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特集:201201 2011-2012年の都市・建築・言葉 アンケート<

大山エンリコイサム

●A1
「東京藝術発電所」と電子クラフトについて

東日本大震災の当日、僕は電子工作用の資材を買うために美術作家の知人と秋葉原にいた。ある作品を彼と共同制作するというプランがあったのだが、目的の店にたどりつく直前に地震が起こり、そのままなにも買わずに帰路につくことになる(自宅まで徒歩7時間はかかっただろうか)。結局、半分は震災のこともあり、半分は別の事情もあったため共同制作のプランはお蔵入りになってしまったが、いずれにせよ、震災以前から漠然と抱いていた電子工作への関心は、3月11日を機にややかたちを変えながら僕のなかで強まっていった。
同じころ、ポーランドの文化事業であり、世界12カ国で開催されたワークショップ型イベント「I, CULTURE」の東京ヴァージョン「I, CULTURE in TOKYO」というプロジェクトが始まり、僕も関わることになった。そこでのキーワードのひとつに「クラフト(Craft)」があったのだが、それをたんに、伝統的に様式化された職人的「工芸」としてではなく、むしろそのつど即興的に練り出される、ブリコラージュ的なサヴァイヴの「技芸」としてとらえ直してみるというヴィジョンであった。「クラフト」に対するこのようなイメージと、秋葉原で電子工作用の資材を購入しようとしていたときに僕が頭に描いていたイメージとは、プロジェクト全体を通じて少しずつ重なりあっていったように思う。なぜなら電子工作こそ、体系化され継承されるような安定した技術ではなく、言わばアドホックにつくりあげられる技術なのだから。その重なりあっていったイメージの印象を、「電子クラフト(Electrical Craft)」という言葉で表現してみてもよいかもしれない。そこには、電子パーツやジャンク品をつぎはぎしながら、不安定な世界を生き抜くための術をこしらえていく現代の器用仕事というか、どことなく土着的かつテクノロジカルな趣がある。
「I, CULTURE in TOKYO」の一環として、東京藝術大学で10月に行なわれた企画「東京藝術発電所」は、そのような電子クラフト的な問題意識を、ある仕方で扱っていたと思う。僕自身も参加した本企画では、作品展示と並行してソーラーパネルや人力、風水力などさまざまな仕組みを利用したブリコラージュ的発電が数名の美術作家によって行なわれ、それらの電力は、福島の漆作品展「生まれなおす工芸:福島の漆」をライトアップするために用いられた。原発事故以降、東京の電力の多くが福島にリスクを背負わせることで確保されていたという事実とその依存関係が再考を迫られているなか、ここでは、東京に届けられた福島の漆に美術作家による自家発電の電力が供給されるというかたちで、その依存関係は批判的に逆転する。またその逆転には、「生まれなおす工芸」という言葉と「ブリコラージュ的発電」というアイデアを共鳴させながら、職人的「工芸」をサヴァイヴの「技芸」=電子クラフトへととらえ直す視点も織り込まれていたはずだ。そのような意味で、一過性のアイデアではなく、長期的な可能性として電子クラフトを考えてみてもよいのではないだろうか。
「東京藝術発電所」公式記録動画
URL=http://www.youtube.com/watch?v=CoeO1l8xkog

●A2
Fire Extinguisherの美学----KIDULTとKATSU

僕が専門とするストリートアートの分野においては、「ART IN THE STREETS」展(ロサンゼルス現代美術館・ゲフィン館、2011年4月17日〜8月8日)の開催が今年の特筆すべき事柄かもしれない。だが、それについてはほかでも書く機会があるだろう。ここでは、強く関心を惹かれたもうひとつの、よりアンダーグラウンドな事例を紹介しておきたい。
読者によっては嫌悪感を抱くかもしれないが、ここ数年、ストリートアートの世界では消火器(Fire Extinguisher)を使用したヴァンダリズム(Vandalism)の流れが活性化している。ヴァンダリズムとは文字通り、多かれ少なかれ違法行為であるグラフィティやストリートアートのなかでも、特に破壊衝動が高く視覚的・物理的な暴力性の強いものを指し、消火器に塗料をつめてペイントするというアイディアは、クレイグ・コステロ(KR)が自らのグラフィティ専用マーカーのブランド「KRINK」において数年前に発明していた。しかし、今年に入ってからYouTube上に多数アップロードされたKIDULTやKATSUといった世界的にハードコアなストリートアーティストたちの消火器を使ったボミングの映像は、その過激さにおいて特に際立っている。

1101_toda_51c.jpg
KRINKの消火器「8-Litre Applicator in Silver」
URL=http://www.krink.com/products/8-litre-applicator/

KIDULTによる消火器を使ったJC/DCへのボミング
URL=http://www.youtube.com/watch?v=I0yU761L01M

KATSUとMORALによる消火器を使ったボミング
URL=http://www.youtube.com/watch?v=52EVD4THT0A

これらの動画を見るとわかるように、たった数秒で数メートルにおよぶ壁面をまるごと埋め尽くしてしまうかのような消火器の破壊力には絶大なものがある。先に断っておくと、これが都市空間や建築、およびその利用者や所有者に対する強大な暴力であることはもちろん疑いえない。ただ、ヴァンダリズムが「公共物破壊的(Vandalistic)」なものであるということが実践者にも鑑賞者にもあらかじめ織りこみ済みである以上、そのこと自体をただ批判しても実効力はなく、またこの文章もその是非を問う場ではないため、ここではひとまずその問題を保留にしておきたい。
いずれにせよ、おそらくアーティスト自身が手を加えているであろうこれらの改造消火器によって、それまでのストリートアートにはありえなかったような瞬発性と、ヒューマンスケールをはるかに超えた巨大なサイズ感覚が、KIDULTやKATSUの実践において同時に獲得されているという点は、まずそれだけで注目されてよい。そもそも、初期グラフィティ文化においてスプレー塗料の使用が普及した背景には、短時間で大きく目立つタギング(グラフィティ・ライターの署名)をかくにはどうすればよいか、というプラクティカルな理由があった。同時に、グラフィティ・ライターには「より高いところ」「より遠いところ」にかきたいという「遠方への想像力」が欲望として常に働いており、これらの諸要因はグラフィティの持つヴァンダリスティックな側面と密接に結びついている。そのことを踏まえれば、より速く、より大きく、またより「遠方に」かくために消火器が新たに用いられるようになったというのは、グラフィティのもつ暴力性を純粋に押し進めていったときの必然的な帰結なのだと言えるかもしれない。
とはいえ、KIDULTやKATSUは単なる「破壊至上主義者」ではない。ヴァンダリズムの極致をドライブしながらも、彼らがある種の戦略性や作家性を持っていることがいくつかの点から読み取れる。例えばKIDULTは、HermèsやLouis Vuitton、Colette、Agnès B、Yves Saint Laurent、そしてSupremeといった有名ブランドのブティックに狙いを定めて仕掛けたヴァンダルの様子を撮影し、まるで各ブランドと公式にコラボレーションしているかのようなパロディのタイトルをつけて編集したうえで、それらの記録動画をYouTube上にアップしている。また、映像のなかで彼自身はドクロのようなマスクをつけ、ハスキーボイスで喋るキャラクターのような存在として登場する。このような、ブランドの有名性を逆手にとる戦略やキャラクターとしての自己演出、またYouTubeの活用などは、BANKSYのそれを彷彿とさせるようなセルフ・マーケティングの論理でもあるだろう。
KIDULTによる消火器を使ったAgnès Bへのボミング
URL=http://www.youtube.com/watch?v=ZmqhqKNovhw

ただし、次の点でKIDULTはBANKSYと決定的に異なり、よりラディカルであるように思われる。まず、もともとサブカルチャーとしてのグラフィティは、場のもつ意味や文脈を顧みず、どのような支持体に対しても同じように自分の名前をかいていくという「名前の一元主義」として特徴づけられる。他方でBANKSYやZEVSに代表されるような昨今のストリートアートの潮流は、名前をかくこと(Name Writing)そのものからはやや距離をとりつつ、モダン・グラフィティ以前の「落書き(Scribble)」に見出されるような意味の操作性や文脈のかき換えから再びその創造力を引き出している。そしておそらく、KIDULTのポジションはそのふたつの狭間にある。なぜならKIDULTは、グラフィティ・ヴァンダリズムの徹底によって異常なまでに肥大した自らの名前を、そのまま意図的に、同じく肥大した資本主義社会の象徴であるハイ・ブランダリズム(高級ブランド主義)というコンテクストに、都市空間のど真ん中で正面衝突させているのだから。さらに言えば、(ここでは詳述できないが)グラフィティがある側面において資本主義社会の産物であり、両者のあいだに結ばれる相似的な親子関係とでも言うべきものを認めるとき、KID(子ども)+ADULT(大人)の造語であろうと思われるKIDULTという「名前」に、グラフィティと資本主義の鏡像関係を読みこんだとしてもけっして大袈裟ではないだろう。
一方でKATSUは、また異質なクリエイティヴィティを発揮している。KIDULTほどマーケティングのにおいを感じさせないKATSUは、自らの肥大した名前を資本主義社会やハイ・ブランダリズムに直接ぶつけていくのではなく、むしろそれを宇宙的なミクロ/マクロのスケール感へとグラデーショナルに置き換えていくという、極めて興味深い試みを行なっている。チャールズ&レイ・イームズによって制作された《POWERS OF TEN》を踏襲し、1/20インチの極小世界から1,440インチ(120フィート)の都市空間サイズまでスケールの領域を横断しながらグラフィティをかいていくKATSUの映像作品《THE POWERS OF KATSU》は、その冒頭で「THIS IS A FILM ABOUT SCALE」と述べられているとおり、グラフィティや落書きをめぐるドローイング性、身体の使用感覚、ブロック塀やシャッターといった都市空間のテクスチャへの関心、建築や都市の構造への介入作法、また諸々の条件によって変化するツールなど、それぞれのスケール感のなかで多彩な問題を浮き彫りにしている。同時に、《POWERS OF TEN》を《THE POWERS OF KATSU》へとかき換えた冗談のように大胆なタイトルは、グラフィティのあらゆるスケールを横断していく際、その結節点となる水準にはやはり名前への信仰があることを伺わせもしよう。本作は2009年の制作になるが、秀逸なのでここに取りあげておきたい。
KATSU, THE POWERS OF KATSU, Red Bucket Films, New York, 2009.
URL=http://www.youtube.com/watch?v=FGnLwf9CCe4

Charles and Ray Eames, POWERS OF TEN, © 1977 EAMES OFFICE LLC.
URL=http://www.youtube.com/watch?v=0fKBhvDjuy0

●A3
ヴァンダリストたちの新しい息吹

さて、ストリートアートにおける2011年は、一方でロサンゼルス現代美術館での大型展覧会「ART IN THE STREETS」展の開催がメジャーな話題を集め、他方その水面下では、よりラディカルなヴァンダリズム的創造力が、特にYouTubeという情報インフラを通じて世界中に届けられた年だったのではないだろうか。これらの動向が、今後どのように展開していくのかを具体的に予測することは難しい。ただ、これまでのグラフィティやストリートアートが、「ART IN THE STREETS」展の参加メンバーに代表されるような作家性の高い「アーティスト」たちと、違法性を重視したハードコア・アンダーグラウンドな「ヴァンダリスト」たちに二極化しがちであったとすれば、むしろヴァンダリズムをつきつめていくなかで作家的クリエイティヴィティを発揮していくKIDULTやKATSUからは新鮮な息吹を感じる(もちろんそこに、ZEVSやBNEを加えることもできるだろう)。個人的にはそのような点も含めて、ますます多様化していくストリートアートの現在形を2012年も注視していきたい。

KATSUによる消火器を使ったボミング。「ART IN THE STREETS」展開催中のロサンゼルス現代美術館にて
URL=http://www.youtube.com/watch?v=0I2mX8coJ1c

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