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特集:201401 2013-2014年の都市・建築・言葉 アンケート<

沢山遼

●A1
昨年末、突如として四谷アート・ステュディウムの閉校問題が勃発した。現在に至るまで、閉校を告知した当の近畿大学から、閉校の理由にかんする一切の説明は行なわれていない。閉校の情報が公になってから数週間後に私のもとに届いた通知には、「現在の研究所運営の見直しを図る必要があり、2014年3月末日をもちましてコミュニティカレッジを閉講する運びとなりました」との官僚的な文言が添えられているばかりであり、そこになんら具体的な説得力をもった理由は明示されていない。
つまるところこの文言は、閉校の理由をひた隠し、なかば強引に、理由のないことを理由として掲げ、この奇蹟的な芸術の学校を閉鎖しようとする、教育機関としての驚くべき不誠実さを露呈するものである。このような態度は、たとえば「閉校するのだから、閉校するのだ」という同語反復的な、内実を欠いた空疎な言辞に着地するほかないだろう。近畿大学は講師や学生たちの前で平然とそのような態度を取りうるという点で、本来であれば、各人の自由な思想をその論理的な公正さにおいて交通させる場であるはずの大学機関がもっとも忌避すべき、論理を欠いた同語反復的な決断=ファシズム的断行を行なおうとしているということである。
今回の近畿大学の決定ばかりではなく、おおよそ、今後の展開において、権力機構は、このような同語反復的断行をあらゆる場において行使しようとすることになるかもしれない。しかし芸術はつねに、「建てるのだから、建てるのだ」という決断のもとに建設される建築、「通すのだから、通すのだ」という決断のもとに採決される法案、つまりはファシズム的断行の遍在という事態に対する、抵抗の拠点であり続けるだろう。
あるいは私たちはそれを「芸術」と限定的に名指す必要もない。昨年度の四谷アート・ステュディウムの理論講座の通年の共通テーマは「芸術と(いわれる)生産過程あるいは「生」活 」とされていた。これまでも四谷で繰り返し語られてきたように、私たちの文化は、生(life)と生活(life)の双方にまたがる多様な技術や事物に内在するさまざまな秩序に規定されている。日々の生活のさまざまな局面においては、誰もがそのような秩序に遭遇しているはずだ。言い換えれば、妥当性をもった物や行為にはかならずその妥当性を裏付ける正当な根拠=理論が内在しているということであり、またそのさらなる形成に際しては、理論がかならず要請されるということだ。そして芸術批評が、対象の妥当性を判断・吟味する力=判断力を感性的な水準で精錬する場であったのであれば、批評もまた、芸術の形成力に作用しうるものとなるだろう。
ゆえに、生活の場=日々の暮らしこそが闘争の拠点となりうるのであり、日々の鍛錬こそが、芸術的であると同時に批評的営為なのである。私たちの日常生活を拘束する、この秩序こそ希望である。そこで、芸術と呼ばれるあらゆる文化・生活は、未来を構想するもっとも有効かつ具体的な手段でありうるだろう。とするなら、「我々には四谷ART STUDIUMが必要である」[http://www.arttrace.org/books/details/atpress/atpress03_wareware.html]と題された松浦寿夫の希有なテキストに倣って繰り返すべきかもしれない。「我々はあらゆる場所に四谷Art Studiumを出現させなければならない。朝の食卓でパンを手に取るときに、コップで飲料を摂取するときに四谷Art Studiumを出現させなければならない」と。つまりは、日常生活のあらゆる局面に、あらゆる時間と空間に、私たちの四谷アート・ステュディウムを出現させることだ。私たちがこの「生活」と呼ばれる生の持続をあらたな生産と思考の拠点へと精製していくことにおいて、それは可能である。

参照サイト
「芸術教育とは何か?─四谷アート・ステュディウム閉校問題から考える─」
http://artstudium-artandeducation.tumblr.com/

岡﨑乾二郎インタヴュー|われ、またアート・ステュディウムに─
http://as-artandeducation-archive.tumblr.com/

また現在、学生や在学経験者たちによる学校存続を求めるサイトも立ち上がっている。
http://artstudium2014.blogspot.jp/
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