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鈴木明

表紙 吉良森子+寺田真理子編、
NAi Publishers、2000
展覧会期間:
2000年10月21日−
2001年1月14日




《六本木ヒルズ》
森ビル《六本木ヒルズ》
(カタログより



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写真提供=淺川敏

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トータル・スケープと聞いてまずひらめいたのは、オランダのサッカー、すなわち「トータル・サッカー」であった。ロッテルダムの人々は、これはアヤックス・スタイルであって、オランダのスタイルではないと言うのだが、チャンスとあらば全員が攻撃に参加し、時にはゴールキーパーさえ攻撃の要となる、総力戦式、超攻撃型のサッカーである。基本的に守備を中心に戦略化してきた現代サッカーの認識を180度転換させ、1998年ワールドカップでその実力を見せつけた。もちろん、このようなサッカーを成立させるには、選手個々の能力がずば抜けていなくてはならないが、個人の能力が高ければ、自動的にトータル・サッカーが得られるのではない。トータル・サッカーは練りに練られた「戦略」である。
本書は、もちろんサッカーの本ではなく建築の本である。日本の現代建築をオランダに紹介する展覧会(NAi[オランダ建築博物館])のカタログであるし、上に挙げた私の勝手な思いこみのような、すなわち総力戦に持ちこむだけの建築家の能力の有無をここで問うているのではない。
サッカーの勢いを借りてここで結論を明かしてしまおう。本書の主題は個々の建築家が与えられたポジションで務めを果たすだけでなく、より大きなランドスケープを取りこんだ「攻撃的な総力戦」が必要であると説くことにある。また、その総力戦にはポジティヴな戦略が必要であることを忘れてはならない。いままでの日本の現代建築の(海外での)高い評価が、個々の建築家の個人技によって得られていたのだから、これは建築家に大きな認識の変革をせまるものである。
「日本の風景は大都市から自然へとつながる境界のない連続体だ」。クリスティン・ファイライス(NAi館長)のこの印象は、日本建築展を企画し、構想を練るために、日本の津々浦々を建築行脚した末の結論である。そこから展示やカタログは「旅行」のスタイルをとる。旅行の目的地は定かではない。しかし、大都市から山奥に至る過程で遭遇する個々の建築は、風景の移ろいを巡る旅行者の連続的な印象のなかに位置付けられる。
都市計画によって国土の隅々までを計画し、「自治体、開発業者、設計者、居住者などすべての関連団体を計画から設計の段階まで巻き込む」オランダのスタイルに対して、「個々の建築のデザインの特徴が結果的に場所の個性(identityof a place)を決定する」日本のスタイルに画一的な郊外都市建設の連続を断ち切る可能性を見出している。もちろん、このコメントをわれわれが額面通りに受けとめるわけにはいかない。なぜなら本カタログはまずもって、NAiで開かれている日本建築展のためのものであり、オランダの建築システムに馴染んだ、オランダの読者に向けたものだからである。
さて、日本人の編者(吉良森子[在オランダ建築家]、寺田真理子[NAi])は、個々の建築デザインが与える場所の個性それぞれにコメントを与えるのではなく、同じく切れ目のない日本のランドスケープに注目したのだが、それに甘んじることなく、そこに裂け目を入れる戦略に出た。「大都市」、「都市(地方都市)」、「農村」、「自然」、「人工」の5つのランドスケープにカテゴリー分けしたのである。なかでも地方都市はグローバリゼーションとローカリゼーションを同時に行なう可能性のあるランドスケープとし、明治以来の流入文化の果てにあるルーツの辿りようのない人工的なランドスケープは、むしろ日本文化のなかに「選択性」という軽さをはぐくんだものとして評価する。
一方、「農村」のランドスケープに対する定義は非常に曖昧である。ここは本書に繰り返し出てくるキーワード「郊外」に象徴される、だらだらと広がる都市の残滓なのであり、ランドスケープの連続性は実は、この無計画地帯にあるのだが、編者はこのランドスケープさえ、評価しようとする。
「エツコ」という、編者らによって生み出された仮想の少女はこのランドスケープに育ち、情報ネットワークを頼りに自立する、がやがてこのランドスケープによってはぐくまれた肉体を取り戻すという。エツコのモデル、タカマス・ヨシコの寝室は、渋谷にたむろするイノセントな少女たちにも受けそうだが、残念ながら渋谷や東急沿線にはない。その敷地は東京郊外でもない。妹島和世やみかんぐみやアトリエ・ワンといった「スーパーフラット」な世代の建築家の作り出す建築に比べると、確かにざらざらとした「空間の質」がある。
一方、五十嵐太郎は、このランドスケープを特化することなく都市のオタク文化と同じく「スーパーフラット」であるとする。そしてその表現である「エフェメラル」で、「リテラル」な「透明性」や「ライト・コンストラクション」な建築群が、「セレブリティ」であることを止めたグループ建築家によって生み出される様を一様に評価する。そうなのだろうか?
注目すべき公共のプロジェクトということで「くまもとアートポリス」が挙げられている。県都である熊本市の中心部を除いて、ほとんどが「農村」のランドスケープのなかに作られたこのプロジェクトの建築群は、渋谷あたりの、すなわち、都市的なテイストをもっているはずの同じ建築家によっても、やはり「スーパーフラット」な建築にはなりえず、どことなく「空間の質」をもち続けてしまっていることも事実である。そのことは、「エツコ」のストーリーに出てくる現代的だが、どことなく牧歌的な神話が萌芽しているということなのだろうか? だとすれば、このランドスケープに対して引き続き建築家が関与する可能性はある。
しかしながら、日本経済が破綻し過疎化が進むなか、さまざまな補助金がつぎ込まれ、それを目当てにした地元の小規模なゼネコンの数はかえって増え続けているのもこのランドスケープなのだ。この捩れたローカル・ポリティクスが同じランドスケープによるものだとすれば、そこにはスーパーフラットではなく、限りなくリアルな戦略だけが必要になるのである。建築家は、そして「エツコ」も政治性という戦略をもたなければ、この「農村」のランドスケープを意味あるものに変換することはできないと思うのである。

本書では羅列された100を超えるプロジェクトによって埋没しているが、NAiの展示では圧倒的な存在感を示していたものがある。森ビルによる《六本木ヒルズ》である。5メートル四方の港区に置かれた、「スーパーフラットではない」超リアルなモデル(たぶん300分の1)である。何百人かの若い建築家が、蓄積された、木賃アパートからマンション、そして超高層ビルにいたる何万という「物件」のエレベーションや屋根伏せのデータを下に出力したハードコピーから組み立てたのだ、という。
正直に言うと、展覧会場入口に置かれたこのモデルの前で、私の思考は停止してしまった。「森ビル」は神の視点を獲得してしまったのか?と。少し落ち着いた今なら冷静に考えられる。この膨大なデータを蓄積した建設主体は、このランドスケープを「スーパーフラット」にデザインすることも、あるいは「空間の質」をもちうるランドスケープとすることも可能なのかもしれない、と。いわゆる「ソリューション」技術である。経済効率だけではない、さまざまなパラメータを投入して探ることのできるソリューションを期待したい。もちろん、この「ソリューション」は森ビルだけが独占してもつべきものではない。「農村」のエツコこそが、別 のソリューションをもたなくてはならないし、分散化した情報ネットワークのランドスケープはこのことを可能にするのである。
編者が言うような「ランドスケープ形成のシナリオ」化という戦略だが、本書には暗示されているだけである。大野秀敏の言う「減築」然り、「エツコ」も然り。しかし、オランダの建築展という鏡を通 して見えてきたものは、日本建築や東京を必要以上に特化してきたかつての建築や都市の言説、つまり戦略のない自己評価にはなかったものである。
「スーパーフラット」という座り心地がよく、多分にナルシスティックな自己評価は、またしてもサッカーの連想を誘う。「フラット・スリー」だ。外国人監督フィリップ・トルシエによってもたらされたディフェンダーの布陣なのだが、勘違いしてはいけない。この布陣は防御のシステムではなく「オフサイド・トラップ」という攻撃的な戦略である。トルシエは言う。「日本人にイタリア的な防御型サッカーが似合うと言うが、勝てなかったではないか。日本人にはオランダ型の超攻撃的なサッカーこそがふさわしい」と。
最後に本の構成にも触れておこう。すべてのカラーページのスナップ(風)写真は、写真家淺川敏が大都市から大自然までを旅して撮影し、何のキャプションもなく並べられ、100を超える日本の現代建築家の作品は、参考文献のように羅列されている。攻撃的な編集方針である。