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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<

平塚桂

●A1
2010年に注目を集めた空間や出来事を振り返ってみると、圧倒的な"構築のスペクタクル"に魅了されたことが多かったように思う。建物を形づくる構造そのものを強烈なインパクトで見せる構築のスペクタクルは多くの人を惹きつける。建物にかかる重力や、建設にみられるダイナミズムは万国共通だから、コンテクストを共有していない相手にも伝わってしまう。
「建築はどこにあるの?」展での中村竜治の作品や、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展や豊田市美術館「石上純也──建築のあたらしい大きさ」での石上純也の作品は、展示でないと表現しがたい繊細さと、重力と拮抗する架構を見せた。西沢立衛の設計により、秋に開館した《豊島美術館》では、水滴がじわじわと這い出し床をつたって水たまりを形成する。鑑賞者は、それがわずかな床の傾斜、つまり精緻な施工技術が支えるアートだと瞬時に理解できる。
構築のスペクタクルは、瞬間のビジュアルのみにあるわけではない。たとえば泊まれる展示を謳い文句に、秋に1カ月間開催された「LLOVE」には、開業から終了までの間にログ的に進化するダイナミズムがあった。空間デザインからその運営まで、おびただしい人数が関わるプロジェクト全体を展示として見せることに成功していた。
構築のスペクタクルは、必ずしも実体を伴うとは限らない。たとえば2010年夏に第一回が開催された「ニッポン建設映像祭」は、戦前〜戦後にかけての建設中の映像を公開するイベントだった。その映像は構築のスペクタクルそのものを捉えており、誰もが理解できるようになっている。
逆に建物内部に濃密な構築のスペクタクルがあっても、傍目にはまるで理解されないものもある。平城宮跡に復元された《第一次大極殿》は総工費180億円と最先端の研究技術が投じられながら、傍目にはわかりにくいゆえに、人によっては平城遷都1300年祭のために用意されたハリボテだと勘違いしてしまう。

「建築はどこにあるの?」/「建築のあたらしい大きさ」

●A2
こうした状況を踏まえて、2011年を考えてみたい。いま構築のスペクタクルをわかりやすく現在進行形で見せてくれるのが、秋竣工予定の《東京スカイツリー》だ。その工事現場は川に面して大きく開かれ、作業員やトラックが行き交う様子をスペクタクルとして、おそらく意図的に見世物のように扱われている。周囲は平地で川沿いなので、足元からてっぺんまでよく見える。タワー自体や商業空間の魅力にもかかっているが、竣工後もスペクタクルとして存在し続けることができる稀有な場所に建っている。
森美術館では夏に「メタボリズム展:都市と建築」が開催される。その先には2012年春に延期された仏ポンピドーセンターでの日本の戦後建築の展覧会もある。こうした企画の背景には、メタボリズムが構築のスペクタクルをイメージしやすい点があるだろう。
2月2日から21_21 DESIGN SIGHTで開催される「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展にも注目したい。重力との関係を圧倒的に見せつけた《ミス・ブランチ》など構築技術を背景に浮遊感を表現したプロダクトはいまあらためて発見できる価値がありそうだ。エットレ・ソットサスとの関係によってクラマタが自身のデザインを発見するプロセスもわかるだろう。
誰もがログを残しながら生きる時代だからこそ、鑑賞の解像度は上がっていく。建築に限らず作品やコンテンツは、濃く、多元的で、時間変動的で、噛みごたえがあるものが求められる。
しかし個人的に興味があるのは、《第一次大極殿》のような知られていないゆえにスルーされる背後の事情である。細部に至る古代技術の復元、貴重な樹齢200年以上のヒノキの大量使用、大空間を実現する古代の構法の再現。大ネタコネタが一見ハリボテ的な建物に詰まっている。こうしたことが広く知られていくとどうなるだろうか。モノの見方が変わり、さらに解像度が上がるだろう。目に見えないものまで可視化できる点は、情報化社会の可能性のひとつだ。解像度を上げれば、多くの人が面白さを共有できる建物もあるだろう。そこにフォーカスできるかどうかは発見や説明、情報開示にかかっている。自分の活動の方向としては、スルーされがちな面白いものの解像度を上げることを考えている。

「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展カタログ/《東京スカイツリー》(建設中)/《第一次大極殿》[写真はすべて筆者撮影]

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