4 万国博覧会と美術館――19世紀のスペクタクル空間

 2001年7月13日(日本時間14日)、IOCモスクワ総会は次々回、2008年度の夏季オリンピックを北京で開催することを決定し、そのニュースは即座に全世界へと向けて配信された。もちろん、次々回オリンピックの候補都市として北京が最有力視されていたこと、同時に立候補していた大阪の惨敗が必至と見られていたことは事前に知っていたから、Web上でこの速報に接したときもさして驚きはしなかったのだが、それとは別に、実はそのときになって初めて知ったのだが、大本命・北京の対抗馬と目されていたのがパリであったのには大いに驚かされた。ずいぶん昔の話だが、パリは過去2度の夏季オリンピック開催実績があるし、去る1998年にはサッカーW杯の決勝会場となったばかり、また2004年度には同じヨーロッパ大陸のアテネ開催が既に決まっているのだから、新鮮味という点からも、地域性という点からも、北京の優位が動かしがたかったことは容易に推察されただろう。にもかかわらず、なぜ……そこに至るまでの経緯を何も知らなかった私は、パリがオリンピックの開催地として名乗りをあげていた事実を知って、ただただ呆然とするばかりだったのである。
 もっとも、パリという都市が近代以降に辿ってきた来歴を考えれば、今回の挙手にもまったく納得がいかないわけではなくなってしまう。パリが夏季オリンピックを開催したのは1900年及び1924年のことだが、他にも多くの国際的イベントを開催した実績があり、なかでも万国博覧会に至っては、1855年、1867年、1878年、1889年、1900年、1937年の6度(1925年の国際装飾博覧会と1931年の植民地博覧会を加えれば8度)にわたって開催しているのである。19世紀当時の代表的な百貨店「ボン・マルシェ」は、特売日のことを「エクスポジシオンexposition」と称していたが、これは明らかに万国博覧会exposition Universaireにちなんだ命名であろうし、またルーヴル美術館を起点とするパリのゾーニング事業について一瞥しておいた前回との兼ね合いで言えば、エッフェル塔をはじめ、グラン・パレ、プチ・パレ、アレクサンドル二世橋、オルセー美術館、パリ市立近代美術館等々、現在パリの名所として知られる施設の多くは、もともとが万博用に建設されたものであった。オスマン男爵による第二帝政期のジェントリフィケーション・プロジェクトをはじめ、パリの都市計画は都市空間の造形そのものが美術館にたとえられることさえあるわけだが★1、万博がその最重要な起爆剤として位置付けられていたことは誰の目にも疑いないだろう。要するに、パリという「美術館都市」の生成は、万博をはじめとする国際的なイベントと分かちがたく結びついて発展してきたのであり、また以下に検討するパリの事例に限らず、美術館と万博は、極めて密接な同調関係を結んでいる存在なのである。
よく知られているように、近代世界における初めての万国博覧会は、1851年にロンドンのハイドパークにて開催された。イギリスでは、それ以前から工芸品の博覧会が開催されてきたが、当時公文書館の館長補佐を務めていたヘンリー・コールが49年にパリで開催された産業博覧会を視察してその盛況ぶりにショックを受け、規模・内容等あらゆる点でそれを上回る国際博の必要性をヴィクトリア朝のアルバート公に進言したのがそのきっかけとされている。コールの進言を容れたアルバート公は、ただちに大規模な国際博の準備に着手し、それは会期141日間、参加34カ国、来場者604万人の祭典として結実したのだった。当時最先端の産業技術と、最富裕国の資本の栄華を示した史上初のこの万博は、メイン会場の水晶宮(クリスタルパレス)のきらびやかなイメージともどもその成功が世界的に喧伝され、大英帝国の名声の向上に大いに貢献することとなった。そして、当時フランスの実権を握っていたナポレオン三世はロンドン万博の成功に大いに刺激され、国家の威信にかけてそれを上回るイベントの開催を企て、早くも1855年にはパリで初めての万国博覧会開催へと漕ぎ着けたのである。このパリ初の万博はいかにも急ごしらえの観が否めず、話題性や集客力など多くの点で1851年のロンドン万博の後塵を拝したことは否めなかったが、ともかくもこの開催を期に、19世紀のパリは本格的な万博都市の時代へと突入していくのである。
 吉見俊哉によれば、万国博覧会という画期的な近代のイベントが成立したプロセスには、いくつかの要因が同時に介在しているという★2。具体的には、本格的な大航海時代の到来とともに、古今東西の珍品がもたらされたこと、キュビエやリンネらによる博物学(histoire naturelle)の確立が切り開いた新たな「まなざし」、またそれに伴う規律や監視の発達などが挙げられているが、考えてもみればこれらの要素のすべては、先に検討した前近代的な「キャビネ・デ・キュリオジテ」が近代的な「ミュージアム」へと編成されていくプロセスとも、そっくりそのまま対応しているのではないだろうか? 事実、ここでの主題である「美術館」という美術作品の収集・展示に特化された施設に限らず、「博物館」「動物園」「植物園」といった諸施設は、ことごとくこの時代に産声を上げているのである。近代的な装置としての「ミュージアム」が、新たな資本主義の祭典である万国博覧会と並行して語られる必然性があるとすれば、それはまさしく出現した要因と時勢の密接な一致ゆえであり、またそれ以外には考えられない。
あらためてパリ万博へと戻ってみよう。大英帝国の強烈な対抗意識によって着手されたパリの万博重視路線だが、1851年のロンドン万博を質・量ともに凌駕したと言えるのは、1867年においてであろう。同じくナポレオン三世の治世下で実現したこの二度目の万博では、やはり前回と同様にサン・シモン主義者のフレデリック・ル・プレが展示の統括を担当、前任時の反省も踏まえて、前回とは比べ物にならぬほどに網羅的かつ合理的な展示を実現したのだった。ル・プレは、博覧会の展示部門を美術/学術/家具/繊維品/機械/原材料/農業/園芸/畜産/特別展示の10部門に分け、また参加各国に、主会場の展示のみならず独自のパビリオン建設を推奨したのである。この措置は、万博会場における展示物/商品のディスプレイが従来よりもはるかに百科全書的なものとなった(そしてもちろん、ミュゼオロジーとの親近性を指摘することも容易である)半面、特に非ヨーロッパ圏の展示へのエキゾティズムをも強く掻き立てるようになったことを意味している。ある意味では、極めて包括的で透明度の高いその展示は、実物大の地図を作ろうとしたボルヘスの企てにも擬すことができるだろうし、また万博における「国民国家」という枠組みの強調は、エドワード・W・サイードが当時の思潮として指摘する「オリエンタリズムの制度化」とも軌を一にしているだろう。
 以上のような黎明期の万博の略述は、どうしたって西欧中心的な視点から描かれざるを得ないもので、その意味では遠く離れた日本には無縁の話と思われるかもしれない。だが実際には、この万博と日本の「美術」には決して無視できない重大な関係が潜んでいる。というのも、日本が国家単位で初めて参加した万国博覧会(単なる展示物の出品なら、それ以前にも参加の記録は存在する)は1873年のウィーン万博(これもまた、極めてパリ万博を意識したイベントとして記憶されている)であるが、「美術」という日本語の概念は、このときの一出品区分として、Kunstgewerbeというドイツ語を翻案する形で考案され、初めて用いられるようになったというのがいまや定説であるからだ★3。今でなら、むしろ「芸術」と定義した方が相応しいと思しき拡がりをもつ「西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等」が、1873年の時点で「美術」として定義されていたという事実は、以後の百数十年間のプロセスの中で「美術」という概念の範囲がいかに限定され、また純化されていったのかを示しており、ここでは触れないが、それはまた必然的に別の検討を要請することになるだろう★4。そして、日本は以後もたびたび万博に参加、その度に「美術」を展示してヨーロッパの開催者の求めるオリエンタリズムにおもねる一方で、国内や植民地での展示ではこれら列強諸国と伍する強国として振る舞い、なんとも対照的な一人二役を演じつづけるのだが、ある意味では日本の「美術」もまた、この一人二役に対応するかのような捩れをその中に抱え込みつづけていくわけである。
パリで最後に万博が開催されたのは、ナチズムの足音が聞こえ始めた1937年のことである。民間企業の主導で開催され、アメリカ的消費生活「フューチャラマ」をうたった翌々39年のニューヨーク万博は戦争の影が忍び寄り、また42年のローマ万博(EUR)は幻に終わるなど、万博による未来志向の展開は、第二次大戦を前にして明らかな閉塞状況に陥っていた。優れた産業技術と透明かつ網羅的なディスプレイによって消費文化の栄華を祝う「夢」は、退嬰した現実と並行するかのように行き詰まっていたのである。だからなのだろう、ちょうどこの時期を契機に多くの万博批判が登場、逆にこのイベントを牽引車としたゾーニング事業は退行を余儀なくされていった。この退行は、やはり第二次大戦を分岐点として考えるのがわかりやすく、例えば、シュペーアが演出したニュルンベルク大会が典型的なのだが、本来であれば極めて形式的で無味乾燥な党大会をも万博的なスペクタクルとして現出させてしまった1930年代後半のナチズムと★5と、戦後しばらく経過した60年代に、資本主義が必然的に招来する世界のスペクタクル化に対して「漂流」と「転用」の立場から手厳しい批判を加えた、ギー・ドゥボールらのシチュアショニズム★6との極端な対比は、大戦を前後した思潮の変化を如実に物語っていると言えよう。日本においては、1970年の大阪万博を前後して顕在化した諸々の問題が、ヨーロッパでは久しく以前から先取りされていたのである。
 21世紀を迎えた現在、しばしば「万博の時代は終わった」と言われる。確かに、愛知万博をめぐる昨今の夥しい批判や不評を思えば、そのような言い方がまことしやかに聞こえるのも道理と思えるし、万博を機に新たなゾーニングを実現するという発想も、もはや旧態依然としたものとしか思えない(だからこそ私は、21世紀の今日、オリンピックを新たなゾーニングの起点に据えようとしたパリの「反時代的な」都市計画に驚いたのであった)。だが、万博が残した様々な問題、様々な原理がすべて否定されることは決してあり得ない。透明なディスプレイと「国民国家」の並列による世界のイメージ化は今なお刺激的な問題でありつづけているし、そのことを「ミュージアム」との関連で考えてみるとき、それはとりわけ複製とデータベースという問題を通じて顕著なものとなっていったのではないだろうか? 次回では、ヴァルター・ベンヤミンの古典的文献「複製技術時代の芸術作品」を軸に、「ミュージアム」と複製の問題を考え、さらにはその問題系をまだそのようには呼ばれていなかった時代のデータベースの問題へと敷衍していきたいと思う。

★1――その詳細は、例えばトマス・マクドナウ「漂流とシチュアショニストのパリ」(拙訳、「10+1」24号、INAX出版、2001年)を参照のこと。
★2――詳細は『博覧会の政治学』(中公新書、1992年)を参照のこと。
★3――その初出時の表記は「美術(西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ)ノ博覧場ヲ工作ノ為ニ用フル事」。詳細は北澤憲昭『眼の神殿』(美術出版社、1988年)や佐藤道信『<日本美術>誕生』(講談社、1996年)を参照のこと。
★4――なお付言しておけば、日本初の本格的な博物館である文部省博物館(現在の東京国立博物館)の開館は、これとほとんど同じ1872年である。これもまた、万国博覧会と美術館の時勢的符号を物語るエピソードと言えるだろう。
★5――なお付言しておけば、ナチズムにかこつけるわけでは全くないが、まさしく当時「人間が世界の主体として世界を像としてとらえ征服の対象とする」と述べていたマルティン・ハイデッガーの表象の定義もまた、極めて万博的=スペクタクル的なものではないだろうか。『世界像の時代』(桑木務訳、理想社、1961年)を参照のこと。
★6――『スペクタクルの社会』(木下誠訳、平凡社、1993年)において、ドゥボールは「スペクタクルは、社会そのものとして、同時に社会の一部として、そしてさらには社会の道具として、その姿を現す。……この部門は、それが分離されているというまさにその事実によって、眼差しと濫用と虚偽意識の場となる」と述べ、社会におけるスペクタクルと現実社会との乖離を批判している。この一文は、直接はハリウッドの映像産業を批判の対象としたものであるが、その問題意識が万博批判とも大いに通底していることは明らかであろう。