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特集:201401 2013-2014年の都市・建築・言葉 アンケート<

山岸剛

2013年は東北地方太平洋沿岸部の撮影で始まった。瓦礫の撤去が落ち着いたのはもうはるか昔のように感じられ、以後、東北の風景はなにかを待機しているかのごとくほとんど変わらないように見え、それをなぞる私の写真もマンネリズムに陥っているように思え、これを打破すべく10日間の日程を組んで青森から福島まで海岸線を上下した。1月9日から18日までみっちり130枚ほど撮影した。130枚はたいした数に聞こえないだろうが、私はいまだに4×5インチ、通称シノゴの大型フィルムで撮影をしているのでまあそれなりの量になる。ふつう写真家は撮影して、撮影したものから選択して、選択したものを仕上げて、仕上げたものを発表するというのが筋で、私もこれまでそのように仕事をしてきたが、このとき130枚撮って帰ってきたら、なにかの閾を超えたのか、「選ぶ」という行為がバカらしく思えてしまった。お前は何様だ、選ぶなど東北の大地に失礼だ、フィルムに定着したものは等しく価値があるはずだと考えるに至った。そんなわけでこの130枚をもれなく仕上げたらお次は、それまで2011年4月以来撮影してきた400枚強のフィルム、そのなかで「選外」としていたものをあらためて仕上げることになった。そんなふうに2013年の上半期は、ここ二年の過去をひたすら掘り起こして過ごした。



2013年1月16日、広田海岸、岩手県陸前高田市広田町


2013年1月18日、福島県南相馬市


5月の大型連休前、またあたらしく東北の撮影に出る前に、そのようにして仕上げたこれまで撮影したすべての写真をウェブ上で放流した。当時で総計300カットくらい。「写真家」としての「私」の写真云々はホントどうでもよくて、まずはひとつの記録として、差し迫った現在の、写真によるレポートとして一人でも多くの人に見てもらいたいと考えた。発表の仕方は可能なかぎり即物的で直接的な感じがいい。写真というのは元来、写真術を正確に使いこなせば、ほとんど酷薄なまでに直接に、現実をそのまま「転写」しうるメディウムであり、そのような写真の使い方こそが、切迫した東北の風景と鬱屈とした東京でのリアルな政治の双方に穴を開けうると期待した。

http://takeshiyamagishiphotographs-thk1.tumblr.com
http://takeshiyamagishiphotographs-thk2.tumblr.com
http://takeshiyamagishiphotographs-thk3.tumblr.com
http://takeshiyamagishiphotographs-thk4.tumblr.com


同じく撮影に出る直前の4月21日、東京都大田区西蒲田で、建築家の中川純氏がつくっている自邸を撮影した。「15Aの家」と名づけられた仕事で、放射能の「ホットスポット」となってしまった地域から一家で移り住んで、亡き祖父の家をセルフビルドで改修し、15アンペアの電力で暮らしていくらしい。設計の詳細は私には知る由もないが、その日見た建設現場にとても感銘を受けた。東北でこれまで見てきたものと同じ風景を見ていると直感しすぐさま撮影した。中川氏は私がかつて撮影した《2011年5月1日、岩手県宮古市田老青砂里》という写真にインスパイアされながらこの家をつくっているという。



2011年5月1日、岩手県宮古市田老青砂里


建設途中の現場というのはだいたいカッコいいものであるが、私が感銘を受けたのはそれだけの理由ではない。私はかつて二年前のこの欄で上記《2011年5月1日、岩手県宮古市田老青砂里》という自分の写真について、そのとき目にした光景について「建築はかつてないほど健康に見えた」と書いた★1。私はこの日、それと同じ建築の風景を東京で見たのである。ふたつの建築は、もとより「建築」ではなく「建物」、いまなら「建屋」と言われるシロモノかもしれないが、植物が光を求めるように真っ直ぐに、ほとんど快楽的に、光と風と水を享受していた。圧倒的な感覚の驟雨(しゅうう)に自らを開く人工物はとても健康に見える。しかしそのような感覚の驟雨は身体にはとても大きな負荷であり、通常、一時的なものたらざるをえないだろう。氏の仕事は、そんな一時的なハイテンションの感覚の驟雨をどうにか持続の相のもとに、習慣のように、つまり「住む」ことのタフで執拗な反復において我がものにしようとする試みと理解した。そのようなレアな自然の馴致を、彼がこれまで身につけた建築という技術の体系でもって実現しようとする試みと理解した。つまり「建屋」を「建築」にしようとする試みと理解した。
圧倒的な感覚の驟雨は、あまりに人間主義的に閉じた人工性にあっては、ときに必要なものであったのかもしれない。それが「千年に一度」のあの津波だったのかもしれない。そんな災厄によって図らずも開かれてしまった可能性がもしあるとすれば、それをあたらしく自らのものとするのはやはり、これまでに培ってきた知と技術によってでしかないことを私は確認した。



2013年4月21日、15Aの家、東京都大田区西蒲田


5月2日から10日まで、前回と同じく青森から福島まで車を走らせた。東北の風景に少しずつ目に見える変化が現われてきた。視野いっぱいを占める広大な荒れ地の端々に小さくダンプカーやらクレーンやらが動きはじめた。水産施設が立地する最沿岸部から一歩入った、かつても人が住んだであろう土地に人々のすまいがぽつぽつ建ちはじめた。それらのすまいはしかし、これが群れをなしたときに、この地の「自然」に拮抗するような「風景」をつくり上げるとは到底思えないように見えた。これまでの長きにわたるスッタモンダの果てに結局このようなものしか建ちえない予想通りの現実に落胆した。一方で想像もしなかった光景にもこのとき出会った。上にも書いたが、あらゆる瓦礫という瓦礫はとうの昔に撤去され、しぶとく残りつづけた建物の基礎も「復興」が進むにつれ姿を消していった。が、最後の最後まで執拗に、大地に固執するように、どうしようもなく残ってしまった遺物がそこかしこにあった。それらは残っていること、ただそれだけでかけがえのない価値をもっているように見えた。自らの正統性を全身で表現するように堂々とそこに建っていた。残ったことは「選ばれた」こととなり、ゆえに彼らは祝福されているように見えた。神々が人類の栄光を謳いあげているかのような光景だった。まさに神話的な光景を前にしているようで、私には筆に尽くしがたい。



2013年5月7日、大槌港、岩手県上閉伊郡大槌


2013年5月8日、赤崎海岸、宮城県気仙沼市本吉郡下宿


2013年5月10日、福島県相馬郡飯館村


10月7日に仙台入りして、海岸線を岩手県は田野畑村まで北上し、いちど内陸の盛岡に寄ってそこから、東北自動車道で一気に福島県の南相馬市まで南下して、12日に仙台から東京に戻った。前回、視界の果てで遠慮がちに動いていた工事用車両は近景から遠景まで、活発に仕事をはじめていた。土木的風景のパノラマがいたるところで展開されはじめた。にわかに騒がしくなった。近くの山々はハゲ山にされ赤い地肌をむき出しにしていた。むき出しにされた順に線が引かれて、高台に宅地らしきが姿を現わした。最後まで残ったものたちのあるものは撤去され、あるものはいまだに残り続けている。この期におよんではじめて私は、ふと、この土地の津波に流される以前の風景を見てみたいと素朴に思った。それを見たことがないことに初めて気づいたかのように。そしていま残っているものはすべて等しく撮影されるべきだと強く思った。それらはいずれも不可能だとしても。そして写真によって「記録」をすることはただそれだけでもう十二分に価値のある仕事だとあらためて思った。



2013年10月8日、赤崎海岸、宮城県気仙沼市本吉郡下宿


2013年10月9日、大槌港、岩手県上閉伊郡大槌


2013年10月12日、福島県双葉郡浪江町
以上、すべて撮影=山岸剛


12月7日から9日までの3日間、首都大学東京の饗庭伸先生からのお誘いで大船渡から車で30分ほどの綾里(りょうり)という集落に滞在し撮影を行なった。先生が手伝いをされている復興計画のおおよそが決定し、さてこれから町が変わっていくという段階で、この土地のアーカイブをつくる一環での写真撮影を依頼された。これまで津々浦々の多くを通過しながら撮影してきたのとはちがって、ひとところに腰を据えて仕事をすることにもなるので、どんな変化を目にできるのか、写真にどんな変化が現われるのか、楽しみである。
2014年で撮影をはじめてから4年目、いろいろな意味で東北の風景も、それをなぞる私の写真も転機を迎えつつある。6月には東北の写真で展示も予定している。少しずつまとめながら、これまでと同じように風景を見据えて、カメラを使って、記録を続けていきたい。

最後に。二川幸夫さんが亡くなった。2010年に日本建築学会の会誌『建築雑誌』で、編集委員のひとりとして建築写真の特集を組んだときに最初で最後★2、じっくりお言葉をいただいて以来折にふれて、二川さんのあり方というか姿勢のようなものが、私の仕事にとってとても大きな意味となって迫ってきた。二川さんのおかげで、私は自分のなかにある大切なものを発見し、それを展開することができた。私が自らの東北での仕事を「写真によるレポート」と呼ぶのは、二川さんが『日本建築の根』のあとがきでご自身の仕事をそっけなく「写真レポート」と呼んでいることをなぞっている。亡くなる少し前に二川さんの『日本の民家』の写真展示を汐留で観たとき、私も東北でおなじものを見ている、と思ったことを二川さんにお伝えしたかったので悔しい。124歳まで生きて写真を撮り続けると豪語されていて、それを人に信じさせるような大きな人物だったので悔しい。私は二川さんのようなあり方を受け継いでいきたいと思う。あのような人にお会いできたことに私はなんと言って感謝しよう。

★1──山岸剛「2011-12年 都市・建築・言葉 アンケート」
URL=https://www.10plus1.jp/monthly/2012/02/enq-2012.php#1853
★2──『建築雑誌』2010年7月号 特集「建築写真小史」(日本建築学会)
URL=http://jabs.aij.or.jp/backnumber/1606.php


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