美術館の現場から[2]
Dialogue:美術館建築研究[6]


 建畠晢
 +
 青木淳


●ホワイトキューブのフィクション
建畠氏
建畠氏
建畠──美術は非常に多様化してきていて、それにともなって美術館もフレキシブルにならなくてはならないのですが、MoMAのディレクターであったアルフレッド・バー・ジュニアが「美術館は極力柔軟であるべきであるが、美術館は無限に可能性があるわけではない」と言っていて、ぼくは、これは非常に正論だと思うのです。それから、美術館、ホワイトキューブに入ることについて、アドルノは「作品の本来の生がそこで死ぬことによって第二の生が生まれる」と言っている。作品は、本来置かれるべき場所から持ち出され、購入されて美術館に置かれることで、第一の生の直接性を失うのですが、さきほどおっしゃったようなおぞましさ自体を作品の価値とするものは、第一の生を殺せないわけですから、そのなかにおぞましさを保ったままでは入り込むことができない、よってそういったものを美術館のなかに受け入れることはできない。もしそれができれば、ホワイトキューブもその作品も変質してしまう。このように良くも悪くも美術館がすべての美術作品に対応することができないということは自明の理であって、もちろん極力柔軟に運転していきたいし、美術館をひとつのメディアとして考えて、そのなかでホワイトキューブのスペースだけでなくてさまざまな空間を使って美術だけではないあらゆる表現を受け入れたいとは思うけれど、美術館もすべての展示空間のオルタナティヴのひとつであって、基本的には生み出された第二の生を作品展示できる美術館という場所というのは根元的には払拭できないことです。もし払拭できないことによって美術館の使命が衰弱していくというならば、それは美術館の時代が終わったということであって、なにも延命させる必要はない。必要がある限り生きていけばいい。いろいろなことをして美術館の機能を無理矢理拡げていくこと自体は美術館の内部にいる人のモチベーションになるかも知れないけれど、芸術全体の現象となることはないから滅んでいくのならば滅んでいけばいいんじゃないのと一方では思うわけです。ただ、その枠組みのなかには、さまざまなオルタナティヴがあるなと思っていて、そういう意味で青森の美術館はもっとも過激なオルタナティヴであるような気がします。さきほどホワイトキューブはおぞましいものは入れられないとおっしゃいましたが、いちおうキューブではあるし、基本的には美術館としての枠組みも守っているけれども特殊解としてそういったのも許容するような空間ですよね。
青木氏
青木氏
青木──いや、もしかしたら余計な延命をしているのかもしれません(笑)。ただ同時に、美術館側もだいぶ前から、それまで美術館では考えられなかった内容のものを積極的に取り入れようとしているように思えます。たとえば、ポンピドゥー・センターで1989年に「大地の魔術師たち」展がありました。
建畠──「大地の魔術師たち」展はひとつの転換点だと思います。広い意味でのマルチカルチュラリズムがテーマでしたね。いまは神話化されて非常に高く評価されていますが、当時は評判が悪かった。正直に言ってぼくも会場では否定的な感想を持ちました。アジアやアフリカといった特殊な地域へいって、文化人類学者らと3年に渡って文化人類学的な方法を用いたリサーチをして、アフリカや東南アジアの奥地の大工さんや住民たちによるブリコラージュ的な方法による土の家とか壁画などを会場で再現した。そして、ダニエル・ビュレンヌとか宮島達男といったアーティストたちと同じスペースに等価なものとして並べるという、非常にラディカルな事をしたわけです。ちゃんとしたリサーチに基づき、モダニズムの先鋭のアーティストたちと第三世界の作品を等価に並べて扱かったということは非常にフェアな事ではあったけれども、ポンピドゥーであったりラヴィレットという非常に近代的な文化装置のなかでそれらを再現したことに、ぼくは疑問を持ちました。イデオロギー的には非常に素晴らしかったが、展示については疑問を感じたわけです。それは非常に大きな自己矛盾を孕んでいました。つまり美術館の概念を拡幅するという一面があると同時に美術館のタブーを侵したというか、あの展覧会を契機に美術館の展覧会の方法は拡大はしたけれども、本来の野生の思考をある意味で近代的な装置に取り込むことで矮小化してしまった、そういう両面性があったのではないかと思っています。
ポンピドゥー・センターというのはホワイトキューブとはいえないけれども、近代的な文化装置であることは間違いない。ラヴィレットもそうです。近代的な文化装置としての美術館をホワイトキューブと規定したときに、さきほどは無根拠とおっしゃったけれども、ホワイトキューブというのはある意味では虚偽の空間だと思うんです。ブライアン・オドハティという人が言った「カルテジアン・パラドックス」=「デカルト主義的逆説」という言葉があるのですが、これはホワイトキューブ、または美術館へ人が入るときに純然たる眼の人になるということです。たとえば、美術館に入るときに身体を入り口に預けるわけです。肩に食い込む重い荷物とか手に邪魔な傘とかをコインロッカーへ預ける、つまり身体を覚醒させるようなものを除去するという儀式をとり行なわないと美術館へ入れないわけです。そのあとの身体というのは「眼を運ぶ運搬機」に過ぎない。ホワイトキューブの写真を撮ったときに、実際のギャラリーには見る人の身体があるはずなのにそこには誰の姿も映っていないと彼は指摘しながら、そこで身体だけを切り捨てて純然たる眼の人となることを「カルテジアン・パラドックス」と呼んだわけです。ホワイトキューブは、そういった虚偽性といえるような、約束事のウソの上に成り立っていると思うんです。そこでのフィクションがあってはじめて、MoMAで生み出された均質でかつ交換可能なホワイトキューブという空間が成立するわけです。そういう近代美術の背景にある作品の自立性というものを保証しているひとつの大きなフィクションというか虚偽があって、そうであるが故にはわれわれは身体を預けて眼の人になるというような人間としての犠牲をしいられているわけです。そういった大きなフィクションの構図のなかで美術館が営まれていて、そのフィクションを打ち壊せ、本質をあばけといってもすぐにそのこと自体がモダニズムの無根拠性にぶちあたってしまって、いかんともしがたい状態になってしまう。これは解決しがたいアポリアであって、美術館人としては、そういった大枠を認めたうえで現実的、具体的に対処していくということを求められているのではないかと思うのです。

PREVIOUS← →NEXT