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特集:201201 2011-2012年の都市・建築・言葉 アンケート<

成相肇

●A1

未曾有の大災害とはいえ、「3.11以後」が反応する/しないを迫るイデオロギーになってはたまらない。震災後すみやかに現地に向かってボランティアに従事したアーティストたちの話を聞くにつけ、それ自体何ら批判されることではないが、その素直な従順は、巨大な監視・告発装置と化したネットメディアが善と規定する範囲をおそろしく萎縮させていく動きに随伴するようにも思えた。
これに絡めて、2011年末にギャラリーswitchpointにて「不幸なる芸術」と題した小企画を立てた。知略による悪巧みを技術と捉え、これを学び伝えず黙殺せんとすることが短絡で残虐なだけの悪事の横行を招くと説いた柳田国男の同名の小論を借用して、橋本聡、小鷹拓郎とぼくとでとにかく非行を試みるという趣向。悪を以て善に対するのもまた短絡の謗りを免れまいが、明確な善を設定せず悪を悪としてひたすら描き出すことが「3.11以後」を含めた現状へのせめてもの抗いになりはしないかと考えた。以下、展示とともに消えた冒頭文を引用しておく。

 「風邪はほどよく引いたほうが健康のためになるのだと申します。
 規制だ自粛だ炎上だ、殺虫滅菌消毒無害を追い求め、僅かなほこりも逃さぬ不健康なまでの徹底した衛生潔癖の果てに、いつしか虫菌毒害の澱はタールの如く黒々と粘り気を増す一方でございます。
 かの柳田国男が悪の技術の必要を説いてはや八〇年、型通りの道徳の修得の裏で悪徳の術はもはや衰微の極み。じつにきれいに棲み分けた個と個とが、ひとたび接触して差し迫ればシネの一言で事を荒立てる稚拙を培い、読んで字の如く単刀直入に斬り込む芸なき安易さが世にはびこっております。
 火を使わねば火事が起こらぬわけでも無し。火の育て方の忘却が消し方の喪失につながるのと同様に、合理に溺れて悪の修練を怠ったが故にこそ、残虐を進んで招き入れているのではありますまいか。
 関係を主題に謳う芸術に数あれど、その大方が掲げる「善き」関係は、窮屈と退屈で編まれた世の道理に収まるのが落ちでありましょう。まして直近の大災厄を受けて、みな揃って善に眼差しを据えているいま、言うことを聞かぬ芸術の悪しき良心に従って、きびすを返してまっしぐらに走る次第でございます。
 ゼンポーだけが道じゃなし。後方確認悪口(アック)オーライ、いざ、不幸なる芸術へ。」

●A2

2011年のほとんどは、現在も府中市美術館で開催中の企画「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」展の準備に費やした。未だ直中にあって振り返るだけの心的距離を持ち合わせていないが、私事の報告をさせていただく。美術の高踏化に抗い続けた石子順造の散在した資料をまとめた意義は大いにあったと自負しているものの、石子を甦らせるという魅力的な主題を十分に活かしきれなかった悔いが残る。社会の機微に分け入って明文化されていない諸制度を仔細に観察した上でそこからの解放を念願とした石子の思想を、再び「美術」「マンガ」「キッチュ」の制度的枠組みに切り分けてしまったこと、また生活と切り離してマンガやキッチュを展示に付したところで白々しさが浮き立つといった難点をクリアできなかったことはぼくの力不足というほかない。
と書いてみて思い起こされるのが岡本太郎である。既に猛烈なスピードで消費され(もしくはこれも震災のために、か)多くの人々は忘れているのではないかと思われるのだが、2011年に生誕100周年を迎えた岡本は、東京国立近代美術館の回顧展をはじめとして盛大に取り上げられた。岡本俊子亡き後、それまで美術家としての側面に偏ってスポットが当てられがちであった岡本がいかに捉え返されるかに期待したが、一般のゲージュツ像の形成に大きく関与しまさにキッチュにまみれた岡本の一面はついに切開されないままに祭り上げられた感がある。彼がかつて美術家として抹殺されようとした仕組みと没後の持ち上げられ方はまったくの同構図ではなかろうか。あるいは石子順造なら岡本をまるごと論じ得たのではあるまいか。というわけで2012年も引き続いて石子のことが頭から離れそうにない。

●A3

東京藝術大学大学美術館ほかで開催の高橋由一展、東京都現代美術館のトーマス・デマンド展に注目したい。また、昨年の神奈川県立近代美術館に続いて、ブリヂストン美術館と東京国立近代美術館が今年ともに開館60周年を迎える。教科書そのものといっていい豪華なコレクションを活かした展示が楽しみであると同時に、日本における近代美術館の成立を考え直す機会を期待したい。
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