、伝統と「アウラ」を重んじる立場からコピーを批判するのもよし、逆に複製や大衆化を評価する立場からコピーの氾濫を肯定するのもよし、問題はもっぱら個々の読者の立場へと還元されてしまい、ベンヤミンその人の立場も、そもそもこの問題が提起された政治的コンテクストも、さして顧られることもなくどこかへと忘却されてしまう。しかし、そうした読解はいかにも片落ちの観を免れない。この「複製技術時代の芸術作品」は、実は恐らく先の政治的なコンテクストが希薄な要約よりははるかにラディカルな主張を孕んだテクストであり、その深部にまで錨を下ろせば、政治的な問題との対峙は不可避なものとなるはずなのである。
 ベンヤミンの主張の過激さは、例えば論考の冒頭からも容易に察することができる★2。この個所を一読すればわかるように、ベンヤミンは、明らかに古典的なマルクス主義の立場から資本主義的な生産様式を批判しているばかりか、またその批判の意図に則って複製概念へと言及しているのである。考えてもみれば、ベンヤミンは一貫してマルクス主義へのシンパシーを抱き続けていた人物だし、またこの論考を執筆していた当時は、ベルトルト・ブレヒトのラディカリズムへと傾倒していた時期でもあった。その意味では、この「複製技術時代の芸術作品」は、ほぼ同時期に書かれたブレヒト論やボードレール論と並行して、同一の問題系を抽出しつつ読み進めなくてはいけない論考ともなっているのである。
 以上の前提を踏まえれば、主題である「礼拝価値」から「展示価値」への移行にもまた、違った側面が窺われることだろう。先に述べた通り、従来この移行は「アウラ」の有無を試金石とした芸術作品の唯一性/複製可能性をめぐる、もっぱら唯美的で非政治的な議論として解釈されてきた。しかし実際には、一見唯美的なこの議論にも唯物論的なモメントが多々介在している。単に複製の技術そのものなら、手法が限られていたとはいえ古代ギリシャ時代からあったわけで★3、ベンヤミンが問題視しているのは、複製技術そのものよりはその技術的進歩が可能にした芸術の大衆化の方なのである。すなわち、複製技術の進歩によってもたらされた芸術の大衆化は、それ以前の規範では芸術ならざる作品を芸術足らしめ、「ミュージアム」の新たな展示・収集品目として再編成した。原理上無限に複製可能でまた「アウラ」を持たないこれらの作品は、作品相互間においても、観者との関係においても即物的な関係しか結べないし、また「ミュージアム」という空間におけるそのような即物的な関係の再構成は、ある意味でプログラミング言語のような唯物論的な構成要素へと擬えられる。ベンヤミンのいう「展示価値」の射程には、そのような唯物論的なモメントが捉えられていたのだった。
 そしてベンヤミンの主張の核心は、この「展示価値」をもう一方の「礼拝価値」とあらためて比較したときに明らかにされる。「アウラ」を備えた唯一無二の作品が帯びた「礼拝価値」は、言うなれば作品と作品の示す意味とが一対一で対応した、現実と表象の関係を基調としたものであるし、その一方で「アウラ」を持たない無数の複製作品の「展示価値」は、同一の意味があら
ゆる方向へと拡散され、シミュラクラとしての現実がいくつも模造=再生産された、現実同士の関係を基調としたものだ。そして言うまでもなく、ベンヤミンがより重視し、またよりラディカルな批判の対象として見据えていたのは、後者の方であった。「複製技術時代の芸術作品」とほぼ同時期、ベンヤミンはリアリズム絵画と複製技術の関係をめぐる或る断章を著しているが、その中でもやはり、「作者は十回続けて同じ絵が描けるほどに徹底して非個性的でなければならない」という主張への強い批判的関心が示されている★4。この主張の連続性からも、ベンヤミンが「展示価値」に見出した唯物論的なモメントが浮上してくるだろうし、またその連続性は、大量に流入し続ける「アウラ」なきコピーを、プログラミング言語をオペレーションするかのように分類・整理しなければならない新時代の「ミュージアム」の内実にも対応しているだろう★5。やはり、ベンヤミンは美術館がデータベースであることをいち早く見抜いていた先駆者だったというわけである。
 言うまでもないことだが、ベンヤミンの批判から65年余りを経過した今も、「ミュージアム」のデータベース的機能は倦むことなく伸張し続け、またそこに蓄積される情報も増大の一途を辿ってきた。「グローバリゼーション」の号令の下、収集された膨大な情報はますます無国籍化しているし、次回以降検討するMoMAやポンピドゥのような巨大美術館は、そうしたデータベース型「ミュージアム」の最たるものとして世界に君臨している。その現状を前提とすれば、「展示価値」という概念を媒介して為されたその批判がいかに本質を突いていたとしても、ベンヤミンの美術館批判がそうした現実に抗していたとは言えないのかもしれない。だが、ベンヤミンが開いたこの地平にこそ、以後の美術館批判の鍵が潜んでいることは決して過小評価されてはなるまい。
 ベンヤミンの地平に位置する「ミュージアム」批判——その最良の試みが、テオドール・アドルノの「ヴァレリー・プルースト・美術館」であることは誰しも疑いないであろう。フランクフルト学派の代表的な研究者であったアドルノは、よく知られているようにベンヤミンの縁者にもあたり、両者の仕事には血続きの親近性を感じさせる、似通った部分が少なくない。例えば『啓蒙の弁証法』において、アドルノがホルクハイマーと共同で提起した「文化産業」という概念は、主にジャズや映画が想定されてはいるものの、ベンヤミンと同様のマルクス主義的見地から、資本主義的な生産様式とその所産でもある大衆文化を、より一層根底的に批判するものとして問い掛けられたものとして考えることができるだろう。
 そして、これと同様の視線は件の「ヴァレリー・プルースト・美術館」にも間違いなく投影されている。芸術の唯一性を絶対視し、夥しい物体が溢れた美術館への嫌悪を覚えるヴァレリーと、美術館に溢れる無数の記憶の連鎖に至福を感じるプルースト——この論考は、自分より一世代前のフランス人文学者二人の両極端なルーヴル体験を対照し、その対照性の狭間において美術館という空間の本質を追求しようとする試みである。ヴァレリーとプルーストの対照的な反応は、かたや純粋詩の始祖・マラルメ直系の弟子にあたり、かたやマドレーヌの紅茶をも記憶に結び付けてしまう、そうした両者の人物上、作品上の相違からある程度予測のつくことではあるし、であればこそアドルノも両者の見解に敢えて優劣を判断するような愚は犯していない。しかし、ニュートラルな立場に徹しているはずのアドルノが、「ドイツ語のmuseal(美術館的)という言葉には、少々非好意的な色合いがある。それは、観る人がもはや生き生きとした態度でのぞむことのない、そしてまた自らも朽ちて死に赴きつつある、そんな対象物を形容するさいの言葉なのだ。これらのものは、現在必要であるからというより、むしろ歴史的な顧慮から保存される。美術館と霊廟を結び付けているのは、その発音上の類似だけではない。あのいくつもある美術館というものは、代々の芸術作品の墓所のようなものだ」★6とこの論考の冒頭で述べるとき、実は最もラディカルな美術館批判が提起されていたのではないだろうか? であればこそ、霊廟といい博物標本室といい、アドルノはデータの死蔵された美術館に対してこの上なく皮肉なメタファーを引き合いに出すのである。これは紛れもなく、ベンヤミンの圏域にある問題意識だと言えるだろう。

★1——「美術館の廃墟に」(ハル・フォスター編『反美学——ポストモダンの諸相』室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、1987に所収)
★2——論考の最初の部分には、以下のような一節がある。このような主張の背景にある価値観がいかなるものなのか、想像するのは容易なことである。「上部構造の変革は下部構造の変革よりもはるかにゆっくりと進行するものであるから、生産諸条件の変化が文化のすべてに影響を及ぼすには、半世紀以上が必要であった。……この要求に対する答えとなるのは、権力奪取後のプロレタリアートの芸術に関するテーゼ、ましてや無階級社会の芸術に関するテーゼではなく、むしろ現在の生産諸条件のもとでの芸術の発展傾向に関するテーゼである。生産諸条件の弁証法は、経済の分野においてのみならず、上部構造においても同じくらいはっきりと現れる。……芸術理論のなかに新しく導入される諸概念は、ファシズムの持つ目的には全く役に立たないという点で、従来の諸概念と異なる。その代わり、芸術製作における革命的要請を定式化するのである」。なお引用は『ベンヤミン・コレクション1——近代の意味』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、1995に拠る。
★3——その証拠に、ベンヤミンはこの当時からあった複製の手法として鋳造と刻印を、作品のタイプとしてブロンズ、像、テラコッタ、硬貨を挙げている。そしてすぐに気づくように、これらの作品のタイプはいずれも実用や産業を目的としたもので、唯美的なものではない。複製技術そのものよりも、複製に唯美的なモメントを見出しうるか否かのほうが重要な論点であることが、この記述によっても例証されている。
★4——「絵画、アール・ヌーヴォー、新しさ」(『パサージュ論V
——ブルジョワジーの夢』今村仁司ほか訳、岩波書店、1995に所収)
★5——ベンヤミンは、そうした「展示価値」に基づく収集・分類を、それ以前の収集・分類からは歴史的に切断されたものとみなしている。
★6——引用は『プリズメン』渡辺祐邦+三原弟平訳、ちくま学芸文庫、1996に拠る。またこの論考の終わり近くでは、美術館が博物標本室にもたとえられている。なお前述の「美術館の廃墟に」の冒頭でも、訳文は異なるがこれと全く同一の個所が引用されている。

お詫び
本連載の第2回「ムセイオンとピナコテーク——美術館前史」において、村田真氏がArtscape誌上で行なっている連載「美術の基礎問題」の第1回「美術館について」を参照させて頂いた個所があったが、その注記を怠ってしまった。村田氏に対して、この場にて不手際をお詫びしたい。
artscapeのURLは以下の通り
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0001/murata.html