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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<

小澤京子

●A1
◉建築作品
このアンケートに回答している現在、いちばん強く脳裏に刻印されているのは、先日(12月15日─22日)開催されたムネモシュネ・アトラス展である。空間内に配列されたイメージ群が、相互の間に無限に近い連関を絶えず生成させている。渦巻き状に、あるいはミノタウロスの迷宮状に並べられたパネルの間に立つと、その連関の紡ぎ出す糸が新たに伸びては張り巡らされていくのが感じ取れるようであった。書籍やカタログ収録の縮小図版ではなかなか感知できない「細部」や「空間的な配置が生成させるネットワーク」を、自らの等身大の身体を以て経験する──それは新鮮な驚きを伴う出来事であった。アビ・ヴァールブルクのムネモシュネ・アトラス自体は、田中純氏の著作ですでに10年前から知識は得ていたし、『ヴァールブルク著作集別巻 ムネモシュネ・アトラス』(伊藤博明+加藤哲弘+田中純著、ありな書房、2012)刊行に先立ち、パネル内の画像について基礎的情報を調査するゼミに所属していたこともあり、何度も目にする機会があった。しかし今回、空間として立ち上がり、拡がった六十数枚のパネルを経験して──それは「視る」という単一の知覚器官による認識ではなくて、もっと総合的でなおかつ不確かさも帯びた経験である──初めて把握できた「細部」や「関係性」も多い。

最終日である22日に開催されたシンポジウムの後には、加藤道夫氏(建築学)から「ムネモシュネ・アトラスは建築である」というご指摘があった。まさしく、立ち並ぶ複数パネルが創出しているのは一種の建築(空間的な囲い込みと流動的ネットワークの創出)であり、また記憶劇場やアルシーヴ、さまざまな記憶が各々の場所・形象に固着した都市とも通底するような、ひとつの「場所」であったと思う。

◉書籍:香川檀『想起のかたち──記憶アートの歴史意識』(水声社、2012)
2012年冬学期の埼玉大学でのゼミでは、ホロコースト(ショア)の記憶と表象の問題を扱っている。具体的には、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの著作『イメージ、それでもなお──アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(橋本一径訳、平凡社、2006、原著2003)を精読するという形式を採った。ホロコーストという極限的な出来事を通して、イメージや表象、記憶とその想起、歴史記述といった問題系を考えようという趣旨である。ゼミでのディスカッションを通してさまざまな問いが浮かび上がるなか、たまたま新刊として書店で見掛けたのが上記の『想起のかたち』であった。

この書籍で扱われているのは、ディディ=ユベルマンが取り上げるような、ホロコーストの直接的なイメージ(強制収容所で撮られた写真)ではなく、想起の契機となるような、事後的に制作された芸術作品である。両者にステータスの違いはあるものの、本書で展開されている議論や、紹介されている文献には、示唆を受けるところが多かった。都市空間における「場所の記憶」や「不在」は──記憶術からカナレットやピラネージの都市表象、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』、W・G・ゼーバルトの一連の文学作品、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションに至るまで──、私自身の研究にとってもクリティカルな問題だ。同時にまた、震災・津波や原子力発電所事故という災厄に関しても、いずれ浮上してくるであろう問題でもある。『想起のかたち』が取り上げるのは、もっぱらドイツという地理的に遠い「他者の国」の例であるが、「今ここ」で生起しつつある問題にも気付かせ、思考を促してくれる一冊である。

◉出来事
さまざまな政治問題をめぐって、種々の立場から──反/脱原発から「反韓流」まで──デモが行なわれたことであろうか。街路での社会運動は、安保闘争沈静化以降の日本では長らく停滞傾向にあった。少なくとも、「普通」の(ノンポリの、とも言い換えられる)市民がコミットするような活動ではない、というのが一般的な了解であったように思う(例えば「プロ市民」などという俗語は、「デモをやっちゃうような人は『わたしたち』とは違っている」という発想の反映だろう)。フランス留学当時、ごくごく普通の勤め人や若者が、仲間と飲みに行く、あるいはクラブに遊びに行くような感覚で「manif(=デモ)に行く」のを目にすると、「街頭での意思表示」に対する信頼の薄さ(むしろ警戒や軽視、侮蔑)は、少なくとも日仏二国間の比較においては、日本に顕著な特徴なのではないかと思われた。

しかし、今夏毎週金曜日に国会議事堂周辺で開催されていた脱原発デモの様子を見て驚いたのは、そこに結集しているのが「普通の人として普通に生活していそうな人たち」や「お洒落な若者」だったことである。都市のなかの特定の象徴的意味や機能を持つ場に、「皆で集まる」ことが意思表示になるという信頼が、長期間の断絶を経て、突如として再び共有され始めたように思う。

すでに「アラブの春」などに言及しつつ指摘されている通り、ここ数年で急速に普及したSNSの影響も大きいだろう。簡単な手続きで瞬時に情報拡散が行なえるという特性に加えて、「似た意見を持つ者」どうしの精神的連帯感が(ときとして過剰なまでに)昂進されやすい傾向も顕著であり、それが強力な動因となったのは確かであろう。TwitterやFacebookに登録している者の多くが、脱原発デモ関連の夥しい情報が「リツイート」や「シェア」で流れてくるのを目にしているはずである(他方で匿名掲示版の類に目をやれば、「反韓流」デモに繋がるような煽動が散見される状況がある)。

ともあれ、これらの事象は都市空間に対する認識や態度・行動に決定的な変化が起きつつある証左かもしれず、引き続き注視していきたいと思う。

●A2
私自身の関わる企画の宣伝になってしまうが、埼玉大学で予定されているアビ・ヴァールブルクのムネモシュネ・アトラスを巡るイヴェント、それから2011年の「元年」を経て今年ますます盛り上がったファッション批評の行方である。具体的には、先日刊行された西谷真理子編『相対性コム デ ギャルソン論──なぜ私たちはコム デ ギャルソンを語るのか 』(フィルムアート、2012)関連の連続トークイヴェントが、2013年1月から企画されている。

2012年は、現実の都市や建築を巡るフィールドワークからはだいぶ離れてしまっていたので、2013年開催予定のあいちトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭などには、ぜひ実際に足を運ぼうと思う。

●A3
昨年のアンケートにも書いたが、自分がコミットしているような「人文知」が、いかに社会の現実的な問題に関わりうるのか、貢献をなしうるのか、ということを引き続き考えている。例えば先日行なわれた衆議院選挙の結果を巡っては、「左翼系知識人」と「世論」との乖離が、とりわけ前者の側から問題視された(もちろん、小選挙区制特有の問題などもあり、選挙結果を民意の反映と考えるには留保が必要だが)。日本社会の諸制度(産業経済や地方行政など)が原子力発電を基盤として廻ってきた前提がある以上、それを単純に「イデオロギー的な絶対悪」と見なし、ひたすら糾弾の言葉を繰り返しても、現実を変えるポテンシャルは弱いのではないかと思う。複数の要因が絡み合って産出された現状の複雑さを、精緻に把握し分析を加え、さらには自分(たち)とは利害関心やポリシーを異にする人々を説得しうる理論を構築し、対話を続けていく──いわゆる「実学」を担うのではない者たちにできるのは、このような営みに対する「考えるヒント」を、直接であれ間接であれ、与え続けることではないだろうか。

例えば原発問題のような「シングル・イシュー」に留まらず、少なくとも日本では「あらゆるイメージと言説が、『それ』についてしか語らなくなった」ようにも思われる状況のなかで、いかに今ここにある状況を思考し言語化し、そして他者へと伝達していくのか──こうした問いに、つねに自覚的でありたいと思う。
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