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特集:201201 2011-2012年の都市・建築・言葉 アンケート<

中川純

震災の日、駅が閉鎖され帰ることができなくなったので、近くに住む友人と酒を飲むことになった。はじめは震災当時の状況を話していたが、朝方になるといつもの会話に戻っていた。ようやく動き出した電車に乗って駅に降り立つと、家電量販店が軽快な音楽を流しながらいつもと変わらず営業しており、妙に安心したことを覚えている。帰宅後TVをつけると想像を絶する映像が飛び込んでくる。ほどなくして福島の原発が競い合うように爆発した。政治家が「直ちに影響はない」と言い続け、そんなものかとTVを見続けているうちに、祖父母が相次いで亡くなり、法事で3月が過ぎていった。
5月の連休だろうか、なにかの用事で訪ねた写真家の山岸剛さんのスタジオで『建築雑誌』用に撮影した東北の写真を見せてもらった★1。被写体は津波の被害を受けた工場らしきであったが、鉄骨の躯体とそこに絡まる瓦礫の構図にひどく無意識を揺さぶられた。翌日から友人と東北に入る予定であったが、私が求めていたのはこの写真のような光景なのかもしれない、そう思うと恥ずかしくて居た堪れなくなり、その日はくだらない話をしながら深酒し、自分の卑しさを反省した。
ガイガーカウンターを入手したので、近所の公園と娘が通う学校を一通り計測した。アスファルトの路上は0.36μSv/h、公園の水たまりは0.92μSv/hという値であった。私が住んでいたところはホットスポットと呼ばれているらしく、3月からいままでうちの娘たちは学校や公園で低線量ではあったが被曝し続けていたことになる。故ミッテラン大統領の「人類は戦争か被爆を選ばなければならない」という言葉を思い出し、とても暗い気持ちになった。戦争はエネルギーの争奪戦だが、九条を持つこの国は被曝を運命づけられていたというわけだ。戦争のない平和で安全で豊かな世界、それがまるで黙示録の予言が成就したかのように突然目の前で崩れ落ち、私は浮遊せざるをえなくなった。

原発事故において政府や電力会社の管理体制が問題視されているが、イヴァン・イリイチは『エネルギーと公正』のなかで今回の惨事を必然的なものとして予言している。そして彼は「大量のエネルギーは必然的に自然環境を破壊するが、全く等しく社会的諸関係をも退廃させる。(...中略...)高度のエネルギー量により社会の崩壊がはじまる境界は、エネルギーの変換が物的な破壊をうみだす境界とは別である。馬力で表すならば、前者の方が明らかに低い」と述べている。「エネルギーの変換が物的な破壊を生み出す境界」を原発事故とするならば、その前に社会の崩壊が始まっているという指摘に対して、私は1995年に起きた一連のオウム事件を思い出した。
吉本隆明は『宗教の最終のすがた』の「西の天災、東の人災」において「ぼくはオウム事件を『姿なき内戦』の一種とかんがえています。(...中略...)何が問題なのか。「善悪」の基準が現代の市民社会を離れて、浮遊しだしたこと。経済でいえば、価格がその物本来の価値と関係なく浮遊しだしていること。(...中略...)こうした浮遊現象は、所得の半分以上が個人が使っている消費であるという現在の消費社会の特徴からくるものではないでしょうか。物の価値とか「善悪」とか価格といった、あらかじめその本体によって決まったようにみえていたものが、消費社会になって、本体から離れてさ迷いだした。オウム事件の根底には、このような浮遊現象があるような気がするのです。ですから、オウム事件は高度な消費資本主義社会では、起こりうる可能性があった事件だとも考えられます」と述べ、この吉本の浮遊現象に応答するかのようにイリイチは「たとえ汚染しないエネルギーを得ることが可能で、それが豊富にあったとしても、大量にエネルギーを使用することは、肉体的には無害でも精神的には人を奴隷化する麻薬に似た作用を社会に及ぼす」と述べている。浮遊現象と麻薬。誤解を恐れずにいうならば、オウム事件はこの浮遊現象=麻薬に対する拒絶反応ではなかったか。そして浮遊=麻痺した社会の総体が原発ではなかったか。
イリイチは続ける。エネルギー政策を決定するには三つの指標があると。そのうち二つは「規制」と「産業の転換」で、これらについてはさまざまな方面で開発が行なわれている。そして「第三の道を選ぶ可能性はほとんどみすごされている。(...中略...)エネルギーの使用を可能な限り最小にしようということは考えていない。しかし、エネルギー使用の制約があってはじめて、高度の公正を特色とするような社会的諸関係が成立しうるのである。現在無視されているそのひとつの道こそが、あらゆる国々が選びうる唯一の道なのだ。それはまた、高度にモーター化された官僚の力にさえも、政治的プロセスを用いて制約を加えようとする場合に、行使しうる唯一の策略である」と述べている。
「制約」はある種の「契約」である。契約には双方合意に達する条件が必要だ。私は浮遊現象=麻薬に満ちた世界で建築の教育を受け、実務の経験を積んだ。この状況に対して意識的ではあったが、いま思えば物語=ゲームとしてしか理解していなかった。極私的な状況のなかでたまたま自分が浮遊していることに気づいたが、この死と隣り合わせの問題と今後どのように共存すればよいのか、いまだによくわからないでいる。
イヴァン・イリイチ『エネルギーと公正』(大久保直幹 訳、晶文社、1979)
吉本隆明+芹沢俊介『宗教の最終のすがた──オウム事件の解決』(春秋社、1996)

★1──山岸剛「岩手県宮古市田老青砂利、2011年5月1日」を参照。


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