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特集:200912 ゼロ年代の都市・建築・言葉 アンケート<

大山エンリコイサム

Obey Me──撮影空間から都市空間へ


fig.1──映画『フォーン・ブース PHONE BOOTH』TM and © 2002 Fox and its related entities. All rights reserved.

ひとつの電話ボックスのなかだけで物語が進行することで話題になったジョエル・シュマッカー監督の映画『フォーン・ブース PHONE BOOTH』は、2002年に製作されたが、アメリカで起きた狙撃事件のため本国では2003年4月に、日本では2003年11月に公開された。いわゆる普通のサスペンス型エンターテインメントであるこの映画が、今日の都市空間を考えるうえで興味深い事例として読み替えられるのは、画面上に映り続ける「あるもの」に気がつく瞬間だ。それは、映画の舞台となる電話ボックスの背後に貼られた、グラフィティ・アーティストOBEY GIANTことシェパード・フェアリーの有名なステッカーである。OBEYのステッカーはグラフィティとして世界中に貼られているが、この映画では最後までほぼ一貫して撮影場所が変わらないため、おそらく半ば偶然、半ば意図的に背景に映されたこのステッカーが頻繁に画面に現れてくることになる[fig.2, 3]。

fig.2──ストリートに貼られるグラフィティ・アーティスト OBEYのポスター Copyright OBEY © 1989 - 2009. All Rights Reserved.


fig.3──電話ボックスの後方左に四角いOBEYステッカーが3枚貼ってある

まず、簡単にストーリーを確認しておこう。舞台はニューヨーク。携帯電話の所持率が急増する一方で公衆電話はその数を減らし、8番街53丁目で唯一使用可能な電話ボックスも近日中に取り壊される予定だ。このボックスに、主人公スチュがやってくる。コリン・ファレルが演じるスチュは業界人のパブリシストで、携帯電話を駆使して俳優やタレントの卵を各方面に売り込む、いわば「有名になりたい無名人の欲望」を操作する存在だ。彼自身も、自らの立場を維持することで、変動の激しい業界のなかでプライドと固有名性を確保しているように見える。そのスチュが、53丁目のフォーン・ブースから愛人にかけた電話を切った直後、突然この電話が鳴り響き、その受話器を取ってしまうところから映画は本筋に入っていく。見えない電話の相手は、スチュが奥さんに秘密で愛人をつくっていることや、有名になりたいタレント予備軍の欲望を利用して、本当は小物の自分にかりそめのステータスを与えていることを非難する。そして、自分は今近くのビルからスチュを監視しており、電話を切ったり命令に背けば射撃する、と告げるのだ。その後、殺人が起こり、警察やマスコミが駆けつけすべての状況が街頭のテレビで放映されるなか、スチュと見えない電話の相手、警察との駆け引きが展開する。

この映画の中心には「無名の大衆と有名性への渇望」というテーマが設定されていると同時に、固定された公衆電話から遍在性の高い携帯電話へという都市空間でのコミュニケーション作法の変化や、不透明な権力による管理型社会のメタファーなどがそこに折り重ねられ、複雑な編み目をなしている。例えばスチュは、街中を動き回りながら携帯電話を多用しパブリシストとして暗躍する(=他者の有名欲をコントロールしつつ自らは不在に留まる)が、すぐ後で電話ボックスに閉じ込められて見えない電話の相手に監視され、さらにテレビで報道されてしまう(=不在の視線にコントロールされつつ歪んだ有名性を獲得する)[fig.4]。

fig.4──街頭のテレビに映し出されるスチュ

このようにいくつかの今日的な問題を想起させつつも、しかしこのプロットは、最終的にスチュの傲慢な生き方に対して自戒を強いる教訓ものとして機能している。犯人は捕まる前に自死し、スチュは無事に生き延びてそれまでの自分を反省することで、プロット=物語はいわば困難を経たうえでの解決へと無難に収束したように思えるからだ。しかし最後に、死んだはずの犯人が実は偽物で、本当の犯人はまだ生きていることを示唆するシーンが短く挟まれ、不気味な余韻を残したまま映画は終わる。

撮影空間に映りこむOBEYのステッカーは、このラストシーンの不気味さに直結している。というのも、この不気味さは「映画のなかの物語」と「映画のなかの映像」の奇妙な関係から発生してくるからだ。すでに述べたように、この映画においてプロット=物語は教訓ものとして描かれ、犯人は一度死んだことになり事件は解決される。ハリウッド映画としては基本的なパターンだ。だが、この「物語の水準の犯人」とは別の真の犯人とおぼしき人物が、完結したはずの物語をくつがえすかのように、オーバーラップされた歪んだ映像のなかで最後に一瞬登場する。この人物はしかし、一連の事件の真の犯人と読み取れるため、あくまで物語の水準にも関わっている両義的な立場だと言えるだろう。普通に映画を鑑賞していれば、この点までは誰しもが了解できる。しかし、OBEYのステッカーに気がつくことができれば、映画の冒頭でのスチュと見えない電話の相手の次のやり取りが、もうひとつの視点を与えてくれるはずだ。

見えない電話の相手「お前は私に従うことになるだろう。 You're going to learn to obey me.」

スチュ「お前に従う? Obey you?」[fig.5]

fig.5──スチュと見えない電話の相手のやり取り

その後の映画の展開を決定づけるこの重要なセリフにおいて「Obey(従う)」という言葉が象徴的に用いられていることは、この会話がなされている電話ボックスのすぐ後ろに貼ってあるOBEYのステッカーが、見えない電話の相手を表象するイメージであることを暗に示唆している。しかし、そのことは物語のなかではまったく示されず、ステッカーはいわば映像としてのみそこに埋めこまれているに過ぎない。つまり、死んだとされる「物語の水準の犯人」、そして真の犯人と考えられる「半-物語的な犯人」とは別に、見えない電話の相手そのものの直接的なイメージが、OBEYのステッカーとして映像の水準に表出しているのだ。映画の最後に登場する「半-物語的な犯人」の不気味さは、物語の外部に潜む「見えない電話の相手=OBEY」が発する不気味さの、ほんの断片でしかない。

一方で、主人公スチュの本名がスチュアート・シェパードであり、よく知られたOBEYの実名シェパード・フェアリーと重なるという事実から「見えない電話の相手=OBEY」が同時にスチュを表わしていることもわかる。一般にグラフィティ・アーティストは本名とは別のタグネーム(グラフィティ用の名前)を都市空間に刻み、グラフィティの世界における有名性獲得の競争は主にこのタグネームによって展開される。本名は度外視され、まったく知られず無名状態に留まる場合も多い。その意味で、有名/無名をめぐるこの映画において、見えない電話の相手とスチュがそれぞれOBEY/シェパードとして対応しているという事実は確かに興味深い。しかし、セリフや人名で表わされるこれらの関係は、スチュと見えない電話の相手の「対関係」を依然として残したまま、スクリプト=物語の設定に部分的に組みこまれている。むしろ重要なのは、物語の水準での対応関係ではなく、その外部にある映像の水準であり、そこにおいてスチュと見えない電話の相手は対関係を逃れ、OBEYのステッカーのイメージのなかに溶けこみ合いながら同時に表象されているのだ。

さらに言えば、公衆電話と携帯電話における固定/遍在の関係や、見えない電話の相手とスチュの間の管理/従属の関係などの物語の水準における対関係の図式を、OBEYのステッカーは映像の水準において無効化する。例えば、現実の都市空間ではあらゆるところに無数に貼られているこのステッカーは、その遍在性ゆえにこそ、撮影場所が固定されたこの映画の画面に終止現われ続けることができたのであり、またそれが画面に映り続けるからこそ、観る者は嫌でも映画のなかの空間を超えて現実の都市空間へと想像を広げてしまう。そして、現実の都市空間においては一般に管理と排除の対象とされてきたグラフィティが、この映画のなかでは逆に「従属(Obey)」を要求しうるものとして、特権的な立場を獲得しているのだ。

ゼロ年代の都市空間を考えるうえでのいくつかの重要なキーワード──有名/無名、固定/遍在、管理/従属。スチュと見えない電話の相手の関係性のなかに織り込まれたこれらの対概念を、物語の水準と映像の水準を行き交いながらOBEYは功みにはぐらかしていく。もはや明らかなのは、OBEYの反復運動が最終的に企てているのは、映画の画面から現実の都市へとジャンプオーバーすることだろう。物語の水準から映像の水準へ、そしてさらに現実の水準へと鑑賞者の思考を引きずり回すOBEYのステッカーは、まさにあらゆるところに遍在しつつ、撮影空間を都市空間へと分解しようとしているのだ。
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