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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<

星野太

●A1

ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs『たった一人の中庭』(フェスティバル/トーキョー、2012)

ここ数年、刺激的な作品を数多く送り出している今年のフェスティバル/トーキョーは、ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKsの『たった一人の中庭』によって幕を開けた。同作は、メディアなどではその存在が隠されているヨーロッパの「移民キャンプ」をめぐる作品である。とはいえ、にしすがも創造舎に設営されたその舞台は、そうしたいかにも「政治的」な主題とは一見かけ離れた奇妙な静謐さを湛えている。校舎の地下の白い空間でクラブ・ミュージックに興じる異形の人間、鶏卵と蒸気で満たされた家庭科室で仏語のテキストを読み上げるパフォーマー、理科室で一定のリズムを刻む水道や電話の呼び鈴――なるほど、ここには外国人の強制送還をめぐる「テキスト」や「イメージ」がたしかに散りばめられており、そのかぎりにおいて、この作品にはまぎれもなく「政治的」と呼びうるような倍音が鳴り響いている。
だが同時に、この作品には「ここ」と「よそ」を暴力的に結びつけようとする性急さはいっさい見られない。私たちは、この舞台上で日々繰り広げられるそのパフォーマンスを通じて、自分たちが身を置いている「ここ」と、 移民キャンプという「よそ」の距離を慎重に測っていくための思考の作業へと導かれるのだ。校舎三階の更衣室は、来場者の思考を具体的に「上演」するための装置であると言ってよいだろうし、「政治オフィス」で日々スタディを重ねるパフォーマーたちは、さながら私たちの思考の随伴者であるかのようだ。あるいはむしろ、そこでは括弧つきの「私たち」がしばしば共有する無前提な立ち位置こそが厳しく問われ、解体されていくと言ったほうが正確かもしれない。なぜなら、体育館に足を向ける来場者たちは、そこで「CHOOSE THE CAMP(どちら[の陣営/キャンプ]に付くか選べ)」という、この作品中でもっとも「強い」文字列を目にすることになるからだ。
奇しくも、(元)学校という規律訓練の典型のような会場を舞台に、この異様なまでに免疫的な空間は創り上げられた。通常「私たち」が身を置く管理された空間と、ヨーロッパの移民キャンプという遥か遠くの歪(いびつ)な 空間は、あまりにも隔たったものであるように感じられる。そこにあるのは免疫(immunity)にも似た強固な隔たりであり、両者が即時的に共同体 (community)として結ばれることはない。しかし他方で、私たちはそうした2つの空間を隔てている「境界」がそこかしこに存在するということを、実はよく知っているのではないか。上演期間中に「政治オフィス」で生産され、日々その数を増す中庭のバナーには、若松孝二の『天使の恍惚』(1972)の劇中で重要な位置を占める楽曲の歌詞が散見される。今年急逝した若松と日本赤軍との連想からもたらされたのであろうその文面は、「ここは静かな最前線(Ici est la frontière silencieuse)」という曲の冒頭のフレーズを、いささか唐突にこの空間へと呼び招く。
仏語に訳され、校庭に掲げられたこの言葉を、私たちはいま、文字通りに理解すべきなのではないだろうか。ブリュイエール/LFKsによる『たった一人の中庭』という装置/舞台において「上演」される私たちは、みずからの周囲に存在するこの「沈黙した境界(la frontière silencieuse)」にこそ、何らかの言葉を与えねばならない。


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