10 企画展と国際展――90年代以降の展望
 
 この数回ほど美術館というハードをハコモノという視点で捉える議論が続いたので、今回は展覧会というソフトへと話題を転じ、その要諦をごく手短になぞってみよう。その施設の規模や運営方針にもよるが、ほとんどの国公立美術館の場合、その展覧会は二本立てで実施されている。すなわち、自前のコレクションによって構成される常設展と、他所のコレクションを一定期間借り受けて構成される企画展であり、大方の場合、多くの観客のお目当ては企画展の方である。もちろん、会場側も観客の意向はよく承知したもので、館内のメインの展示施設が企画展用に供用されているのをはじめ、PR用の看板やポスターといい、ミュージアム・ショップのアイテムといい、美術館の運営はもっぱら企画展を中心に回転している観がある。逆に、そもそも常設コレクションだけで客を呼べる美術館などほとんどなく、また常設展を目当てに美術館を訪れる観客などほとんどいないのが実状なのではないだろうか? 実際、一枚の切符で併せて常設展を観ることができる場合でも、押し合いへし合いの企画展を見終えた後は、閑散とした常設展の会場に目もくれず、そそくさと帰途に就いてしまう観客はことのほか多いのである。
 それにしても、なぜ日本の美術館の常設展は動員力に欠けるのだろうか? 理由は簡単、そのコレクションが質量ともに魅力に欠けるからである。安易な拝外主義との批判を承知の上で比較すれば、1996年の時点で、フランス政府が文化・コミュニケーション事業に投じた費用が国家総予算の1.01%を占めるのに対して、日本の文化庁予算が政府の一般会計に占める割合は0.11%と、その比率には10倍もの格差がある★1。この脆弱な財政インフラが、各美術館の常設コレクションを充実させる重大な障害となっていることは言うまでもない。もちろん、山梨県立近代美術館のミレーや、東京都現代美術館のリキテンシュタインなど、高額な美術作品の購入が巷間の話題にのぼることもないわけではない。しかし、特にバブル期の投機熱が冷めてしまった今、それはあくまでも例外的な事態なのであって、多くの美術館は「目玉」となり得るようなコレクションなど持ち得ないし、また日本にはMoMAやルーヴルに比肩するような常設コレクションなど形成され得ないのが、悲しいかな現実なのである。
 してみると、日本で企画展中心型の美術館運営が定着した背景には、慢性的な常設コレクションの貧困を補う側面があったとも言えるだろう。日本初の近代美術館といえば、1951年、鎌倉の鶴岡八幡宮境内に開館した神奈川県立近代美術館であるが、その柿落としを飾った企画展が「セザンヌ、ルノアール」展であった。坂倉準三設計の瀟洒な美術館にいかにもふさわしかったこの企画展は、約30年に渡ってその任にあった初代館長土方定一の強い意向によって開催されたもので、同館はこれを皮切りに、年平均十本もの企画展を開催する独自の運営方針★2を確立、土方が全国美術館会議の産みの親だったこともあって、企画展を事業の柱とするこの「鎌近方式」は、以後全国各地の公立美術館の運営にも大きな影響力を持つようになる。確かに、他所からのコレクションを借りる形で開催される企画展は、国内外の他の美術館とのネットワークを密にし、また新聞社などメディアとの積極的なタイアップもはかれるなど、コレクションや予算の不足に悩む美術館にとってはうってつけの事業形態であった。加えて80年代以降は、企画展主導の現実に追随するかのように、ドイツ語でクンストハレと呼ばれる、常設コレクションを一切所有しない企画展専用の美術館が多く開館したことも見逃せない。その中には水戸芸術館や今はなきセゾン美術館など、日本の現代美術をリードする美術館も含まれていた。2007年の開館が予定されている「ナショナル・ギャラリー」もまた、コレクションを一切所有しないクンストハレ型の美術館として構想されており、企画展優位の現状は遅まきながら国家によっても公認されたことになるのである。
 もちろん、美術館はイヴェント会場でもあるのだから、企画展がもたらす反響や利益は素直に喜んでいい。100万人以上の動員を達成したという「モナリザ」展(74)や「バーンズ・コレクション」展(94)の記録的な大成功は、決してけなされる筋合いのものではない。だがその背後には、相も変わらず貧弱な常設コレクションや教育普及活動の出遅れなど、日本の美術館に内在する様々な問題が潜んでいることを決して忘れてはならないだろう。
 このように、とにかく企画展頼みの傾向が強い日本の美術館運営だが、それにもまた別の盲点がないわけではない。昨年の秋、横浜市のみなとみらい地区を舞台に開催され、約35万人の観客を動員した横浜トリエンナーレの盛況は記憶に新しいが、考えてもみればあのイヴェント以前には、日本では本格的な国際展が開催されたことがなかったのではないだろうか? 近隣の東アジア諸国を見回してみても、釜山、光州、上海、台北といった都市は既に国際展開催の実績を重ねており、経済力では遥かに上をいく日本の国際展不在はどうにも奇異な印象を免れない。国際展とは、文字通り様々なアーティストが国籍を超えて作品を出品するカオティックなイヴェント、最大級の企画展であり、その成否はテーマの設定や作家の人選など、いかに独自な実施体制を構築するのかにかかっている。その点で言えば、長らく数多の企画展のノウハウを活かした独自の国際展を主催しえなかった日本の後進性はやはり否めないのではないだろうか?
 現状の批判はほどほどにして、ここでは国際展という形態の展覧会の歴史をごく大雑把になぞってみよう。現在、世界各国では様々な国際展が開催されているが、そのなかで最も著名で長い歴史を誇るのが、1895年にスタートしたヴェネツィア・ビエンナーレである。この国際展は、数回の中断はあったものの、名前(「2年に1度」を意味するイタリア語のbiennaleは、他の国際展でも広く用いられている)の通りほぼ2年に1度のペースを守って開催され、次回でちょうど50回目の節目を迎える。過去49回のビエンナーレは世界に向けて様々な話題を提供し、また後続の国際展にも大きな影響を与えるなど、多くの点で20世紀の現代美術の縮図であり続けてきた。とりわけ、世界各国の美術関係者が参集し、パーティや商談に華を咲かせる開幕前のプレビューは、まさに「虚飾の宴」と呼ぶにふさわしい光景である。
 ヴェネツィア・ビエンナーレという国際展の性格を強く規定する特徴、それは何と言っても国別参加の形態と授賞制度であろう。期間中、主会場のカステッロ公園には欧米諸国が恒常的に保有しているパヴィリオンが林立し、それぞれのパヴィリオンには、各国の「代表」として選出されたアーティストの作品が展示される。そしてそれらの作品のなかから「金獅子賞」をはじめとする各賞が選出されるといった塩梅だ。この国際展がしばしばオリンピックや万国博覧会に譬えられる所以であり、また賞制度の存在は、賞取りを目指す各国の思惑が複雑に交錯する生臭さを演出してきたのだった。
 日本がこの国際展に初参加したのは1952年のこと。以来、56年には独立パヴィリオンを確保し、一度も欠席することなく皆勤し続けているのだが、欧米諸国が営レースにしのぎを削る「金獅子賞」にはなかなか食い込むスキなどないようだ。またそれ以前に、主会場の手狭さもあってか、今後はパヴィリオンの新設も認めない方針だともいう★3。欧米の美術関係者が大半を占める国際審査員の顔ぶれは、この国際展を支配する強固なユーロセントリズムを物語る格好の例とも言えるだろう。
 もちろんいままでにも、政治利用されやすいビエンナーレの性格★4は様々な批判にさらされてきた。とりわけ1968年のパリ5月革命に端を発する学生の抗議運動は苛烈を極め、70年には賞制度の廃止、74年には展覧会そのものが休止されるなど、ビエンナーレは存続の危機に直面する。結局、休止されたのはその1度のみ、86年には賞制度も復活するなど元のさやに収まるのだが、参加各国の賞レースが以前にもまして激化する一方、70〜80年代の混乱期には他の国際展が台頭したことによって差別化を迫られるなど、ビエンナーレの行方は一層不透明なものとなった。その混迷は現在も続いている。若手作家の登竜門であった「アペルト」は早々と廃止されてしまったし、あるいは93年に「ノマディズム」(遊牧主義)という全体テーマが設定されたり、95年には「トランスカルチュア」といった企画展が開催されるなど、参加作家や展覧会の光景には明らかにマルチカルチャリズムの影響が及んでいるにもかかわらず、先にも触れた通り、パヴィリオンの認可や授賞などの運営面では、まだまだ欧米偏重を抜け出せずにいる。21世紀を迎えた昨今、ナショナリズムという19世紀的な枠組みに依拠したオリンピックや万国博覧会の限界はしばしば指摘されるが、同様の限界はこのヴェネツィア・ビエンナーレにもそっくりそのままあてはまってしまうのだ。巨大化し過ぎた祭典は、分野を問わずに同じ悩みを抱えるものらしい。 良くも悪くも話題には事欠かないヴェネツィア・ビエンナーレだが、ではそれと拮抗する明快な対立軸を打ち出している国際展は何だろうか? とりあえずここでは、その最も一般的な解答としてドイツの地方都市を舞台とする2つのオルタナティヴを挙げておきたい。カッセルで5年に1度開催されるドクメンタと、ミュンスターで10年に1度開催される彫刻プロジェクトである。
 ドクメンタとは、名前の通りまさに「ドキュメント」としてのイヴェントであり、1955年に地元在住の美術家・建築家アーノルト・ボーデを中心に組織された第1回は、ナチス政権によって「頽廃芸術」とみなされた前衛芸術の再評価を主な目的としたものであった。当然この方針には、旧東独と隣接する都市カッセルから、東側に対して西側芸術の先進性をアピールするという、冷戦構造下での政治的動機が大きく影響していたに違いない。しかしその後、第3回(64)には全体テーマが設定され、第4回(68)以降は参加資格が現代作家だけに限定されるなど、大きな改革が為されたドクメンタは、いつしかヴェネツィア・ビエンナーレと並び称される国際展へと変貌していく。 ドクメンタとヴェネツィア・ビエンナーレの最大の違い、それは何と言っても運営形態にあるだろう。ドクメンタの場合、まず一人の芸術監督を選出し、テーマの設定や参加作家の人選といった全権を全て委ねてしまう点に特徴がある。すなわち、選出された芸術監督はまさに「独裁者」として、時間や予算の許す限り、会場の隅々にまで自分の意向を反映させることができるのだ(最近ではヴェネツィア・ビエンナーレでも、国別展示とは別に総合ディレクターに企画展示を委ねるようになっているが、その権限はドクメンタの芸術監督とは比べるべくもない)。当然、会場の展示は全体として統一が保たれ、強いメッセージを発することが可能になるし、展覧会を盛り上げるための賞制度など必要ない。ハラルド・ゼーマン、ルディ・フックス、ジェルマーノ・チェラント、ヤン・フート、カトリーヌ・ダヴィッドといった錚々たる顔ぶれが並ぶ歴代の芸術総監督は、いずれもこのドクメンタを舞台に挑発的なメッセージを発信してきたのだった。
 一方、彫刻プロジェクトの舞台であるミュンスターは、ドイツ西北部に所在するカトリックの伝統を色濃く伝える地方都市である。1960年代には、市がヘンリー・ムーアからの彫刻の寄贈を拒否するという保守的な地方都市ならではの出来事が起こり、それを機に交わされた芸術と公共性をめぐる議論の結果、市内の公共空間に現代美術の作品を設置するプロジェクトが着手されることになったのが発端だという。
 ドクメンタがヴェネツィア・ビエンナーレとの差別化を意図しているように、この彫刻プロジェクトもまた、徹底してドクメンタとの差別化を意識してあり、1977年の夏に第1回が開始されたのも、もっぱら同時開催のドクメンタを意識してのことだった。ドクメンタが現代美術の最先端を伝える国際展であるとするなら、この彫刻プロジェクトは、現代美術とミュンスターの都市生活やカトリックに根ざした歴史や伝統との一体感を問うことに主眼が置かれており、それゆえ出品作も調査を重ねた上、現地で制作されることになる。
 保守的な風土に加え、現代美術にあまりなじみのない市民感情……ある程度予想されたこととはいえ、主にミニマリズムの彫刻によって構成された第1回のプロジェクトに対する市民の評価は散々だったらしい。だが2回、3回と回を重ねるに連れ、プロジェクトの主旨が徐々に浸透、今では多くの市民の賛同を得る一方、ガイドマップ片手に野外彫刻を見てまわる展示形態の先駆として、国際的にも広く知られるようになった。10年に1度という長い懸隔を通じて作品の浸透を目指した「長期戦」の取り組みと、「紹介」よりも「対話」を重視した戦略によってもたらされたその成功は、とかく華やかな祭りの印象が強い国際展のあり方に一石を投じるものと言えよう。
 ちなみに、何らかの事情で順延されるイヴェントが出現しない限り、ここで挙げた3つの国際展は今後、下一ケタに7のつく年次に揃い踏みを果たすことになる。前回競合した97年には、「グローバリゼーション」を先取りしたドクメンタの先駆性が高く評価される一方、ヴェネツィア・ビエンナーレに対しては停滞を指摘する意見が多かった。そして同種の傾向は、世紀を跨いで今も続いているように思われるが、果たして次回に揃い踏みする2007年には、どのような現代美術の地勢図が描かれることになるのだろうか? 国際展というイヴェントそのものを疑問視する見方もあるが、まずはその趨勢を見守ることにしたい。あるいは、このような期待の地平そのものが、今ではグローバリズムに逆行する旧態依然なユーロセントリズムに立脚したものに過ぎないのだろうか?

★1――この数値は西野嘉章『二十一世紀博物館――博物館資源立国へ地平を拓く』(東京大学出版会、2000)に基づいている。
★2――この方針はしばしば同館の俗称にちなんで「鎌近方式」と呼ばれる。他には、学芸員は展覧会企画に専念すべきであるとし、レクチャーやワークショップなどの教育普及活動を重視しない理念も、この方式の特徴としてよく指摘されることである。ちなみに、同館は日本の近代美術の重要な作品を多数所蔵し、国内ではコレクションの充実した美術館の一つに数えられるが、その展示を目的とした別館が建てられたのは開館から30年以上も経過した1984年のことである。この落差もまた、企画展中心の運営を示すエピソードと言えるだろう。
★3――現在、ビエンナーレには60カ国以上が参加しているが、そのうちパヴィリオンの保有が認められているのは30カ国のみ。もちろん、日本や韓国などの一部例外を除けばそのほとんどは欧米諸国で占められており、このアンバランスの解消も今後の課題であろう。
★4――ヴィネツィア・ビエンナーレの政治利用に関しては、1934年のムッソリーニとヒトラーの会見や、1964年に賞レースの必勝を期したアメリカがラウシェンバーグらの作品を軍艦で搬送した例などが典型として挙げられる。詳細は村田真「展覧会について」http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/serial/0110/murata.html
を参照のこと。