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野村俊一

表紙 INAX出版
2000年10月20日発行
定価:本体2200円+税
ISBN4-87275-098-5 C0352

〈青木淳氏と対話者〉
上から
西沢立衛氏、西沢大良氏、
塚本由晴+貝島桃代氏、
梅林克+藤脇慎吾氏、
曽我部昌史氏、
手塚貴晴+手塚由比氏、
川俣正氏、諏訪敦彦氏、
津村耕佑氏、妹島和世氏、
伊東豊雄氏
一番下は質問者
五十嵐太郎氏、松田達氏と
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本書はINAX主催の「住宅フォーラム」で繰り広げられた、ホスト役の青木淳とゲスト役の11組の製作者とによる対話の記録である。テーマは「つくること」。対話の現場ではまずゲストが最新作を中心に発表し、それをもとにホストが各ゲストからテーマに即した見解を聴きだした。後にはその対話のもと、学生から質問が飛び交った。これらの発言が絡み合った結果 として、本書は住宅を「つくること」に関するゲストたちの見解を知りうる資料として結実している。そして本書の特徴として、他の『住宅論』と銘打たれた書物と違い、本文には筆者青木淳の固有名に付随する生々しさが充満していないことを挙げられる。
本書は大きく4章からなり、フォーラムの対話順に並べられている。ここで彼/彼女らの見解の差異を明確にするべく、ゲストの発言を中心に単純化して見てみよう。
〈第1回〉のフォーラムには30代の建築家が登場し、「つくること」とともに、具体的な住宅の構成についての対話がなされた。1番目のゲスト、西沢立衛は建物を制作するさいにつきまとう複数の「ルール」を創造的に扱う。例えば彼は、生活を表象・代理する「nLDK」の構造を少し変えることで、施主へ自由の感覚を提供することを説いた。2番目のゲスト、西沢大良は古典的な用・強・美とは別 の、ヴォリュームの質に関わる「規模」という範疇を提出した。これには他者も使える説得力があり、多様な建築を生産しうる制作術として批評の意味があるのでは、と説かれた。3番目のゲスト、塚本由晴+貝島桃代は《ミニ・ハウス》において、安定した図式としての空間が捉えられる以前の多様な状態を「空間の勾配」として仮定した。建築を介して「空間の勾配」から環境のゲシュタルトをさまざまに捉えさせるべく、彼/彼女らは敷地周辺の具体的な環境を詳細に観察し、構成要素の建ち方に留意する。
〈第2回〉のフォーラムにも30代の建築家が登場し、主に「つくること」の話題を中心として対話が繰り広げられた。1番目のゲスト、梅林克は高度資本主義経済をインフラにした「企画型商品住宅」に可能性を見る。この主眼は、施主の多様な生活を許容しうる「ワンボックス」のソフトウェア開発にこそあり、それををいかに流通 、生産させるかが意図される。2番目のゲスト、曽我部昌史は設計を施主と建築家とが共に楽しくあるための「ゲーム」にたとえる。彼が望むゲームでは、施主と建築家間に特権を与えられることがなく、また「ゲーム」のアイテムは建築の分野で使われているものに限らず広く選択される。このような初期設定の「ゲーム」のただなかで、対話を介した結果 の「パッケージ」が指向される。3番目のゲスト、手塚貴晴+手塚由比は生活者の自由を発揮させる、品質の良い「スタンダード」な箱を指向する。そのためには経験から抽出される「ダイアグラム」が必要であると説いた。
〈第3回〉は2日にわたって、建築以外の領域で活躍する製作者との対話が繰り広げられた。1番目のゲスト、美術家の川俣正は環境へ異化でも同化でもない、擬態とでもいえる態度を反復して「アノニマス」な状況を指向する。この態度は他者を誘発し、新しいコミュニティの再編を可能にするのでは、と説かれた。2番目のゲスト、映画監督の諏訪敦彦は映画『M/OTHER』において、コード化された「家族」という物語では把持できない、個別 の家族成員における「他者」の他者性という現実を撮影するために、脚本を破棄した。そして彼は、現場状況や人間関係をも含めた総体としての、ぎこちないが生きられるモンタージュを指向する。3番目のゲスト、ファッションデザイナーの津村耕佑は究極的な家としての「ファイナル・ホーム」を制作する。この服は機能的な被膜で体と、外的影響を受けやすい精神を庇護する。精神のタフさを得ることが可能であれば、体を覆う文字通 りの被膜が必ずしも必要ではないことも示唆された。
最後の〈第4回〉のフォーラムでは世界でも活躍するライト・コンストラクションの建築家たちとの対話が繰り広げられたのち、青木自身が質問を受けた。1番目のゲスト、妹島和世は内部と外部、住宅と都市や社会との関わりについて留意する。そして彼女は抽象的なプランが標す境界と、具体的なテクスチャーが標す境界に着目し、それら双方の関係から成る建物のあり方が、そのまま都市に対するあり方であると説いた。2番目のゲスト、伊東豊雄は施主が一般 性に満ちた均質な世の中に対峙しうる「生の身体」を復活させるべく、リラックスできる住宅を指向する。そのために彼は素材を「等身大」――対象を観念的に操作しない態度――に扱うと同時に、スケールの問題に留意する。そして彼はある図式が具体的な現実でいかに成立するかという過程に興味があると述べた。最後に、ゲスト役としての青木淳は「空間の質」を誘発しうるジェネレーターとしての「形式」を提案した。「空間の質」とは建物の内部と外部が幾重にも相互補完的にある、時間概念と関係のない状態を意味している。そして青木はこれら「形式」と「空間の質」どちらにも建築家は責任を持つべきだと説いた。
上記をふまえると、彼/彼女らの見解はフォーラムの会期や世代のカテゴリーに還元できない多様なものとなっていることがわかる。特に「つくること」といった「行為」を対象化しようとする青木の意図が対話中に働いているため、主に制作行為における見解の差異が読み取れるだろう。あえて共通 点を挙げるなら、彼/彼女らはおおむね、施主などのさまざまな他者について留意していると言えよう。
「行為」は主体としての自己に関わるが、同時に他者の存在にも大きく影響を受ける。この他者の捉え方如何で、自己や「行為」自体の定義は大きく揺れ、多様化することになるだろう。そしてここには住宅が改めて問われる理由が潜んでいる。かつて住宅は、人間の生活を端緒に集約し、かつ世界に対峙しそれを描くための特権的な位 置として語られた。観念論的主体の砦。しかしその主体としての自己は、他でもありえた可能性の否定として選択されたものである。そして逆に言えば、自己は選択において否定された潜在的な可能性を持ち合わせている。このように考えると、自己のみならず、その自己を実現させると語られた住宅すらさまざまな他者に晒されていると言えよう。当然住宅の外延はゆらぎ、具体的な他者へと意識は流出する。住宅についての思弁にはこの問題が顕著に現われるのである。そして12人による「つくること」の差異は、製作者ごとの現状に対する切実な反応、つまり他者の他者性に対する把握の差異が起因していると言えるのではないか。
これらのことも含めて、本書はどのように捉えられるべきか? 一方では、本書は各々の製作者による「つくること」の実験行為を参照することができる、住宅にまつわる他者の問題を視野に入れた具体的な実践のためのカタログとして機能するだろう。また一方では、本書は製作者にまつわる主体の固有名、動機や目的、意志や立場、それらに付随する責任や倫理などを打ち立てる可能性について再考することができる触媒として機能するだろう。いずれにしても本書は、イズムやスタイルを打ち立てることが困難な現状において、それでも住宅を志向する者が思弁し実践するための参考資料のひとつとして機能するはずだ。
ちなみに僕は幸運にもフォーラムの現場に立ち会うことができた。そしてそのとき、それぞれの対話から奇妙な〈違和感〉を感じたのだ。本書を手にした今、この〈違和感〉は、僕のなかの先に記した双方の立場へどのように決着を付けるかという意志がもとに生じたのでは、と思っている。