[特集]『都市表象分析1』論
山本光久 YAMAMOTO Mitsuhisa 都市空間への『愛と欲望』巡る装置
都市論と言えば、ジャーナリズムでも繰り返しブームになって来たものだ。勿論、論点はその都度異なるが、その大きな背景には、近代における資本主義の増殖という事態がある。都市と資本主義の密接な関連、その蠢きを生々しく示したのが、たとえばボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』であるのは周知の通り。
この「都市」に「表象」という観点から迫ろうとしたのが本書だ、とまずは言える。ところで、「表象」とは、再現または代行、上演、代表制など、諸ジャンルにわたって多様な意味をはらむ概念だ。ここでは、この多義的なフィールドを踏まえて、写真、考現学、住空間、廃虚、建築、映画、コンピュータ、サイバースペース、文字、記憶等々の問題が縦横に論じられている。
とりわけ印象的なのは、都市論と言うと、今日ややもすれば安易に引かれる嫌いのあるベンヤミンのはらむ豊かな問題性が、見事に引き継がれ展開されていることだ。現在、ベンヤミンの有名な『パサージュ論』が常套的に参照されるケースが多いのだが、問題意識を共有しながらも著者は彼をさらに新たな可能性に向けて開く。
それは、本書に遍在する電子メディアという現在的な問題への眼差しに顕著に現われている。楽天的な電子メディア論者とも、また、リアリティの喪失を危惧するコンピュータ批判者とも明瞭に一線を画しつつ、コンピュータは「文明の『症候』なのだ」と言う。「われわれの社会体(社会という身体)の皮膚上に開いたこの傷口は、ヴァーチュアリティとリアリティをメビウスの帯のように縫い合わせる、その縫い目であると同時に、この両者を共に引き裂く亀裂の場でもあるのだ」と。
しかもその視点は都市の過去と現在とを自在に往還する。都市が物質と意識双方が出会い絡みあうすぐれて(電子)メディア的な場だとすれば、その絶えず増殖し記号的なものへの侵犯を繰り返す空間に添い遂げようとする姿勢は知的・肉体的刺激に満ちている。著者自ら言うように、まさにこれは都市への「愛と欲望」をめぐる書物にして装置であり、そのヴァーチャル・リアルな迷路に読者を誘ってやまない。
東京新聞2000年6月18日朝刊より転載]



[特集]『都市表象分析1』論
小林康夫 KOBAYASHI Yasuo 大都市の死から線をめぐる抗争へ




タイトルに「都市表象分析」とありますが、これはいったい何かを考えてみたいと思います。「都市」の「表象」の「分析」ということではない。これは「・」(中黒)では区切れない、連続していてあいだがない、ひとかたまりのものとしか言いようのないものなのではないかと思うわけです。
読んでいくうちにひとつ線が引ける。いろいろな線が引けるとは思うんですが、われわれ読者は、稠密で集積している本のなかの2点を結んで線、子午線を引いてもいいのではないかと思うんです。
きょうこの場のために――という条件付きですけど――わたしが引くのは、やはりプロローグの「未来の化石――非都市の存在論」からです。この章の最後ではアンドレアス・ファイニンガーの撮影した、摩天楼と墓石が並んでいる写真が、磯崎新さんの文章を通じて呼び出されるという構図になっております。ここで磯崎さんがおっしゃっているような超高層と墓石、生と死のアイロニカルな衝突というものを、田中さんは一歩だけ前に進めて「普段は決して見ることのできない大都市の死相がそこでたまさか偶然に、カメラに捉えられてしまったのだ」と書いている(p.031)。
大都市の死が、この本の出発点になっている。実際、最初の章では、死が強く意識される展開になっている。この本は単に都市の分析ではなくて「都市」と「表象」とをつなぐ部分に「死」が入っている。「都市」というものを「死」というアスペクトでつかまえる。そのときにはイマージュという問題が必ず結びついてしまうという切り口です。それがこの本を貫いています。
そして最後から二つ目の章「都市の子午線――1998年10月21日」で田中さんは都市の再定義をしている。いや、やっとここまできて都市がはっきり自分のものになったと言うべきだと思います。

パラノイア的な歴史の力が弛緩し、それが歴史の終わりと捉えられている一方で、スキゾフレニー的に分散したミクロ・ファシズムの権力が、局地化した内戦とテロルを繰り返しているこの日付において、どのような政治的決断の線が大地に引かれるべきなのか。――ベンヤミンにとってパリやベルリンがそうであったように、こうした問いが向かうべき場所は依然として、リアルあるいはヴァーチュアルな都市以外にはない。あるいは逆に、線をめぐる抗争としてここで描き出してきたようなきわめて政治的な闘争が、建築と言説の両者を横断して展開されるこの場こそを「都市」と呼ぶこととしよう(p.387)。

これがわたしが引いてみようとする線のもうひとつの点です。「死」からはじまった「都市表象」が、ポリティカルな意味での都市の再定義、線の抗争という主題に結実している。単に都市を死を通して見るという方法的問題だけではなく、田中さんのなかにそういうようにものごとを見ていく歴史的ポジションがあるのだということを感じます。
この本には、ハイデガーとベンヤミンという対立がはっきりとありますし、ベンヤミンを補強するかたちでカフカが絶え間なく動員されてくるという構造をとっている。かつてわたしが未來社から出させていただいた『起源と根源――カフカ・ベンヤミン・ハイデガー』(1991)と通じるものを感じます。それ以外にもパウル・ツェラン、ダニエル・リベスキンドなど、わたしと非常に近いところで仕事をしているという感じを受けます。にもかかわらず、離れている。それは何か?
わたしが20年かかって少しずつ通過してきた、溺れそうになりながら泳いできたものを、ものすごく短期間に一挙に凝縮して突破したという感じがします。それは田中さんが、何かの終わりの後の世代という自覚をもっているからではないか。わたしにはそういう自覚はありません。何かの終わり、死、残像(田中さんの最初の本は『残像のなかの建築――モダニズムの〈終わり〉に』[未來社、1995]です)とか痕跡、イマージュとか幽霊というところから出発した田中さんが、この本のなかでは、大地にいかなる線を引くかという政治的な決断に向かい、ひとつの線を越えたところでそうした問題を全部受け止めている。
この「死」からはじまった線が、もう少し延長されてエピローグ「寓意への愛――都市表象分析の方法」へと向かいます。「死」から出発したものが、ポリティクスという現実にぶつかって「愛」へと行き着く。死から、ポリティクスと愛へと向かって、田中さんはこの『都市表象分析I』という長い旅をしてきたと言えるのではないかと思います。『都市表象分析II』も構想されているようですが、おそらく『II』ではポリティクスということが強く出てくるのではないかと予感させます。
[2000年4月1日、出版記念会におけるレヴューを採録]



[特集]『都市表象分析1』論
磯崎新 ISOZAKI Arata もうひとつの「都市/世界」を見る視点







本のタイトルに「都市」とついていることから、まずは何かの都市について語ろうとされたのではないかと思います。だけど、どんな都市なのかということについては、読んでいくほどにわからなくなってくる。わからなくなったところに、田中さん独特の都市のイメージが立ち上がる。
こんな印象は記述する視点とかかわるように思います。例えば、パリについて書いたものにはヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』1−5(今村仁司ほか訳、岩波書店、1993−1995)があり、ニューヨークという街について書いたものには、レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』(鈴木圭介訳、ちくま学芸文庫、1999)がある。この二つの本は、われわれが都市を考えるときには、避けて通ることのできない大きな意味をもった本です。ベンヤミンは遊歩者という立場に自らを置いて話をし、いっぽうのコールハースは、自分をゴースト・ライターであると位置づける。では、田中さんはこの妙な都市というものを何になり替わって書こうとしているのだろうか。このように思って本の頁をめくって探そうとしたわけですが、読むほうが混乱をしていきます。
少しずつわかってきたのは、一貫してすべての説明の論理は明瞭なんですが、「身体」という言葉が出てくると置き場のない言葉であるかのように感じるんです。この身体はたしかに都市のなかに存在するわけですね。ところが、都市には、アクチュアルな都市とヴァーチュアルな都市という二つのカテゴリーが考えられる。身体をそのどちらにはめ込もうとするのだろうか。それぞれはっきりしない。それらをどう扱っているかが、僕の最大の関心事でした。
この本で組み立てられた都市は、パリでもニューヨークでも東京でもない。むしろ世界というべきものでしょう。しかもアクチュアルでありヴァーチュアルでもある都市があり、田中さんはそのなかを遊歩者でもなくゴースト・ライターでもなく、別な目で記述、分析していこうと考えられている。そのときに「身体」をどう扱っていくのだろう。
じつは、僕自身がいま、アクチュアルでもヴァーチュアルでもないもうひとつの概念をつくらないと、都市/世界をうまく捉えることはできないのではないかと考えています。それをプロジェクトにしたいのですが、うまくいくかどうかわかりません。
ですけれど、いくつかの布石がこの本には敷かれていて、何かのかたちでそういった別の場所――もうひとつの都市、あるいはもうひとつの世界を見る視点――が、出てくることを期待させるものです。
[2000年4月1日、出版記念会におけるレヴューを採録]



[特集]『都市表象分析1』論
五十嵐太郎 IGARASHI Taro アナクロニズム/縦断する思考
1990年代には、ヴァルター・ベンヤミンの再読が、世界的に行なわれたと思います。そのなかでも最も良質な成果であると感じました。
90年代に書かれたということを想起すれば、この本はある種の終末論としても読める。ただし、田中さん自身が、アナクロニック(時間の錯乱)という概念を導入しているように、それは単純にこれから終わりがやってくるという時間ではなく、時間感覚の倒錯、すでに終わってしまったという認識のもとにさまざまな事象が分析されている。
すでに終わってしまったということは、何かの終わり、あるいは世界の崩壊に立ち会えなかったということではないかと思います。例えば、磯崎新さんであれば1945年の第二次世界大戦の終戦、1968年の文化の変動といったいくつかの終わりの空気を同時代的に吸い、それがある種の精神的トラウマとして作用し、そこを出発点として活動されている。
しかし、田中さんや僕の世代は、必ずしもそういう終わりを同時代的に感じたことはなかったはずです。そういう意味ではもどかしさ、つねに世界は目の前にあるし時間は動いているのだけれども、それがいま起きていることとは遊離しており、同時代性というものにシンクロできないという感覚をもっている。それが田中さんのアナクロニックな手法というものに通じてくるのではないかと思います。
UP』2000年4月号(東京大学出版会)で、田中さんはこの本の補遺として読める文章「都市表象分析のアナクロニズム――建築機械、コンピュータ、夢の形象」を書かれています。ダニエル・リベスキンドを論じるなかで建築や都市空間がコンピュータによってモデル化されるとすれば、コンピュータとそのネットワークのなかに廃墟やバベルの塔、もしくはパサージュといった空間的特異点を見出すことができるのではないかと興味深い指摘をしています。
実際にこの本のなかでも同じように、異なるもの同士に構造の類似性を見ていく分析をされています。僕は歴史家なので、例えばアーウィン・パノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』(前川一郎訳、平凡社、1987)のように、どうしても同時代性や時代精神というファクターを重視し、横に繋げてしまいがちです。しかし、田中さんのアナクロニックな方法は、それを断ち切る装置であり、だからこそよりおもしろい読解への可能性が開かれており、非常に魅力的だと思いました。
通常の都市論では、私的なエピソードを入れて書かれることが多いと思います。直接、都市の対象があるとすれば、そういうものについてわたしはどう思ったのかという記述であり、著者の都市に対する愛の告白でもある。それがこの本では本文のなかにはまったくなかった。あくまでも直接ではなく必ず何らかのメディア――書物、写真、映像など――を媒介にして語るという仕掛けになっていて、そこがベンヤミンとは微妙に違うところです。ベンヤミンはさまざまなテキストを猟書しながら書いていく。ベンヤミン自体は、例えばベルリン、ナポリ、モスクワ、パリといくつかの都市についてそれぞれの思い出、それぞれの都市について訴えかける直接の思い入れを書いています。田中さんのこの本のなかには、東京が好きであるとか、特定の都市に対する思いがあるという仕掛けにはなっていません。
しかし、この本を読み進めていくと、「跋」(あとがき)ではじめて田中さん自身の私的なエピソード――バルセロナからポルボウに行き、ベンヤミンが亡くなった場所に訪れたこと――が書かれます。いままでずっと回避し続けたからこそ、最後にそれが書かれたことによってベンヤミンへのオマージュであることを逆に強く感じました。
[2000年4月1日、出版記念会におけるレヴューを採録]



[特集]『都市表象分析1』論
鈴木了二 SUZUKI Ryoji ガラスの粉末としての理論構築
建築界では難しい話をするとあまり評判がよくありません。僕もどらかというとそう思われているようで、よく「わけがわからない」「難しい」と言われるわけです。はじめは、そんなに難しいことを言っているつもりもないから「そんなはずはないだろう」「そのうちにわかってもらえるに違いない」と思っていたんですが、いまではだんだんあきらめてしまって「わけがわからなくていいじゃないか」「わけがわからなくないとダメなんじゃないか」「みんなわけがわかりやすすぎやしないか」と、開き直ってきました。
誠実にものを言おうとすればするほどわけのわからないものになってしまうのは、「終わった後」という感覚のせいではないかと思いはじめたんです。僕はそのことを一番最初に「アンフォルメル以後」(『宮川淳著作集』新装版、第2巻所収、美術出版社、1999)という宮川淳の素晴らしい論文で教えられたように思います。つまり直裁に言ってしまえば原理的に、終わった後のことは、終わる前の言葉では説明できない。それをやろうとすれば必ずわけのわからないものになるというジレンマに立たされる。いっぽうで、終わらせまいとする言葉があって、これはどこか人を安心させるところがあるからなんとなくいける、というかわかりやすい。けれど言葉に力がでない。さらにいっぽうで、終わってしまおうという言葉があって――これはかなり難しいんですが――ベケットなりカフカなりがやってきたんだと思います。このやり方だと最後には絶句になってしまう。いずれにしてもわれわれは、終わった後に何かものを言わなければならないという事態にいるので過酷なんでしょう、きっと。
1994年の5月に『10+1』という雑誌が創刊されました(特集=ノン・カテゴリー・シティ)。そのときに多木浩二さんとともに責任編集者だった八束はじめさんから「論文だらけの本になるから、その中で息ヌキになるようなグラフ的なページを何かやってほしい」という話がありました。写真だけ載せてもつまらないので、この機会を使わせてもらって思い切って自分にとっても本当に難しいものを書いてみようと思ったわけです(「『空洞幾何』断章――展覧会《空地・空洞・空隙》前後」)。自分にもわからないものを書きました。予想はしていましたが、それにしてもあまりにも何の反響もなかったので、成功した、これで少なくとも5年はもつだろうと思ったわけです。
ところがその2年半後、1996年11月に『10+1No.7(特集=アーバン・スタディーズ)が出て、田中純さんの論文(「無人の風景――建築が見る不眠の夢」)にこの一番難しく書いたはずのものがとりあげられていた。いやな予感がしたんですが恐る恐る読みました。そうしたら全部わかっちゃっているんですよね、僕のわからないことまで全部(笑)。うれしいと同時に非常に困った。いきなり後がなくなってしまった。非常に僕にとっては衝撃的でした。
僕らがどうやってもわからないものが、田中さんの空間を通ると全部わかるかたちで出てくる。このときに、そういう記述というものもあるんだということをはじめて知ったわけです。
でも、田中さんの文章を読んでいて少しずつその「わかりやすさ」の理由がわかってきましたね。それは文体の質にあるんだということです。この本は、ベンヤミンへのオマージュということですが、確かにベンヤミンと関心は近いところにある。でも文体はぜんぜん違う。ベンヤミンは、空中を力線で飛ぶタイプ、たとえばタトリンなんかをイメージしてしまうんですよ。金属性のものすごいロング・スパンでどこまでも飛んでいく建築のような文体。古代からもっと先の話、後ろ、前、ゴミから神、唯物論から神学、ブレヒト、カバラ……と、ベンヤミンの場合はすごい力線で時空を超えて立っている感じがする。
では、田中さんの文体はどうかというと、ガラスの粉です。一種、写真に似ていると思うんです。感光紙が化学変化を起こしたところが粒子化して写真になる。彼の場合には、いろいろな試験体の上にガラスの粉のようなものをびっしりとかけてしまう。ギャップやエッヂなどの毛羽立ったわからなさの部分にガラスの粉が積もっていく。そんな感じがするんです。その眼差しは優しさに溢れた、一つひとつの対象を慈しむガラスの粉だという感じを与える。それまでがらくたにすぎなかったものが輝いてくる感じがする。とりあげられている都市、建築、そしてそれに関わることすべてが、そう扱われている。ガラスが溶けて細かい粉末が固まって滑らかな面ができるわけです。そこにいわばデスマスクのように型どりされることによって非常にわかりやすくなった世界の起伏ができる。それらをぱっとはずしてとりあげる。そういった感じの本だと思います。これらの標本はこれからわれわれが何かをやるときのひとつの武器になる。われわれ建築家は今後、田中さんのそういったガラスの採集をベースにして、それを役立てながらものをつくっていくことができるということです。
[2000年4月1日、出版記念会におけるレヴューを採録]



[特集]『都市表象分析1』論
岡崎乾二郎 OKAZAKI Kenjiro 死を通過した言説
ベルギーにいるマネが、「自分は評判が悪い」とパリにいるボードレールに手紙を書いた。「なぜ自分は受け入れられないんだ」と。ボードレールは「君はしょせん老衰期のジャンルにおける巨匠にすぎない」と非常に厳格にマネを正した。老衰期のジャンルというのは、いずれにしても死ぬことが決まっているジャンルであるということです。予定調和的に「終わる」ことが前提にされているようなジャンルのなかで、かろうじて巨匠として扱われているにすぎない。そういう言い方をしているわけです。
老衰期のジャンルであると規定を与えられるとき、本来根拠もないかもしれない存在は、にもかかわらず次のような二つのこだわりを見せます。
ひとつは、歴史に対する過剰な思いです。歴史に残るのか残らないのか。歴史上どう語られるのか。もうひとつは、文字どおり身体的なものも含めて物質にこだわる。いずれにせよその存在を固守し、存続させることにだけ執着する。マネは絵画的な技法においても歴史を絶えず参照し、絵の具の盛り上がりであるとか、即物的な物質性にこだわった。
ボードレールは、その手の一種の偽のメカニズム、確定された死をアリバイに自己の存在を自明化する。そういう力学のなかで語られる言説に対して非常に厳格なけじめをつけた。そして、こんなボードレールの言葉がその後の印象派の支えになっていく。
ボードレールはまた老衰期の話と対をなすかたちで、死を通過したもの――回復期――には、すべてが新しいのだという話をしています。先ほど鈴木了二さんが「ガラスの粉末のような」というお話をされていましたが、回復期の視覚においてはまさに光が物質として目に飛び込んでくる。それがどういったかたちなのかとか、歴史的にどういった意味づけがされるのかよりも、いかなる像を結ぶのかということのそれぞれが事件として体験されるんだと言うんですね。
いずれにしてもいま僕がボードレールを引いたのは、田中さんの存在には、一種のボードレール的な役割があるということを言いたかった。建築のなかであいかわらず言われている言説に「このジャンルは衰退して消滅するだろう。終わってしまった」というものです。建築だけではなく美術でも同じです。老衰期のジャンルだと規定してものを言っている言説が非常に多い。そういう言説自体に潜んでいる欺瞞性、政治的な力学に対して田中さんは、「ダメだ」とひとこと言うわけですね。
終わっているのがわかっているのに続いているのは、そこが政治的な場であるからです。すなわちすべての言説は、なんらかの不穏な政治的な言説であるほかない。それを田中さんは非常に明確にわかっている。
本来語ることが不可能だとされている建築や都市をなおかつ語ろうとすれば、いろいろなメカニズムなり、政治的な力学なりが働く。そういったところで可能であろう言説のだいたいの見取り図がこの本のなかに書かれています。僕はそういう意味では田中さんの文章がひとつの水準であって、建築や都市についていまなお語ろうとするかぎりは、この本は無視できないと思います。
[2000年4月1日、出版記念会におけるレヴューを採録]



[特集]『都市表象分析1』論
田中純 TANAKA Jun 都市表象分析のアナクロニズム――建築機械、コンピュータ、夢の形象
ベルリンのユダヤ博物館やロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の拡張計画を手がけている建築家ダニエル・リベスキンドは、1985年のヴェニス・ビエンナーレに三つの機械を出展している。それらは《読む機械》、《記憶する機械》、《書く機械》と名づけられ、各々が14世紀イタリアの詩人ペトラルカ、ルネサンスの人文主義者エラスムス、啓蒙主義の哲学者ヴォルテールに捧げられている。《読む機械》は木製の水車に似た形態をしており、書見台に載った8冊の書物を回転しながら次々に提示する。《記憶する機械》は、16世紀の伝説的な建築家ジュリオ・カミッロが作ったという記憶劇場をモデルとして、その舞台裏の複雑な機械仕掛けを、同じくほとんど木から組み立てている。これに対して、《書く機械》は木のほか、グラファイトや金属を素材とし、7×7列に並んだ回転する49個の立方体から成り立っている。立方体の四つの回転面には都市の小型模型のような凹凸や、リベスキンドが「聖人」の名前と称する文字が活版印刷機の版面のように隆起している。
この奇妙な三つの機械のどこがどのように建築と関わるのだろうか。『建築十書』を遺した古代ローマの建築家ウィトルウィウスは都市建造のための土地占いから、天文学の知識に基づいた日時計の製作、各種の武器や機械の設計にいたるまで、幅広い領域を建築家の職能とした。リベスキンドはこの伝統に則って「機械」を製作している。彼は三つの機械のそれぞれが、中世、ルネサンス、近代における建築の産出システムに対応していると言う。それは、建築を読み、記憶し、書き込む、この産出システムの寓意(アレゴリー)なのである。
ただし、こうした対応関係を設定する一方で、リベスキンドは同時に、この三つの機械は相互に関係し合うことによって単一のプロジェクトをなすものであると述べている。それらは全体としてひとつの循環するサイクルをかたちづくっている。したがって、三つの機械は単に建築の産出システムの直線的な発展を図解するものではない。むしろ、「建築」という観念そのものを成立させている歴史的な、あるいは歴史というシステムが、この三つの機械の連動によって表象されていると見るべきだろう。
下部機関の連動によって、自動的に読み、記憶し、書く機械――ここから現代のわれわれがただちに連想するのはコンピュータである。リベスキンド自身、《書く機械》をコンピュータに譬えているが、三つの機械が相互に依存し合って機能するものである以上、その比喩はこの機械だけにとどまるものではないはずだ。リベスキンドの寓意(アレゴリー)は、建築を生み出すシステムがコンピュータを範型とした機械的運動のもとに置かれていることを表わしている。
こうした認識それ自体が別段特殊なものでないことは、コンピュータによる画像処理の普及がもたらしたヴァーチュアル・アーキテクチャーをめぐる言説の流行が示している。そこではコンピュータから生成される形態が、新しい建築デザインの可能性であるかのように語られた。1997年に開かれた「ヴァーチュアル・ハウス」の設計競技では、リベスキンド自身のほか、ピーター・アイゼンマンらが、多様な建築形態を生成する建築機械をヴァーチュアル・ハウスとして提案している。このような建築機械はコンピュータを暗示しており、それゆえこれらの提案は、ディスプレイ内で無限に形態の変化を続けるコンピュータ・グラフィックスに建築デザインのアイディアを求める、ヴァーチュアル・アーキテクチャーの一連の志向と無縁ではない。
そこにしばしば認められる、コンピュータが建築形態の最適解を与えてくれるという前提が、建築家の意思決定の責任を結果的に曖昧にするものであることをはじめとして、このような流行の背後には建築界のみには限定されない、「決定」の問題をめぐる政治的なイデオロギーが潜んでいる。コンピュータによって建築デザインの技術的、社会的諸困難が一挙に解決されることなど、ありえるはずがないと誰でも知っているにもかかわらず、コンピュータという機械にはイデオロギー的な負荷が加わって、一種の物神化が生じてしまう。隠喩としての「建築」が、知的、文化的、あるいは社会的、政治的な秩序構築のシステムを意味するものであったことを思えば、コンピュータのこうした物神化は、狭義の建築の領域にとどまるものではないだろう。
コンピュータそのものの設計は、隠喩としての「建築」に依拠して、「コンピュータ・アーキテクチャー」などと呼ばれる。しかし、《書く機械》の時代である現代においてますます明らかなものとなっているのは、むしろ逆に、建築がコンピュータ・モデルないし情報処理モデルによって産出される対象に化しているという事態にほかならない。それは必ずしもコンピュータを用いたデザインである必要はない。読み、記憶し、書く機械のアルゴリズムが存在すれば十分なのだから。リベスキンドによれば、《書く機械》はヴィクトル・ユーゴーの「これがあれを殺すだろう」――「書物が大聖堂を殺すだろう」という、テクストによる建築の抹殺の予言に対応している。ヴァーチュアル・アーキテクチャーと呼ばれる幻想の構図が典型的に示しているものは、「神は死んだ」というニーチェの宣告の余波でもあるような、「これがあれを殺すだろう」――「情報」が「建築」を殺すだろうという予言の実現にも見える。
このようなパラダイムの転換は、だが同時に、建築をもはやマスター・アーキテクト=神によって統御された、隠喩としての「建築」ではなく、コンピュータ・モデルに従ったシステムの観点から、錯綜して絡み合った知的、文化的な情報の複雑系として解読し、データ保存し、空間に書き込むものとしてとらえることを可能にする。リベスキンドの機械はそのような視点から建築の歴史を寓意化したものと言うべきだろう。ユダヤ博物館をはじめとして、彼の建築それ自体が、都市という歴史的テクストの解読に基づいたあらたな書き込みにほかならない。ユダヤ博物館ではナチ体制下で生じたベルリンにおけるユダヤ人の生の痕跡の喪失が、建物内部の空洞の存在によって可視化されている。その操作は、単体の建築物をひとつのテクストとして構成する記号論的な観点とも、都市のコンテクストをあくまで優先させる歴史主義とも異なっている。この博物館そのものが、都市を読み、その記憶を保存するとともに、あらたな書き込みを加えてゆく機械にも似た存在である。問題なのはコンピュータを道具にして建築形態をデザインすることではなく、コンピュータとしての建築を都市の記憶に接続することなのだ。
ジュリオ・カミッロの記憶劇場の例が示すように、記憶というデータの保存と建築ないし都市空間との結びつきはルネサンスから古代の記憶術の伝統にまで遡る。コンピュータ・アーキテクチャーと建築機械との関係は意外に歴史が古い。では、建築・都市空間がもはや単に「テクスト」としてではなく、「情報」としてコンピュータによってモデル化されうるのだとすれば、それを逆転して、コンピュータあるいはそのネットワークのなかに、廃墟やバベルの塔、もしくはパサージュといった空間的特異点を見出すことはできないだろうか。フリードリッヒ・キットラーなどのメディア論的言説分析が展開しているのは、メディアの構造それ自体のなかにそんな遺跡を掘り起こす、テクノロジーの考古学にも似た作業である。テクノロジーもまた歴史的産物である以上、コンピュータのCPUには歴史的な抗争と権力関係の痕跡が刻み込まれている。その発掘作業はいわばコンピュータという人工精神の系譜学、テクノロジーの精神分析にほかならない。
筆者が「都市表象分析」と呼んでいる試みは、このようなメディアの考古学を含む、建築とメディア・テクノロジー、都市とコンピュータ・ネットワークを横断した図像学(イコノロジー)的言説分析である(詳しくは拙著『都市表象分析I』、INAX出版、参照)。そこに「都市」という冠を被せるのは、作者をもたずに複数的で、必ずしも共同体(ポリス)的ではないにせよ、政治的(ポリティカル)な空間の歴史的地層を対象とするためだ。都市表象分析は「表象」の媒介性において「都市」をとらえようとするかぎりでつねにメディアに関わる。それは例えばコンピュータ・グラフィックスによって生成されるヴァーチュアル・アーキテクチャーのイメージを解読する一方で、イメージの基底材である機械をその物質性と歴史性において問おうとする。ただしその標的は、作品としてのイメージやテクノロジーそのものよりもむしろ、マスター・アーキテクト=神の不在のもとでテクノロジーの物神化を招いている社会的幻想としてのイデオロギー、後期資本主義社会の「集団の夢」(ヴァルター・ベンヤミン)の構造に置かれている。
ベンヤミンの『パサージュ論』は、19世紀パリのブルジョアジーがテクノロジーに託した集団の夢をめぐる、そんな都市表象分析の先駆だったと言ってよい。まさしくそれは精神分析的な「夢」の解読だったのであり、ベンヤミンはパサージュから商品、娼婦にいたる両義的形象(弁証法的形象)のなかに歴史の幼年時代としてのユートピアを透かし見ようとした。時間を知らない無意識から立ち現われる夢の形象としての両義的形象は、太古と現在、古代と近代が重なり合う時間の混乱(アナクロニズム)を特徴としている。未来への夢は太古の記憶につながっている。ベンヤミンは両義的形象という謎につねに迂回しながら接近することによって、19世紀パリの都市空間に古代的なアリアドネの迷宮を描き出す。この方法はバロック演劇の研究『ドイツ悲劇の根源』における寓意(アレゴリー)論を継承している。意味するものと意味されるものとが有機的に結合した象徴(シンボル)とは異なり、寓意(アレゴリー)はこの両者の不一致によって、最終的な答えが存在しない解読プロセスの彷徨を強いる。テクストと図像が並置されることで互いに互いを謎めいたものとしている寓意画集(エンブレム・ブック)に似たものを、ベンヤミンはパリのパサージュに、あるいはウジェーヌ・アジェの写真のなかに発見したのである。
20世紀の夢をめぐるわれわれの都市表象分析においては、例えばすでにガジェットにも似た携帯電話やパーソナル・コンピュータがそんなフェティッシュめいた夢の形象のひとつだろうか。世紀の敷居を越えつつある今、電子メディアとテクノロジーが織りなす情報空間と現実の都市空間との交錯のなかに、アナクロニックな両義的形象を発掘してゆくことがこの分析の課題である。ベンヤミンの方法と並んで、西欧文化のイメージ記憶における「古代の残存」を追究したアビ・ヴァールブルクの図像学(イコノロジー)が、その発掘作業の手引きとなろう。夥しい図像からなる星座的配置のみによってイメージ記憶の連鎖を表現しようとしたヴァールブルク晩年のプロジェクト「ムネモシュネ」は、『パサージュ論』と方法的な照応を見せながら、「都市」というとらえどころのない対象をめぐるこの表象文化論のアプローチにふさわしい、あらたなディスクールの可能性を示唆している。
リベスキンドによる三つの機械は、「建築」に関する通念を宙吊りにしてしまうような寓意(アレゴリー)の謎を提示していた。この手作りの木造コンピュータは、文字通り時代錯誤的(アナクロニック)な両義性を帯びている。都市表象分析のディスクールが迂回という方法を通じて接近を繰り返すこうした暗号めいた謎の形象は、情報処理速度の加速化とイメージの大量消費に逆らい、解読のための果てしない遅延の時間を要求する。21世紀になっても記憶のなかに残存する太古の時代をそんな形象のうちに/形象として探し求める都市表象分析は、時代遅れ(アナクロニズム)であることをむしろ積極的に選択する、夢の地層の発掘作業なのである。
[『UP』2000年4月号、東京大学出版会、pp.42-47より転載]