.
.

  . 石川初
学芸出版社
2001年6月発行
定価:本体2200円+税
ISBN:4761522631
.
ランドスケープは、ここ数年、その言葉自体は急速に普及したものの、その言説にはいまだに混乱があり、語る人の立場や専門分野によって様々な解釈が施され、メディアによる操作も加わって、明確な定義をむしろ困難にしている。本書はこのような、ランドスケープという言葉が「様々な角度から伸びてくる手によっていじくりまわされて、手垢がつきはじめている」状況に対して、少なくともそれを議論の俎上に乗せるための、概念の整理を試みたものだ。著者によれば、この混乱は、日本の造園/ランドスケープが内在している両義性によるものであり、ランドスケープアーキテクチュアの職能像に則ってこれを正確に定義するには「ランドスケープにまとわりついたこの両義性の意味を逐一検討することが不可欠」なのだ。
本書は1998年の2月から12月まで、雑誌『造景』に連載された論考を中心にまとめられている。全体は、8つのキーワード、造園、モダニズム、素材、エコロジー、アート、コラボレーション、制度、風景モデル、によって章立てされ、それぞれのキーワードをめぐって、ランドスケープデザインのそれらの対象へのアプローチの方法と価値観が語られる。
まず俎上に乗るのは、日本の造園である。著者によれば、日本の近代の造園は、その黎明期においてはランドスケープアーキテクチュアへの発展の予感を内包していたものの、やがて官や大学の職域に回収されてしまい、その職能像は個人ではなく制度に従属する概念になってしまった。アメリカのランドスケープアーキテクチュアと比べると、日本の造園はいわばランドスケープになりきれなかった分野である。
この「造園ではない」ランドスケープデザインという言い方は、本書にも何度も登場する。たとえば、素材の項においては、造園がその記号的形態の獲得を指向するのに対して、ランドスケープデザインは素材の物質性を指向する、とされる。また、風景モデルの項では、造園が予定調和的な自然風景を公共に対する責任回避のツールとして用いるのに対して、ランドスケープデザインは時代と状況に即した新しい風景の規範を探り続ける、という。
このようなデザインのアプローチは、ランドスケープに限らず、建築からプロダクトデザインまで、様々な分野に共通する、現代的な態度ではある。著者がことさら、ランドスケープデザインの価値観を明らかにすべく日本の造園を引き合いに出すのは、造園/ランドスケープの外部からは、いささか奇異に映るかもしれない。実はこのことが著者の問題意識の立脚点を図らずも(あるいは意図的に?)示しているようにも思う。ランドスケープアーキテクチュアの思想・方法と、造園的現実との二重性は、日本の造園/ランドスケープの歴史において失われた50年を取り戻すために、著者自身があえて引き受けている問題であるようにも見えるのだ。
いまでも、造園/ランドスケープの教育機関や産業界の内部では、造園的な価値観はきわめて強固であるし、一部では、近年の環境問題への関心の高まりや、近代欧米的な政治・経済・文化のグローバル化への反動的な気分(たとえば「癒し」の流行)を盾にして、意固地にその傾向を強めている。これに対して、造園の相対化が自明のことであるとするにはいささか強い調子の語り口(それは、造園に違和感を覚えている当事者にとっては膝を打つような文章なのだ)に、著者の戦略を見るのは穿ちすぎだろうか。実際、農学・造園系の学生の間では一種のサバイバル・ガイドとして読まれることもあるだろう。
とは言え、既存の造園/ランドスケープの専門領域の内部の問題を照射することが本書の意図ではもちろんない。特に日本のランドスケープについてはこれまで、断片的な論考はあったが、横断的なものはほとんどなかった。これは、既存の学術団体や産業を越えたところに高次のパラダイムを構築しようと格闘しているトップランナーの一人から提出された議論のテーブルなのだ。今後、ランドスケープをめぐるこうした議論が継続されれば、より多くの「ランドスケープデザインの視座」の獲得と共有と、批評の地平の展開があるだろう。そして、そこには、アメリカで発達したランドスケープアーキテクチュアの思考そのものも俎上に乗るかもしれない。